秋の灯のふつと消えたり百二歳     大澤 水牛

秋の灯のふつと消えたり百二歳     大澤 水牛 『合評会から』(日経俳句会) 智宥 大往生なのでしょう。「秋の灯のふつと消へたり」とぴったりで、素晴らしい句です。 反平 心情のこもったいい句ですね。ご長寿が「ふつと消える」に表現力を感じる。 大虫 秋の灯の、消えて行き方。まさに大往生の感じがして、いただいた。 双歩 追悼句は難しいが、この句は肩の力を抜いた詠み方で、さらりと・・・ 而云 おっしゃる通りです。追悼句は先輩・友達・身内など、必然的に違う詠み方になりますね。 水牛(作者) 尾瀬吟行の帰りに携帯が鳴って、妻の母が逝ったと。泥だらけのズボンを替えて行って、「お疲れ様でした」と言うしかなかった。蝋燭の灯がふっと消えるようで、そのままを詠みました。 智宥 「ふつと」の「つ」が大きいですね。 水牛 現代句ですから「つ」は小さくてもいいのですが。        *            *  「功徳」という語がふっと浮かんだ。善行の結果、与えられる神仏のお恵み、ご利益のことである。(恂)

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天高し雲をかすめる観覧車       久保田 操

天高し雲をかすめる観覧車       久保田 操 『この一句』  列車や高速道路などから周辺を見渡して、「遊園地がある」と分かるのは観覧車が目に入るからである。日本では葛西臨海公園の百十七メートルが最も高いというが、もっと高いのが次々に建設されて行く予定だという。それだけ観覧車の人気が高く、遊園地のシンボルになっているからだろう。  観覧車に乗って眺めるのは、もちろん眼下の景色であり、上を見ることはあまりない。するとこの句の主人公は、地上から観覧車を見上げているのだろう。ご本人は高所恐怖症で、家族が次第に高く上っていくのを見守っているのかもしれない。あんな高くに、雲の間近なところまで・・・と。  秋晴れの日は、遠くから眺めても中の人が見える。お母さんと子供だな、などと思うこともある。それにしても「雲をかすめるとは」と思ったが、丘の上であれば十分ありうるだろう。祖母が下りてきた孫に「雲にぶつかりそうだったよ」と話していたかも知れない。なにしろ「天高し」の季節なのだ。(恂)

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戦国の石垣しかと天高し        徳永 正裕

戦国の石垣しかと天高し        徳永 正裕 『合評会から』(日経俳句会) 正市 いい句ですね。石垣が̪しっかり、はっきり残っているよ、と石垣のことしか言ってない。覇権をめぐった歴史を踏まえているのでしょう。石垣と季語との取り合わせが清々しい。 反平 わが故郷の熊本城は人気全国一でして、故郷愛もあって採りました。加藤清正の築いた石垣の反りを思い浮かべています。「しかと」という言葉を見つけたのもいいですね。 水牛 お二方のおっしゃる通り。私は小田原城にときどき行くのですが、石垣が実に格好いい。反った線に沿って視線を上げていくと青々とした空がある。 双歩 「石垣」と「天高し」は句に出てくるが、「戦国」を出したのがうまい。 万歩(メール選句) 「戦国の石垣」と「天高し」の取り合わせがいいですね。歴史上のドラマを色々と想像させるところも巧みです。               *         *  念のため「しかと」は「確と」です。広辞苑では最初に「相手を無視すること」と出てきたので、びっくり。(恂)

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地蔵撫で秋草撫でて風去りぬ   流合研士郎

地蔵撫で秋草撫でて風去りぬ   流合研士郎 『合評会から』(日経俳句会) 昌魚 秋の風の流れを表して、撫でるようにというのが面白い。「地蔵」と「秋草」を並べているので景も出てくるし、秋っぽくていいなと思いました。 正 風の動きを鮮明に描写している。地蔵と秋草に寂寥感があります。「撫で」のリフレインがいいですね。 冷峰 地蔵を撫で、秋草を撫でるというのが、秋の風そのものですね。さっと撫でていくのでしょう。 明男(メール選句評) いたずらっ子が風になって、地蔵、秋草を撫でて逃げて行った。そんな情景を思い浮かべるような。しかもスローモーション映画でも見ているような感じがしました。               *        *  地蔵さんに秋草、風はいうまでもなく秋風である。「つき過ぎじゃないの」という声も聞こえてきそうだが、この句の安定感は捨て難い。あらゆる仏像の中で、人々に、ことに子供やご老人に最も親しまれているのがお地蔵さんだ。「秋っぽくていい」という評に、なるほどと思った。(恂)

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月天心人の心の深き井戸        藤野十三妹

月天心人の心の深き井戸        藤野十三妹 『この一句』  「月天心」ときたので、「おっ、今回は蕪村風かな」と思ったけれど、人間の心の中を探るような一句であった。作者は「楽劇」で知られるワグナーの研究家で、毎夏、バイロイト音楽祭へ出かけて行き、帰ってくると「お金、遣い過ぎてなくなっちゃった」と嘆いている魔女風の女性である。  作風はおおよそ難解で、おどろおどろしいと思い込んでいたが、今までの句を読んでみると、そうでもない。時にはまともなのもあって、句会では「へえ、これが彼女の句?」なんて声も聞こえてくる。自分の俳句の世界を、みなさんに分かってもらえるようにと、心掛けているのかも知れない。  この句、月が中天にある。月光の降る深夜、心の井戸を覗いたら、自分の顔が写っていた、とでも言うのだろうか。それなりではあるが、分かり易さを類型に求めているような気がする。自分本来の流儀が薄れてはつまらない。五郎丸のように一心に、「えい」と蹴ってみたら、なんて考えている。(恂)

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秋晴れの何処かふるさと置き忘れ      河村有弘

秋晴れの何処かふるさと置き忘れ      河村 有弘 『合評会から』三四郎句会 久敬 しみじみとした句です。故郷をどこか置き忘れ――。作者は別のことを考えていて、ふと故郷のことを忘れていることに気づいて、感慨にふけっているのでしょう。 論 最初は、どういう意味かと思ったが・・・。秋空が余りにも澄み過ぎて、心に沁みて、ふと故郷を忘れていた、ということでしょうか。 崇 中七以下に現代人のアンニュイが感じられます。 進 何だかこの句には惹かれました。はっきりしないんですが、子供の頃を思い出しているのかな。 恂之介 「置き忘れ」は、長く帰っていない、という意味にとりました。「何処か」という言葉があるのて、ちょっと分かりにくくなっているのかな。。 有弘(作者) 望郷の念ですね。「ふるさと」は仮名書きの方が分かり易いと思いました。             ※            *  「ふるさとは遠きにありて思ふもの」ほどではない。うっかり忘れていた、くらいの感じがする。(恂)

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かまきりの頭かしげる昼下がり   吉田 正義

かまきりの頭かしげる昼下がり   吉田 正義 『季のことば』  蟷螂(とうろう)は森にも野原にも庭にもどこにでも居る。両前足の形から「カマキリ(鎌切)」と名づけられ、斧を振りかぶる恰好にも見えるので「斧虫」とも呼ばれる。また、得物を狙う時に鎌を畳んだ両前足を顔の前で合わせる姿が祈っているようなので「祈り虫」「拝み虫」という名前も持つ。秋になると交尾産卵のため活発に活動するので、秋の季語になっている。  向う気が強くて、自分より大きなバッタやトンボ、時には蜥蜴の子どもや蛙まで襲うことがある。葉陰などにじいっと待ち、得物が近づくと上半身直立、両前足で拝むようなボクサースタイルを取る。前足が届く範囲に得物が入るや、瞬間的に鎌を振り下ろして得物に打ち込むと同時に、強靱な牙でがしっと相手の急所に食いつき、がりがり貪り食う。俊敏かつ獰猛なハンターである。  この句はカマキリが頭をかしげているという、至極のんびりとした秋の午後の情景だが、実は修羅場が始まる寸前の静けさなのかも知れない。こんな風に、何事も無いような顔をするのも蟷螂の得意技の一つ。虫もだまされるが、俳句など作ろうという人間もころりとだまされる。(水)

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夜嵐の連れてきたりし秋の晴   石黒 賢一

夜嵐の連れてきたりし秋の晴   石黒 賢一 『合評会から』(三四郎句会) 正義 この頃の天気にぴったりじゃないかな。本当にこんな感じですよ。 論 前夜は大あらしで、朝になると、ぴたっと快晴になっていた。素晴らしい朝ですね。 而云 こういうことが今年多い。秋の空は変わり易いですから。           *       *       *  作者は「嵐の来た次の日に作りました。何も考えず、この通りの感じだったので、感じたままを句にしました」と合評会で述べている。  「台風一過」という言い古された四字熟語がある。台風が過ぎ去った後の秋晴れの上天気を言うのだが、この句はそれを改めて言っているに過ぎないようにも見える。しかし、「連れて来たりし」という措辞によって、単なる四字熟語の説明から脱することができた。  荒れ狂っていた嵐の夜が過ぎたら、なんとも平和で明るい上天気。それを「この秋晴れはあの嵐が連れてきたんだ」と捉えた。いわば逆転の発想である。これでウイットに富む句となった。(水)

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それぞれにスマホに見入る秋燈下   大下 綾子

それぞれにスマホに見入る秋燈下   大下 綾子 『季のことば』  「秋燈」という季語は「春燈」と対になって、とても人気のある季語である。燈火はどの季節であれ、それぞれに感慨を催すものではあるが、秋と春の燈がことさら取り上げられるのは、その光り加減から来るような気がする。  春は空気中の湿度が高く、霞とか朧とかいうように、周囲がなんとなくもわっとして、そこを通して来る光りも柔らかな感じである。それに対して秋燈は対象をくっきりと浮き上がらせ、物の陰翳を際立たせる。秋の大気が澄んでいるせいであろう。  こういう時節には寝るのが惜しくなり、遅くまで本を読んだり、学生は勉強に打込み、お母さんは夜なべに精を出す。そんなところから「燈火(灯火)親しむ」という季語が生まれ、そこから派生して「読書の秋」とも詠まれるようになった。  ところがこの句は「スマホ」である。明らかに「読書の秋」という季語を踏まえての句で、現代の江戸っ子の諧謔味がある。そのうちに「スマホの秋」とか「夜長スマホ」などいう詠み方が流行るかも知れない。(水)

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秋晴れに出番少なき背広乾す   印南  進

秋晴れに出番少なき背広乾す   印南  進 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 最近、私も背広は着ないで吊るしっぱなしですが、これはカビでも生えていると困るから、涼しくなって点検しているのでしょう。秋晴れに相応しい句ですね。 有弘 あれもこれもと取り出して、天気がいいから乾かさなければ、という気持ちが伝わってきます。 照芳 同感。 崇 「秋晴れ」という大きな季語を自分に引きつけて詠んでいます。共感できる句ですね。           *       *       *  定年退職後しばらくは第二の勤めだとか何やかやで、背広を着る機会がしばしばあるが、それも70歳の声を聞く頃までである。しかしそれを過ぎても、たまにはスーツ姿で行かねばならぬことがあるから、すべて処分するわけにもいかず、何着かは残してある。天高くからりとした日に、それらを干している。なんだか久しく合わなかった昔馴染みに出会ったような気分になる。(水)

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