ほろ酔ひの茅の輪くぐりてしづかなる   廣田 可升

ほろ酔ひの茅の輪くぐりてしづかなる   廣田 可升 『季のことば』  「茅の輪くぐり」とはチガヤを束ねた大きな真ん丸の輪を神社の社殿の前に立て、これを潜ることによって、犯した罪や身についた汚れを祓い落とし浄める神事である。元々は大和朝廷の宮中行事で、旧暦六月と十二月の晦日に行う「大祓(おおはらえ)」が江戸時代に民間に伝わり、山王神社はじめ各神社で行なわれるようになった。六月のを「水無月祓(みなづきはらえ)」「夏越祓(なごしのはらえ)」と言い、十二月のを「年越祓(としこしのはらえ)」と言う。  茅の輪は「結界」であり、穢れたこちら側(ケ)と神の在ます向こう側(ハレ)とを分ける門である。祈りながらそこを潜り罪咎穢れを祓い落とし、まっさらな身になって七月一日あるいは一月一日という新しい年の区切りを迎えようというわけである。今日では年越祓は初詣に押されてすっかり影が薄くなり、もっぱら夏越祓になっている。人の形に切った白紙に名前と生年月日を記し、それで身体を撫で回して汚れを吸い取らせ、川に流すこともする。  ほろ酔いの人が浮かれ気分で茅の輪を潜ったら、おやおや神妙に静かになってしまったという。神威あらたかという感じが面白い。(水)

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掌に闇を掬ひて螢狩   玉田 春陽子

掌に闇を掬ひて螢狩   玉田 春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 とても綺麗な句で、リズム感がいい。 厳水 子供の頃の実体験、思い出しますね、いい句ですねえ。 啓一 「闇を掬ふ」としたところがお手柄。 可升 そうですね、蛍を取り逃がしたのを「闇を掬ひて」とは実に上手い。ほんとに綺麗な句で感心しましたが、どうもこの句は字画の多い漢字ばかりが詰まった感じがします。まあ、俳句は文字を云々するものではないのかも知れませんが、どれか平仮名にした方がほっとするような気もします。 二、三人 確かにそうだ。「掬ひて」は平仮名にした方が良さそうですね。「掌」も平仮名の方がいい。           *       *       *  蛍はふわふわとゆっくり飛んでいて簡単に掴めそうだが、手を出すと、ふわりと擦り抜けられて闇をすくうことになる。蛍狩りの雰囲気をよく表わしている句だ。しかし今や東京あたりでは、ホテルの庭など商業施設の“ニセ蛍狩り”以外にはお目にかかれなくなった。(水)

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端居して脳裡をかける安保論   徳永 正裕

端居して脳裡をかける安保論   徳永 正裕 『この一句』  7月15日昼、安倍自民党政権は衆院の特別委員会で安全保障関連法案を強行可決した。野党は審議不十分と猛反発し、当の自民党内にも「国民に十分理解されていない」という声があるのに、安倍首相は強引に押し切った。16日に衆院本会議で可決成立する見込みだという。  日本がいきなり攻撃されることなど無さそうな、地球の裏側の戦争にも自衛隊を派遣して戦わせることが出来るようになる。自衛以外は戦わないはずの自衛隊が、諸外国と同じような「軍隊」になる。今どきの若者は怖がって、入隊希望者が激減するのではないか。となると、今度は徴兵制の復活か・・・。  「端居」という季語は、夏の暑熱に疲れた身体を縁先や窓辺に置いて、のんびりくつろぐ様子を言う。昼間の仕事のことなど忘れて無我の境に入る、頭脳のリハビリといった一面もある。それがどうだろう、およそ俳句とはかけ離れた問題が脳裡を駆け巡る。孫の行く末、日本の先々、まだまだ隠居暮らしはできそうもないか。(水)

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白南風や牛車は海を見て曲がる   須藤 光迷

白南風や牛車は海を見て曲がる    須藤 光迷 『合評会から』(番町喜楽会) 冷峰 沖縄の竹富島の観光牛車、あれがぱっと浮かんで来ました。 双歩 「海を見て曲がる」というのが何とも言えずいいですねえ。いかにもそんな感じです。 而雲 そうこの詠み方、いいですね。別に牛が海を見て感心してるわけではなく、乗ってるお客さんがみんな一斉に海を眺めていると、そこで牛車がぐるっと方向転換する、この省略を利かせた詠み方がいいなと思いました。 綾子 気持の良い風が吹き渡って来るようです。           *       *       *  この牛は回るコースをちゃんと心得ていて、御者は別に指示しなくても、海の見えるところや道の角まで来ると曲がる。心地良い風を受けて、みんな清々しい顔をしている。本土はこれからが梅雨本番という時期に、沖縄にはさっと白南風が吹いて、真夏をもたらす。南国の梅雨明けの雰囲気を実にうまく表している。(水)

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虹虹と行き交ふごとに教えけり   片野 涸魚

虹虹と行き交ふごとに教えけり   片野 涸魚 『合評会から』(酔吟会) 恂之介 虹が好きな人は虹を見つけると人に教えたがるんですね。どうも女の人に多いようだが・・。この句も、交差点などに立ち止まった時に虹が出て、ほら虹よ、虹よと来る人ごとに教えてる。そんな光景が見えますね。 臣弘 子供じゃないのかな、虹だ虹だと回りの大人たちに知らせている。可愛らしい感じがします。 反平 これは見知らぬ同士でしょ。普通は知らんぷりだが、虹のおかげで他人同士が口をきき合ったりする。面白くて、いい感じの句ですね。           *     *     *  雨上がりにお日さまを背にすると、前方に虹が見える。見つけると大人も子供も喜ぶ。皆さん言うように気づかない人に教えたくなる。前方から歩いて来る人には虹は見えないから、行き合う人ごとに教えることになる。言われた人は「え」と言って振り返り、「きれいねえ」と、また次の人に教えている。人情薄きこと紙のごとき大都会の街角に、ほのぼのとした空気が流れる。(水)

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まひまひの見られていると早回り      大澤 水牛

まひまひの見られていると早回り      大澤 水牛 『合評会から』(酔吟会) 恂之介 人間が見ているな、とマイマイ(ミズスマシ)が気づいて、格好いいところを見せようと得意げにくるくると早く回るというのですね。とても面白い句です、これは。 反平 小さな虫の気持ちが感じられて、かわいいなと思った。 てる夫 人影を見ると動くような、面白い生態があるのかも知れない。それを虫の気持ちになって詠んでいる。しかし嘘か真(まこと)かと言えば、真が二、三分かな。(大笑い)            *            *  この句はミズスマシを詠んでいる。小さな甲虫で、池や水たまりに飛んで来て、水面をくるくると泳ぎ回るのが得意技だ。ところが「ミズスマシ」という呼称は地方によって「アメンボ」を指すのでややこしい。そこで作者は混同を避けるために、ミズスマシの別称「マイマイ」(旧仮名遣いは「まひまひ」)を用いた。この句は、マイマイが見ている人の気持ちに応えて、くるくると素早く回って見せたのだという。見ていない時はさぼっているのか。人が見ていないのだから、誰にも分からない。(恂)

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柿わかば朝日通さぬ切通し       加藤 明男

柿わかば朝日通さぬ切通し       加藤 明男 『季のことば』  樫、椎、樟(くす)など、いろいろな若葉があるが、柿若葉ほど人々に親しまれてきたものはない。山村だけでなく、かつては都会でも家があれば柿の木がつきもので、初夏になれば柿若葉が庭を覆っていた。柿若葉の句は無数と言えるほど。その中から近年の作を少しばかり調べて、一つの傾向を見つけた。  ほとんどの句が「取り合わせ」なのだ。柿若葉を直接詠むのではなく、家族、友だち、人生、恋、祖父母の死などなど、人間絡みのことが一方にある。そこに「柿若葉」が付くと、句になってしまう。柿若葉そのもののことは種切れらしい、と思っていたからだろうか。この句がとても新鮮に見えてきた。  柿の葉は大きく、厚みもある。それらが重なり合い、この時期になると木漏れ日ひとつ許さないほどだ。作者は朝の散歩に出たのだろうか。切通しの上に柿若葉が覆い被さっていて、日差しが全く遮られていたのである。木下闇のトンネルを抜け出た時の、朝日の眩しさまで感じることができた。(恂)

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端居して愚に返ること思ひけり     岩沢 克恵

端居して愚に返ること思ひけり     岩沢 克恵 『この一句』  部屋の隅などに端居(はしい=夏の季語)して、「愚に返る」ことを思っているのだという。句会でこの句を見た時、「こざかしい行動や考えはやめて、愚直に生きよう」と思ったのだろう、と解釈していた。我が家に帰ってから「待てよ、誤解していたかな」と気づき、辞書で調べて、思い違いを知らされた。  正しい意味は「年をとって愚かになる」ことなのだ。「何だ、今のオレのことか」と心の中でつぶやいた。このところ物忘れが多い。先日も約束を忘れたばかりか、もう一つ勘違いを重ねて、ある人にたいへん迷惑をかけてしまった。気づいてお詫びのメールを入れたら、「なんのなんの」という返信がきた。  「愚に返る」ことは高齢者に共通する恐れであるはずだ。作者は少し早過ぎるような気がするが、同じ思いを抱き始めたのかも知れない。前述の返信メールはこのように続いていた。「私もしょっちゅうです。気にすることはありません」。当方の気分は俄にからりと晴れ上がった。「なんのなんの」である。(恂)

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男梅雨坂東太郎ひろごりぬ       野田 冷峰

男梅雨坂東太郎ひろごりぬ       野田 冷峰 『この一句』  まず「ひろごりぬ」から。「広がりぬ」と同じ、とは知っていたが、大辞典で改めて調べて見たら源氏物語や枕草紙の例が出ていた。古い言葉なんだ、と感心する。次に坂東太郎。俳句をやっていれば常識的な言葉で、「関東一の川」、つまり利根川のことだ。「太郎」は「最も大きなもの」の意味があるという。  さらに「男梅雨」。古めの歳時記には出ていないようで、「歳時記にありませんよ」と言う人がいるかも知れない。言ってみればこの句は古めかしく、いかめしい語だけで固めた代物である。「もっと普通の言葉で」と言いたいところだが、堂々たる感じは悪くない。何より利根川を詠んでいるからだと思う。  水系図を見ると利根川は、浅間山、赤城山など関東北部に並ぶ山系から細糸のように流れ出て、素麺のように、饂飩のように太くなりながら太平洋に注いでいく。かつてJRでこの川を渡って通勤していた私にとって、梅雨の頃の圧倒的な水量は忘れ難い。言葉の気どりを、利根川が流し去ってくれた。(恂)

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藍染の帽子がサイン兄の夏       金田 青水

藍染の帽子がサイン兄の夏       金田 青水 『季のことば』  兄の夏、である。雰囲気からすれば、妹の立場による句のように思えるが、弟なのかも知れない。母親が「お兄ちゃん」のことを詠んだ、という感じもある。「藍染の帽子」は野球帽、麦わら帽、手製の帽子などなどが考えられよう。状況のはっきりしないのが残念、ということで、選ぶのを見送ってしまった。  句会は梅雨入り前のことで、早くも真夏のような日が到来していた。それから重苦しいねずみ色の雲が空を覆う日が続いて、梅雨の季節の始まりである。すると不思議なことに藍染の帽子の句が頭に浮かぶようになった。遠いところにポツンと、小さな帽子が見えるような気がするのである。  俳句をやる者にとって夏は五月初めの立夏から始まる。五月、鯉幟、若葉、薫風。みんな夏の季語だ。それらの後に梅雨雲の向こうにある「青空の夏」を思うようになる。七夕、夏休み、水泳、炎天。少年の被る帽子の色は、曲折的な初夏の後に控える本当の夏の象徴かも知れない。梅雨明けが待たれる。(恂)

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