のどかさや亀行列の甲羅干し   片野 涸魚

のどかさや亀行列の甲羅干し    片野 涸魚 『合評会から』(双牛舎俳句大会) 昌魚 池の端で亀が並んで甲羅干しをしている実景が浮かんできます。長閑さを上手く表しています。 臣弘 ユーモラス。六義園の蓬莱島に大亀子亀がのんびり甲羅干ししているのか。亀も眠いが、見ている方がもっと眠くなる。 万歩 日当たりの良い石に亀が並んで甲羅干し。思わず笑いを誘う俳味。 睦子 春の陽射しをいっぱいに浴びて、池の岩場に「行列」するさまは正しく長閑です。           *     *     *  現代俳句界には、諧謔の句を敬遠し「まともな句」「まじめな句」でないと受け入れない空気がある。駄洒落や笑わせようと拵えた句などは排斥されて当然なのだが、素直に実景を写して、しかも思わずにやりとするような句、ほのぼのとした気分になれる句がもっとたくさん詠まれてもいいように思う。さしづめこの句などは好例である。まさに春のそよ風に吹かれているような感じである。(水)

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嫁といふむすめに出会ふ春の宵   金田 青水

嫁といふむすめに出会ふ春の宵    金田 青水 『合評会から』(日経俳句会) 光迷 春の宵にかみさんと散歩していると、向こうから息子の嫁が買物か何かでやって来る。思いもよらない時に出会ったという面白味、諧謔味が出ている。 恂之介 予期しない時に出会ったんですね。若い女性だな、と思ったら嫁だったということか。 正裕 私は、嫁にやった自分の娘にばったり会ったのではないかと解釈した。 てる夫 作者は息子の嫁に出会ったときに、ときめきを感じたのではないだろうか。 昌魚 私のところも息子二人に嫁をもらったが、この句には、嫁さんなんだけど、娘なんだという気持が滲んでいます。           *     *     *  何と言っても「嫁といふ娘」という表現が面白い。嫁の方も「おとうさん」「おかあさん」と呼んでくれるのだから、こちらも「むすめ」と言うのは当然だ。というよりも、これはもっと親近感がこもっている。時にづけづけと物言いする娘より、老いの身を労ってくれるやさしさが嬉しい。これも春の宵の温もりだ。(水)

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春愁をまとひ京町暮れ泥む        河村 有弘

春愁をまとひ京町暮れ泥む        河村 有弘 『この一句』  京都の町が春愁をまとっている、というのだ。春愁はもちろん人間の心に存在するものだが、「町がまとう」という表現が気に入ってしまった。しかしこの句、人間そのものを詠んでいる、とも言えよう。生き、働き、笑ったり、泣いたりしている人々の心の集合体を、古都に置き換えているのだ。  「暮れ泥(なず)む」も、この句のもう一つの眼目である。晩春の夕刻の、暮れようとしてなかなか暮れない雰囲気が身に迫ってくる。「春愁」という季語は「三春」つまり初春、仲春、晩春のいずれにも用いられるが、「ああ、春が逝ってしまうのだ」という想いこそ、この季語に相応しいのではないだろうか。  一つ気になったのが「京町」である。この地名は各地にあるが、京都の町そのものを表す語ではなさそうだ。「京の町」とする中七の字余りは頂けない。「まとひて四条(祇園)」などと変えたりすると、京都全体のムードが一地域に縮小してしまう。結局、原句を尊重したが、これでよかったのかどうか。(恂)

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