手鏡に新樹の光のぞきをり   岩沢 克恵

手鏡に新樹の光のぞきをり   岩沢 克恵 『この一句』  街路樹が新緑に輝いている通りを歩き、これから面談する人のいるビルの間近に来て、ちょっとほつれた髪などが気になって立ち止まり、手鏡を取り出して覗いたところなのであろう。初夏の街角の風景を切り取った、実に洒落た句である。  勘繰れば深刻な情景も思い浮かぶ。たとえば、初めての面接、初めて取引先の人と会うとき、あるいは何らかの事情で当初の契約条件を変えてもらうための交渉・・・、時には逃げて帰りたくなってしまうような場面がある。そんな時、覗いた手鏡の小さな鏡面に、萌葱色の若葉の光が射してきたというのである。なんだか大きな力をもらったような感じがする。  これは極めて小さな画面上の出来事である。手のひらにすっぽり納まってしまう手鏡に映る背景なのだから、「新樹」の風景といってもそう大した広がりがあるわけではない。数本の木立か、あるいは背後の大木の芽吹いた一枝かも知れない。しかし、当人にはそれで十分である。その新樹光によって心が落ち着き、次の一手を思い浮かべる気持の余裕が生まれたのである。(水)

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朝刊の棋譜を眺めて長閑なり      植村 博明

朝刊の棋譜を眺めて長閑なり      植村 博明 『この一句』  碁は複雑にして非常に面白いゲームである。将棋、麻雀、パソコンのゲームなど全てのゲームの中の王者と言えよう。しかし、と思う。これは碁好きの我田引水論かもしれない。なにしろ私は、この句の「棋譜」を碁の棋譜と初めから決めていた。将棋ファンには申し訳ないが、以下の文も囲碁のことである。  新聞の囲碁欄を“読む”というのは、相当な実力派だろう。双方が十手ほど、つまり布石の初期なら目で追うことが出来るが、それから先になると、ただ眺めるだけになる。句の作者も正直に“眺めて”と詠んでいる。それならば、オレといい勝負かな、こんど一戦交えようかな、などと思う。  では、読んで分からないのに、なぜ眺めているのか。実は、ここからの説明が難しい。新聞の棋譜はスポーツの記事とは違う。ひいきの棋士がポカ(大失敗)をやっても、負けてしまっても、眺めているだけで何となく楽しいのだ・。この「何となく」が長閑なのかな、と朝刊の棋譜を眺めながら考えている。(恂)

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天と地に風ものどかな農作業       吉田 正義

天と地に風ものどかな農作業       吉田 正義 『この一句』  風を「のどか(長閑)」と捉えた句は珍しい。句会(NPO双牛舎総会句会)の兼題だったから、このように詠んだのかも知れないが、柔らかな、心地よい風が感じられ、ごく自然に受け取ることが出来た。農作業の中、天と地に二つの風が吹いている、という状況もうなずけるのではないだろうか。  春とはいえ農作業なら当然、汗をかく。いい風が来た、と感じるのはもちろん、体のあたりを吹いていく風である。襟元を緩めて風を入れ、ここらでちょっとひと休みと、腰を伸ばして空を眺めたら、雲がゆっくりと流れていたのだろう。春の農作業のほんのひと時を、感じよくとらえていると思う。  作者は「花冷えも百穀の春雲間より」という句も出していた。百穀とはいろいろな穀物のこと。花冷えの時期、雲間の青空に農業の季節の到来を感じたのだろう。ただし忙しい仕事を持つ作者が趣味の農業をやっているとは思えない。祖父の頃の生活を、遥かに思いやった句ではないか、と推察した。(恂)

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長閑なり添い寝の親も寝息かな      印南 進

長閑なり添い寝の親も寝息かな      印南 進 『この一句』  赤ん坊に添い寝していたお母さんが、我が子に続いて自分もすやすやと寝てしまったのだ。作者(母の父親)は、ほっとして「ほう、寝たか」とつぶやいている。妻はいつも娘に、いろいろ助言をしているのだが、男性の作者としては、子育ては大変だなぁ、と思いやるのが精いっぱいである。  雰囲気からして、奥さんは外出中なのだろう。見守り役を引き受けた作者は緊張気味であった。孫が寝たようで、ひと安心したところに、娘の寝息も聞こえてきた。この安らかな気持ちはどう表現したらいいのか。作者は「おお、そうだ」と気づいた。次の句会の兼題が何と「長閑(のどか)」であった。  ところで「長閑なり」の「なり」は切れ字なのだろうか。俳句解説書では、このあたりが曖昧になっているが、私は「切れていると感じれば“切れ字”だ」と決めている。この句の場合、「なり」と最後の「かな」との響きが何となくしっくりこない。下五の「寝息かな」に手直しが必要なのだろう。(恂)

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幼子を遺して棺のフリージア       竹居 照芳

幼子を遺して棺のフリージア       竹居 照芳 『この一句』  幼い子を遺して、若い母親が逝ってしまったのだ。その子供や家族は言うまでもなく、葬儀に列した人々の誰もが、心からの哀悼を捧げずにいられない。棺の人と対面するのは辛いことだが、葬儀の最後にはご家族に続いて列に並び、ご遺体の周囲を花で飾って、お別れの挨拶をしなければならない。  葬儀社の人から花を渡されている。近年の葬儀では造花の花輪を見かけなくなり、代わって祭壇に生花を供えるようになった。その中の花を手にしているのだが、白菊のほかにもさまざまな花が加わり、鮮やかになってきた。贈り主は、故人の人柄に相応しい花を注文し、供花の中に加えるのだろうか。  フリージアと言えば、私はすぐに黄色と思うのだが、調べて見たら白、紅、紫、オレンジなど色さまざまらしい。フリージアの花言葉は色ごとに異なり、白はあどけなさ、黄は無邪気、赤は純潔、紫はあこがれ、などになるという。亡くなった若い母親に相応しい花言葉が、その中にあるのかも知れない。(恂)

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新じゃがのホコと崩れる暮れの春     徳永 正裕

新じゃがのホコと崩れる暮れの春     徳永 正裕 合評会から(双牛舎総会句会) 賢一 「ホコと崩れる」は絶妙の言葉使いです。自分もこんな表現がしてみたい。 進 食欲をそそられますね。「ホコと崩れる」が良いし、「暮れの春」という季語の選択にも感心した。 正義 男爵イモが期待通りに蒸し上がったのでしょう。その気持ちを素直に表現していて、良い句だと思います。メイクイーンは思うように崩れないらしいけれど。 照芳 日常の暮らしの中で生まれる、ちょっとした喜びを感じ取ってうまく表現している。ただ家内に聞いたら、新じゃがは崩れにくいらしい。「ほっこりするのは秋のじゃがいもではないですか」と言っていました。              *           *  「新じゃが」と「じゃがいも」、季節感はどちらに? 断然、「新」ではないだろうか。ところが歳時記によって「新じゃが」は「夏」だったり、「秋」だったり、載せていなかったり・・・。ともかくこの句、「新じゃが」と「暮れの春」の季重なりを気にして、選ばなかった人がいたのではないか。照芳氏の奥さまの言葉通り、新じゃがは崩れにくいし。「じゃがいものホコと」なら私は断然、選んでいた。(恂)。

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春愁や踏みたる草の深くして   宇佐美 諭

春愁や踏みたる草の深くして   宇佐美 論 『季のことば』  「春愁」は、春たけなわのころによくある、何とはなしの物憂い気分を言う季語。新体詩がはやった明治三十年代以降に生まれた季語のようである。子規が興した“新派”の「俳句」を高らかにうたい始めた人たちによって取り上げられた詩語であろう。一説では大正末年に出た『新校俳諧歳時記』に季語として集録されてから広まった(山本健吉説)ともいう。  気温変化が激しく、雨が続いたり、嵐のような風が吹いたりして春はどうも落ち着かない。これが体調にも影響し、情緒不安定をももたらす。俳人はそれをかっこよく「春愁」という言葉にした。フツーの人よりもほんの少し考え事をする俳人という人種が、「秋思」という季語と共に「春愁」をこよなく愛し、広め、現代俳句でも高い人気を持ち続けている。  草むしりを怠った庭か、野道か。緑が濃くなったところに踏み込んだら、意外に深く、その弾力が足裏にも脛にも伝わってきた。もちろん夏草の猛々しさはないのだが、なんとなくまとわりつく強さが感じられたのである。晩春の、少しもわっとする空気まで伝わってくる。(水)

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雨上がり一夜のうちの豆の花   高橋 楓子

雨上がり一夜のうちの豆の花   高橋 楓子 『季のことば』  俳句で「豆の花」と言った場合はエンドウ(豌豆)の花を指す。空豆の花を言うこともある。隠元豆が夏から秋を中心に咲いては実るのに対して、エンドウは春を限りの花であるところが印象的だ。  ところが近ごろは品種改良や栽培技術が進んだせいで、真冬にも真夏にもスーパーやデパ地下にはサヤエンドウが並んでいる。ということは産地へ行けば年中「豆の花」が見られる理屈だが、やはり春の畑で露地栽培されているエンドウの花を見ると、ああ春もたけなわという感慨に浸る。  ほんの畳一帖くらいの家庭菜園でもエンドウ豆はよく育つ。大型のプランターでも出来る。晩秋に蒔いて10センチくらいの大きさで冬を越し、これで無事に育つのかなと思っているうちに、春の陽気とともにぐんぐん伸び、蔓を出して支柱にからまりつく。そしてある朝、この句のように花を咲かせている。それからは連日、蝶型の赤紫の可愛らしい花が次々に咲く。白い花もあり、それはまたそれでしとやかな感じである。仲春から初夏にかけて、毎朝花を数える、お母さんと子どもたちの楽しみだ。(水)

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八重桜女相撲のごとく咲く   高橋ヲブラダ

八重桜女相撲のごとく咲く   ??橋ヲブラダ 『合評会から』(日経俳句会) 恂之介 八重桜を何にたとえるか。「女相撲」とは思いつかない。ぼてっとしたふわっとした感じは、言われてみるとそうなのだ。度肝を抜かれた感じだ。 反平 感性豊かな人の句だ。 万歩 艶やかでぼってりとした八重桜を女相撲に見立てた想像力が見事です。           *     *     *  三人の評者が言う通りである。八重桜を女相撲とは、言い得て妙だと膝を打つ。しかし、私は採らなかった。「ごとく」が嫌だったからである。  「ごとく」「ような」は便利な言葉である。読む人聞く人に即座に一定のイメージを抱いてもらえる。しかしそれは「型にはまった」イメージである。八重桜のぼってりとした花びら、毒々しいまでに誇張された肉感的な美しさはなるほど女相撲と一脈通じるものがある。しかし、八重桜はやはり女相撲とは違う。それを一方的に「女相撲のごとく」と鋳型にはめ込んでしまうのはどうかと思ったのである。ところが、こうして読み直してみると、やっぱり面白い。ひとまずうるさいことは封印しておこう。(水)

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のどかさや草食む馬の隠岐の島   宇野木 敦子

のどかさや草食む馬の隠岐の島   宇野木 敦子 『合評会から』(双牛舎俳句大会) 啓一 「のどけし」を月並みでなく、しっかり詠んだ傑作。 庄一郎 隠岐の島のあちこちで草をはむ馬たちの姿、ゆっくりと時が流れる。 博明 隠岐の島とは、こういうところかなあと景色が想像できる。 進  私も隠岐には行ったことないが、おそらくのどかな島なのだろう。馬がのんびりと草を食んでいる様子が想像される。 照芳 広大な空間を巧みに詠み、 隠岐の島に行ってみたいという気分になる。 久敬 「草食む馬」と「隠岐の島」で、都会から遠く離れた雰囲気を感じる。 正義 NHKの朝ドラを思い出した。のどかな島の雰囲気を醸し出した逸品。           *     *     *  感じの良い句である。案の定、句会ではたくさんの票を集めた。この島に行ったことのない人も採っているのは、こののんびりした詠み方に共感を抱いたからであろう。原句は「草食む馬の」だが、「のどかさや馬の草食む隠岐の島」としたらどうだろう、とふと思った。(水)

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