散る花の風の呼吸に合はせけり     田中 白山

散る花の風の呼吸に合はせけり     田中 白山 『この一句』  私も同じ場に居合せたと思う。熊野神社(横浜市寺家)への石段を上ると小ぶりの社があり、その右手の境内の奥に大きな桜の木が立っていた。花はほとんど散り尽くしていたが、ときどきちらほらと花弁が舞い落ちてきていた。この句を見て「そうだったのか、微風が吹いていたのだな」と気づいた。  風は常に同じ強さ、速さで吹いているわけではない。微風ながら無風の時もあり、無風のようでも梢には風が渡っていることもあるのだ。作者はそんな様子を、じっと見上げ、天然の息遣いを感じたに違いない。風は呼吸をしている、桜はそれに合わせて花弁を散らしていく・・・。この表現は擬人法である。  正岡子規は「月並調」の特徴の一つに「擬人法」を挙げている。もちろん「好ましくないこと」としているのだが、「風が哭(な)く」「梢は唄う」のような、やり過ぎを戒めているのではないか。私は上掲の句に嫌味を全く感じなかった。要は作者が実際に「そう感じたかどうか」なのだろう。(恂)

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花の名をたずねつ春の小川かな     高瀬 大虫

花の名をたずねつ春の小川かな     高瀬 大虫 「合評会から」(番町喜楽会寺家吟行) 双歩 吟行の句として、すなおで分かりやすいですね。 白山 桜も残っていたし、菫も咲いていて、この句の通りでした。 而雲 花は桜のことですが、この場合は「春の小川」があるから、野の草花でしょう。 百子 すっと読めました。この句の通りで、花の名をたくさん教えて頂きました。 冷峰 小学校唱歌を思い出しました。後期高齢者が多いから、みなさんも同じじゃないですか。春の小川。岸のスミレやレンゲの花に、ですか・・・。 光迷 水牛さんのお蔭で、いろんな花の名を覚えました。 啓一 吟行だから、こういう句が出来るのですね。 佳子 そうですね。一人の散歩で、このような句はあり得ません。           *           *  よき吟行は、後期高齢者をも子供の頃に返す。そう言えば「春の小川」の鼻歌が聞こえてきたような・・・(恂)

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菜の花に散り込む谷戸の桜かな     大澤 水牛

菜の花に散り込む谷戸の桜かな     大澤 水牛 「合評会から」(番町喜楽会寺家吟行) 而雲 菜の花と桜、明らかな季重なりだが、これは二つの季語が必要な句ですね。 佳子 どちらが欠けてもだめでしょう。こういう風に詠むしかなさそうです。 光迷 菜の花、山吹、すみれなど、寺家にはいろんな花が咲いていました。これが谷戸(やと=丘陵地にある谷間、人家や農地などがある)の風景です。季重なりは全く気になりません。 てる夫 確かに桜が菜の花に散っていた。「ちり込む」という表現がいいですね。 啓一 季重なりが気にならないように、うまく作ってあると思いました。 水牛(作者) 皆さんが季重なりをどう言うか、楽しみにしていたのですよ。            *             *  「季重なり」はよくない、という考えは、実作を何百年にもわたって重ねる中で出来上がった“俳句の常識”である。では常識で割り切れそうもない場合に出くわしたどうするか。あくまでも常識を守る、というのでは自主性がない。作るも選ぶも自主的に。これも俳句の常識である。(恂)

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暗渠から花流れ出る小川かな      井上 啓一

暗渠から花流れ出る小川かな      井上 啓一 『この一句』  山林と畑地の間を小川が勢いよく流れていた。残花の時期だったが、流れの中に桜の花びらを確認した。農業路が小川を横切っていて、花びらが暗渠に吸い込まれて行く。何人かが向う側の出口を覗き込んで「おー、出てきたよ」と、当然の結果を報告していた。句の作者はもちろん、その一人である。  小雨のち曇りの土曜日、番町喜楽会が横浜市青葉区にある「寺家(じけ)ふるさと村」で吟行句会を行った。周辺は横浜市有数の住宅地だが、街区から少し外に出ると、里山と畑が広がる農村地帯だった。渋谷から田園都市線の急行で青葉台まで三十分余り。こんな手軽な吟行があるのか、と驚いた次第。  句会後の合評会で作者は「この句、実は孕(はら)み句に近い」と打ち明けた。吟行に備えて自宅近くを流れる川の周辺を歩き、同じような情景を見ていたのだという。「黙っていれば、分からなかったのに」という声があったが、作者はこう言いたかったのだろう。「吟行も備へのありて憂ひなし」。(恂)

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春の日や大道芸人椅子重ね       澤井 二堂

春の日や大道芸人椅子重ね       澤井 二堂 『この一句』  私が東京・上野公園で見た大道芸は木の椅子を重ねていた。下の椅子は普通に地面に置くが、その上の椅子は四つ脚の一本だけを下の椅子に載せるのだから、不安定極まりない。芸人はしかし椅子の背を左腕で抱え込むようにして安定させ、右手は下の椅子の背をつかみ、じわじわと逆立ちしてしまうのだ。  この句の芸がそれと同じかどうか分からない。しかし周りで見守る人々をはらはらさせ、感嘆させるのは同じだろう。体操競技が純粋な業だとすれば、こちらは技に芸が加わっている。例えば椅子を重ねる時、わざとぐらぐら動かし、人々の不安をあおる。そうして見事な技を見せて拍手喝さいを浴びる。  この句、「春の日」が効いていると思う。通りすがりに見る人が多いが、ファンもいるらしい。芸が終わればすぐに立ち去る人、しゃがみ込んで次の芸を待つ人。春寒の頃から人々は集まり出す。その後に桜は開花し、満開を迎え、すでに花は葉に。しかしパフォーマーたちの季節はむしろこれからだろう。(恂)

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囀りの止むを確かめ雨戸繰る   直井 正

囀りの止むを確かめ雨戸繰る   直井  正 『この一句』  早朝、雨戸を繰ろうとしたら、小鳥が庭先で盛んに囀っている。「今開けたらさぞかしびっくりするだろうな」と、思わず手を止めたのだ。数分間、じっと聞いている。やがて飛び去る気配を確かめて、開けたというのである。  「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」という句がある。人口に膾炙した加賀千代女のウイットに富んだ句だが、あまりにも作意が勝ちすぎる。朝顔の蔓の伸びるのがいくら早いとは言っても一晩で釣瓶を絡め取ることはない。正岡子規はこの句をさんざんにこき下ろした。幸田露伴も「『朝顔に釣瓶とられて』や『井の端の桜あやふし』(秋色の『井戸ばたの桜あぶなし酒の酔』)などは最初は感心していても次第にそうでなくなる」(「露伴の俳話」)と述べている。  このように動植物への過度の感情移入は、得てして作り物っぽい底の浅い句になりがちである。しかし、この「雨戸繰る」の句は、危ういところで踏み止まっている。庭先の小鳥の囀りを妨げたくないというのは、誰もが抱く気持である。それがこの句を「真実の側」に留まらせたのである。(水)

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囀りの頭上より降る峠かな   井上 庄一郎

囀りの頭上より降る峠かな   井上 庄一郎 『この一句』  子供の頃から山に慣れ親しんできた人ならではの句である。山もあまり高くなると、鷲や鷹など特殊な鳥以外はあまり見当たらない。百千鳥の囀りが最もよく聞こえるのは、まさに「峠」であろう。  山腹に無造作にトンネルを掘ることなど出来なかった昔、人々は山と山との間の鞍部、すなわち峠を越えて隣の村里に行った。峠が雪に埋もれる冬場は、ほとんど行き来が叶わなくなってしまう。雪が溶けて地肌が現れる春になると途絶えていた隣国との交流がようやく復活する。昔の人達にとって「峠」は実に印象深いものだった。郷里の輿望を担って都へ出で立つ若者たちは峠を越えて行ったのだし、新しい文物は峠を越えてもたらされた。  息をあえがせて上ってきた峠の頂上で一息入れる。汗ばんだ肌に峠の冷たい風が気持いい。うっすらと若緑の見えてきた雑木の中から、囀りが降って来る。岩に腰掛け、小鳥たちのおしゃべりを聞きながら水筒の水を飲む。また春が巡って来たなあと、しみじみ思う。  「頭上より降る」という措辞がとても心地良い。(水)

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親になる子と酌み交はす春灯下   廣田 可升

親になる子と酌み交はす春灯下   廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 冷峰 私も数年前息子と同じように飲んだことがありまして、お前も親になるんだなあという感慨・・・それを思い出しまして・・。 啓一 「親になる」という措辞が俳句としてはヘビーな感じがするんで、どうかなと思ったんですが。とてもいい中身なので・・・。 水馬 子供が産まれて来る、命がはぐくまれる、春らしい句だと思います。 光迷 素直な詠み方でいいですね。我が家も、すでに親になっている子ですが、よく飲んでます。子と飲むのはいいもんだ。           *     *     *  子が「親になる」、自分は当然のことだがジイサンになる。しかし、「やれやれ年を取ったもんだ」という気持よりは、一人前になった子と向かい合って、しみじみと喜びが湧いて来る感じである。最早「家系」などという観念は薄れているとは言うものの、やはり子が孫を拵えて、「我が家」をつないで行ってくれるのは嬉しい。しかし面と向かって褒めるのもなんだし、ただなんとなく酒をついでやったりしている。(水)

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菜花漬け息災を問ふメモ添へて   山口 斗詩子

菜花漬け息災を問ふメモ添へて   山口 斗詩子 『季のことば』  小松菜、山東菜、しゃくし菜、水菜(京菜)、壬生菜などアブラナ科の「菜っ葉」は、暮れから春にかけて「お浸し」「鍋物」「漬け物」などになって食卓を賑わしてくれる。それが四月の声を聞く頃、株の真ん中から太い茎を伸ばし、次々と「菜の花」を咲かせる。放って置くと細長い莢になり、その中に仁丹粒くらいの真っ黒な「菜種」がたくさん出来る。昔はこれを絞って菜種油を採り、食用や灯油として用いた。しかし照明用としての役目は無くなり、食用油の原料としては大豆やオリーブにその地位を奪われ、今や菜の花は観賞用に存在感を示すだけという塩梅である。  ただ「菜花漬け」だけは非常に人気が高まっている。二月末頃から盛んに菜の花を咲かせる種類を栽培し、咲く寸前の蕾を塩漬けにする。いかにも「春が来ました」という清々しい漬け物が出来る。足が速いからすぐに食べてしまわないとダメになってしまうところも、うつろいやすい春らしさだ。  独り住まいのお年寄りに「菜花漬け」が届けられた。「おばあちゃん、お元気ですか」なんてメモが添えられている。ほのぼのとした温もりが漂う。(水)

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春ともし津軽優しき訛りかな   嵐田 双歩

春ともし津軽優しき訛りかな    嵐田 双歩 『合評会から』(番町喜楽会) 啓一 何となくいいんですな(大笑い)。津軽弁と春ともしが響きあって、ほんわかした気分が漂う。 可升 ほのぼのとします。 斗詩子 北国に春が来たことが感じられる温もりのある句です。           *     *     *  ほんとに「なんとなくいい」句である。津軽弁というものの温かさが思い浮かぶせいであろう。土地の人同士が喋っているのを聞いていると、よそ者にはよく分からない。だが、なんとも言えないぬくもりを感じる。  寒いから頭巾や布で顔をすっぽり覆って、口を十分に開かずに喋る。それで声がくぐもって、ああした訳の分からぬ言葉になるのだ、と、ずいぶん乱暴なことを言う人がいた。その当否はさておき、確かに北辺の冬はモノを言うのも嫌になるくらい寒い。四月になってようやく春。人々の口もほぐれてくる。  春ともし、津軽、優しき、訛りかな、と、ぶつぶつ切れたような詠み方は、無意識の所産なのであろうが、特殊効果をもたらしているようだ。(水)

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