ご近所を驚かしたる鬼やらひ      大澤 水牛

ご近所を驚かしたる鬼やらひ      大澤 水牛 『季のことば』  この句を見て、何十年も前の節分を思い出した。我が家の向かいのご主人が夕暮れになるともの凄い声を張り上げ、豆まきを始めるのだ。まずドアや窓を開け放ち、「福は内、福は内」と、やや大きめの声で福の神を招来する。続いて割れ鐘のような「鬼は~外」の声が隣近所に響き渡るのである。  すると我が家では、母が「お向かいで始まったよ」と子供たちを促がし、隣近所からも次々に「鬼は外」の声が響いてくる。しかし今はもう、あのような迫力のある鬼やらいの声は聞こえなくなった。お向かいが引っ越してからのことだが、どの家もご近所の迷惑を考え、小声でやっているらしい。  というわけで、この句は昔のことか、と思ったが、作者自身が大声を出しているそうで、大人物ここにあり、と大いに愉快になった。ただし奥様から「小さな声で」懇請されているそうで、先々どうなっていくのか。私の場合、廊下などにパラパラと豆をまいただけ。なるべく外に聞こえないように、と思ってしまうのだ。(恂)

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春めくもたまに鋭き風のあり   今泉 恂之介

春めくもたまに鋭き風のあり   今泉 恂之介 『この一句』  句会でこの句を見た時、「なんとバカバカしい句か」と思った。春めいてきたけれどたまには冷たい風が吹くとは、当たり前過ぎて、論評するにも及ばない。俳句にするまでもないではないのか。もちろん選ばなかった。  ところがこの句が三点も取ったのである。出席者わずか11人という中での三点はなかなかのものである。採った人の評は「そうだよなあという共感」(可升)、「春めくの句にはいかにも春になったというのが多いが、実はまだ寒い。この句はそういう季節感をよく表している」(白山)、「けれん味の無い句だ」(水馬)と、まあ全面的に共感しちゃっているのである。それでもまだへそ曲がりの私は納得せず、こんな当たり前俳句、と思っていたのであった。  然るにこのコラムを書くに当たって、句会の全作品を読み直しているうちに、この「当たり前」こそが値打ちなのだと気づいた。どこか歩いている途中、角を曲がった途端に寒い風をまともに受けた。その瞬間を詠めば、多分こういうことになるだろう。これこそが俳句の原点なのではないだろうか。(水)

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春めくや京の和菓子の薄緑   井上 啓一

春めくや京の和菓子の薄緑   井上 啓一 『合評会から』(番町喜楽会) 春陽子 京都の菓子をよく見ているなあと思いました。季節ごとに彩りなど微妙に変化させているんですよね。 正裕 うぐいす餅でしょうかね。春めく感じがします。しかしこれ「和菓子は」とした方が、京都へ来た感じが伝わってきていいかなと思いましたが。 百子 京都の生菓子は季節の新作が次々と出ます。お茶をいただきながら季節の和菓子。それが薄緑色だった。なんだか心のゆとりを感じさせる句です。           *     *     *  京都は公家と社寺の世界。行事やら儀式に菓子と茶はつきもので、平安室町時代からあれこれ工夫が凝らされ、上品で優美な菓子が生まれた。この句の京菓子は「細工菓子」とも呼ばれる上生菓子であろう。季節感を盛り込み、色、形、香りをとことん追求し、それぞれに奥床しい「銘」がついている。  眼、鼻、舌はもとより、その菓子の由緒を聴いて理解する耳まで使うというのだから、ただむしゃむしゃ食えばいいというものではない。がさつな東男は京の春には心して臨まねばならぬ。(水)

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潮騒の御用邸より初音かな   田中 白山

潮騒の御用邸より初音かな   田中 白山 『合評会から』(番町喜楽会) 厳水 潮騒、御用邸、初音の組み合わせがとてもいい。いかにも春らしい気分。 春陽子 すぐそばの御用邸から鶯の初音、離れたところからの潮騒。立体感というか、広い空間をとって詠んだところがいい。 正裕 御用邸などというものが俳句に現れるのはめずらしく、この言葉を持って来たのが良かったですね。 てる夫 葉山御用邸の海岸べりを散策をたのしんだんですね。潮騒に乗って鶯の声、いいですねえ。           *     *     *  句会で圧倒的な支持を得た句。「いかにも春らしい気分」という評が全てを語っているようだ。一方で、「潮騒と初音と、『音』を二つ重ねたところがいかがなものか」という論難があった。互いに殺し合ってしまうというのだ。ただしその論者も「潮騒の御用邸という措辞はいいなあ」と言う。「まあ、潮騒の合間に鶯の声が聞こえて来るんでしょう」ということで一件落着。(水)

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指先を余寒ちりりとかすめけり   山口 斗詩子

指先を余寒ちりりとかすめけり   山口 斗詩子 『季のことば』  「余寒」とは、立春を過ぎて暦の上では春になったのに、まだ寒さが残っている気分を言う初春の季語である。「春だというのに何という寒さ」といった感じを前面に押し出す言葉でもあり、「寒いけれど、やはり春だなあ」という気持を述べることにも使う。「残る寒さ」とも言い、まさに今、二月にぴったりの俳語だ。  「春が来たけれど、まだ鋭く尖った感じのものがある、そういう時期をうまく詠んでいます」(光迷)。「指先、ちりり、かすめる、と詠んだところが春先の微妙な感じをよく表しています」(可升)。「指先は神経が鋭くて、寒暖もよく感じる。『ちりりとかすめけり』は指先だからこそなんですね」(冷峰)。句会の合評会で出た感想だが、この句の良いところを適確に言い当てている。  「寒」という文字につられて、冬の季語と取り違えそうになるが、ちりりと指先をかすめるほどの寒さなのだ。「寒い、寒い」とは言っても、もう春なのである。(水)

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三打目は白杭の外犬ふぐり   廣田 可升

三打目は白杭の外いぬふぐり    廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 厳水 ゴルフの句はなかなかい句にならないと言われてますが、これはとても良く出来てるなあと、自分の経験にも照らし合わせて、感心しました。 白山 これは三打目が効いてますね。ボギーペースで行くと、三打目がちょうどグリーンに乗せるところです。乗ったかなという感触で、上がって行ったら、オーバーして向こう側の白杭の外まで転がり落ちていた。くやしくて、がっかりして・・、ボールのそばまで行ったら、そこに可憐な犬ふぐりの花が・・・、なんとなく慰められたような感じがした。上手に詠んでますね。 百子 三打目がOBとはね。そこに犬ふぐりの花が・・。でも草むらの中じゃなくてよかったですね。 てる夫 残念、OBだったか。と、見ると傍らに犬ふぐり。少しは慰めになったかな。           *     *     *  スポーツ競技を素材にした句がいろいろあるが、どういうわけかゴルフの句でいいものに出会ったことがない。しかし、この句はとてもいい。これも犬ふぐりのおかげなのではないか。この取り合わせが実に良い。(水)

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最終版終わるや屋台おでん酒   直井 正

最終版終わるや屋台おでん酒   直井 正 『この一句』  最終版とは新聞の最後の版のことである。朝刊の場合は午前一時ごろに最終版の締め切りとなり、その後に仕事を終えた各局、各部の人たちが空腹を満たすために、社の周囲に店を開いている屋台を目指すのだ。新聞社OBの古手には懐かしい思い出だが、今ではもう見ることの出来ない風景である。  この句、「終わるや」に一つの意味がある。「や」は切れ字ではあるが、「終わるや否や」の意味がもちろん含まれている。午前一時を過ぎればたちまち人々が集まり、なじみの屋台を取り囲む。新聞社が三つも集まっていた東京・大手町では、各社の記者がいっしょになり、「おでん酒」で気勢を上げたりした。  各社間の締切時間協定がなかった頃は、屋台での騒ぎが明け方まで続くことも稀ではなかった。やがて早朝出勤の人が来て、「おー」と手を振って挨拶している人もいた。傍目にはばかばかしい行状と言えるだろう。しかし新聞社OBの一人である私は、この句を「心の俳句館」に収蔵したいと考えている。(恂)

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耳少し遠くなりけり冬桜   横井 定利

耳少し遠くなりけり冬桜   横井 定利 『この一句』  句の言わんとするところがよく分からない、という人がおられるかも知れない。この句は聴力の減退と冬桜という二つの取り合わせによって成立しているのだが、両者の関係をどう捉えるかは非常に微妙である。作品の解説は難しく、何となく感じてもらえばいい、という句なのかも知れない。  昭和の初期、俳句の世界で「モンタージュ手法」がもてはやされた。何の関係のなさそうなものを組み合わせ、複合効果を狙うという手法だが、前衛派映画監督・エイゼンシュテインが日本の和歌や連句などの「取り合わせ」からヒントを得て生みだした理論とされている。俳句にとって逆輸入の手法だったのだ。  冬日和の公園で、高齢者がベンチに腰掛けているとしよう。向こうのベンチで二人が話をしているが、声は聞こえてこない。耳が少し遠くなったのかな、と思う。傍らに冬桜がちらほらと咲いている――。映画やTVドラマなら、味わいのある雰囲気になりそうだ。俳句も同じだ、と私は思っている。(恂)

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淡き日を集めて咲けり寒桜       流合研士朗

淡き日を集めて咲けり寒桜       流合研士朗 『季のことば』  歳時記で「寒桜」は「冬桜」の傍題に置かれている。そんなことから二つの桜に混同が生じているようだ。植物学上の冬桜は、群馬県鬼石町の冬桜(天然記念物)のような「白一色」と見ていいだろう。一方「冬桜(寒桜)は寒緋桜のこと」とする歳時記もあり、花は「薄いピンク」などと説明されている。  掲句の雰囲気は、白い冬桜にも薄いピンクの寒緋桜にも当てはまると思う。また冬にも咲く四季桜、十月桜などと考えても悪くない。「淡き日を集めて」という表現が、この句の根幹をなしている。曇りがちな、辛うじて陽の光が地上に届くほどの天候なのだろう。なるほど、冬に咲く桜にぴったりである。  季語には「本意」というものがある。和歌や連歌などから来た考え方で、例えば東風なら梅の花を開かせるような柔らかな風、ということになろう。現在では強東風、荒東風が目立つが、季語の持つ雰囲気に相応しい句に出会うと「やっぱりいいなぁ」と思ってしまうのだ。この句もその一例と言えるだろう。(恂)

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初旅や富士よく見ゆるモノレール    大倉悌志郎

初旅や富士よく見ゆるモノレール    大倉悌志郎 『この一句』  世界広しといえども、富士ほど多くの人々に愛されている山は他にないだろう。理由の第一は東京近辺からもよく見えること、と私は思っている。ヒマラヤ、アルプスなどなどの世界の名峰に、国の首都からくっきりと見える山があるだろうか。富士は大勢が見るからこそ、大勢の愛する山なのである。  羽田から旅行に出る際、東京モノレールに乗ったとしよう。晴れ渡った日であれば、私は進行方向の右側に座ることにしている。やがて東京の街並みの向こうに丹沢山地が見え始め、さらにその先に富士を望めるはずだ。どの季節でもいいのだが、No1を挙げるとすれば、やはり雪を被った富士になるだろう。  作者は新年早々の旅に出る時、モノレールから真っ白な富士を見た。最も見晴らしがいいのは天空橋駅付近だと思うが、他の場所でもいい。もちろん「これは縁起がいい」と思っただろう。「一富士、二鷹、三茄子」。作者ふと、初夢に見た富士を思い出した・・・というのは、図に乗った私の妄想だが。(恂)

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