親の役子の役終へて年惜しむ   澤井 二堂

親の役子の役終へて年惜しむ   澤井 二堂 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 大虫 自分の役目というか責任を果たして、これからは自分の人生、というのでしょうか。「年惜しむ」がとてもよく響き合っています。 智宥 「親の役」とは子育て、「子の役」は老親を見送ったことなのだと思いますが、この「役」という言葉が良かったなと思います。 悌志郎 二つの大役を終えてほっとして年を送るというのがうまい。 光迷 忙しい一年だったけれど・・という気持も感じられます。 恂之介 父親と今年巣立った息子とが年の暮れに一杯やっている情景かなんて思ったんですが、やはり子供と老親両方の世話を終えた作者の実感の方がいいなと。感じ入りました。 定利 私も「親の役、子の役」と言ったのが素晴らしいと思う。 双歩 一年の終わりに家族の変化について思いを巡らせている、その感じがとてもいい。 博明 親を亡くされた年、子は自立。 親の役、子の役の言い方で伝わるものがあります。           *     *     *  平成26年掉尾を飾る句会での最高点獲得句。何ら説明を必要としない、熟年世代の情感をしみじみ伝える名句である。(水)

続きを読む

吾が刻を追ひ越して行く年の暮れ   高瀬 大虫

吾が刻を追ひ越して行く年の暮れ   高瀬 大虫 『この一句』  「吾が刻」というのが少々分かりにくいが、おそらくはマイペースで生きる人の「時計」であり、「時間割」を言うのであろう。自分なりの生活リズムがあり、それに従って自分流の生き方をしているのだが、年の瀬ともなるとそうはいかなくなる。どうしても世間の時計に合わさざるを得ない場面が生じる。  “世間時計”は自分の時計よりも進み方がだいぶ早い。若く元気な頃はそれに負けない早さで動き回り、手際よく仕事を進めていた。自然にそれが出来た。ところが、だんだんそうではなくなって来た。確かに年のせいに違いはないのだが、還暦以降五年ごとくらいに世間時計との落差がカクンカクンと大きくなっていくようなのだ。あれもしようこれもしなければと人並みに考えてはいても、ほとんど中途半端のままで、時間ばかりが過ぎて行く。  でもいいや、と思う。いらついたり焦ったりするのは「まだ若い」うち。八十の声を聞く頃ともなれば世間時計に遅れても気にしない、なるがままに任せる。これぞ安心立命の境地であり、人によってはそれをボケとも言う。(水)

続きを読む

陽の当る枯野に萌ゆる生命かな   前島 厳水

陽の当る枯野に萌ゆる生命かな   前島 厳水 『この一句』  枯野は淋しい感じがするものの、とても明るい印象がある。ことに小春日の昼下がりなど、ぽかぽかとした陽光を受けて黄金色に輝く枯野は真底明るく、まばゆい。しかし、初夏の鮮やかな緑の野原と違って、躍動する感じは無く、ひっそりと静まりかえっている。  そのひっそりとした枯野の、枯れ草に覆われた地面を注視すれば、そこには緑色の小さな芽生えがいっぱいあることが判る。深い雪に埋まる北日本では無理かも知れないが、関東地方以南では野原が枯れ色に覆われる十二月には、早くもハコベ、ナズナ、セリ、ハハコグサなどが、来るべき春に備えての芽吹きを始めている。  この句は「枯野に萌ゆる生命」と言ったところが教科書的で少々理屈っぽく受け取られてしまうかも知れない。しかし、そうした事実をきめ細かく観察し写生して、陽の恵み、自然界の輪廻転生に思いを致したところが共感を呼ぶ。(水)

続きを読む

嘘鳥の嘘つきはてて年の暮   廣田 可升

嘘鳥の嘘つきはてて年の暮   廣田 可升 『この一句』  「嘘鳥」とはどんな鳥か。一般に「ウソ」あるいは「ウソドリ」と言うと、天神様のお使いとされる「鷽」を指す。「鷽」という字が「学」の旧字体「學」に似ていることから、学問の神様菅原道真を祀った天満宮の使い鳥とされるようになったらしい。同時に「鷽」が「嘘」に通じるところから、旧年中の嘘や罪咎穢れをきれいさっぱり振り払うために、御守の木彫りの鷽を新しいものと取り替える「鷽替え神事」という正月行事が生まれた。  自然界の鷽はスズメよりやや大きく、頭と翼が真っ黒で身体は青灰色、頬が赤い可愛い小鳥で、夏は高原地帯、冬になると人里に降りて来る。  しかし、この句の「嘘鳥」は自然界のウソでもなく、天神様の鷽でもなく、どうやら作者の拵えた鳥のようである。ウソをつきまくりつきまくり、ついには年の暮れになったという妙な鳥だ。「景気は確実に良くなっている、皆さんの月給も上がる」と言いまくって大勝利した、どこぞの大嘘鳥もこの一種だろう。読みようによってどうとでも解釈でき、あれこれ思いをめぐらすことのできる面白い句ではないか。(水)

続きを読む

蕪炊く今日一日のねぎらひに   岩沢 克恵

蕪炊く今日一日のねぎらひに   岩沢 克恵 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 いかにもおいしそうな匂いが漂って来ますねえ。 春陽子 「今日一日のねぎらひに」というのがいい。年の瀬の慌ただしさ、忙しさなどとは何にも言ってはいませんが、そういう感じも伝わってきます。 光迷 いかにも優しい心情。冬の一日の終わりにほかほかと温かい気分が漂って・・。 白山 ほっこりして、温かな感じがいいですね。           *     *     *  年末の忙しい一日をなんとか切り抜け、懸案事項を片付けることができた。近ごろ「頑張った自分を褒めてあげたい」などという甘ったるいセリフをよく聞くが、そんな浮ついた言葉では表せない安堵感に浸っている。ことことと湯気をあげて蕪が煮えている。その甘い香りに包まれながら、キッチンの椅子に身を預け、半ばまどろんでいる。──「大根炊く」ではなく「かぶら炊く」としたところに、なんとも言えない優しい雰囲気が滲み出て来たのではないかと思う。(水)

続きを読む

信濃川ゆつたり動く枯野かな    井上 啓一

信濃川ゆつたり動く枯野かな    井上 啓一 『この一句』  長野県(信濃)を流れる千曲川は面白いことに、新潟(越後)に入ると信濃川と名を変える。日本一長い川として知られ、中流域の十日町盆地を行く頃には早くも大河の雰囲気を漂わせる。この句は「ゆつたり動く」という表現に工夫の跡が見え、新潟の枯野風景を大きく捉えて魅力的だ。  句会の選句用紙では偶然、隣に「一筋の流れ横たへ大枯野」(玉田春陽子)という句が並んだ。似た趣向の句で、こちらも悪くない。選句では点が別れ、目出度く「ほぼ引き分け」となる。合評会は固有名詞(信濃川)のあるなし論に話が及ぶなど賑やかで、二句の対決がさらに続くことになった。  後日、二人の作者が参加する連句の会で「両句を発句にしたら」という面白半分の提案が賛同を得た。詳しいことは省くが、二つの連句を同時進行させ、出席者はそれぞれ双方に参加するという試みだ。さて両句に続く「七七」を、あなたはどう詠むか。俳句の奥にある連句の世界の入口である。(恂)

続きを読む

道灌の伏兵どつと枯野原      大澤 水牛

道灌の伏兵どつと枯野原      大澤 水牛 『この一句』  道灌とはもちろん江戸城を築き、山吹の故事で知られる太田道灌のこと。室町時代に関東で大きな勢力を誇った武将・兵法家である。この句、枯野を進む敵の軍勢に、潜んでいた道灌の一軍がどっと襲いかかった場面。短い言葉の中から、リアルな時代劇映画を見るような臨場感が漂ってくる。  例えば以下の二句。「熊坂が長刀に散る蛍哉」(小林一茶)「大手より源氏寄せたり青嵐」(夏目漱石)。前句は伝説の盗賊・熊坂長範がなぎなたを振るう場面。後の句は源平の合戦だろう。両句とも昔のことを絵空事風に詠むが、道灌の句は平成の世から室町時代の戦を直に眺めたような趣がある。  作者は近年、道灌について調べている。句は道灌が豊島氏を滅ぼした石神井城から合戦のあった江古田ヶ原など(練馬区~中野区)を歩いた時に浮かんだという。東京の典型的な市街地の中に、道灌軍の動きが見えてきたのだ。歴史探訪・実地検証によって生まれた、古くて新しい俳句だと思う。(恂)

続きを読む

枯野行くきのふと違ふ風の道    玉田春陽子

枯野行くきのふと違ふ風の道    玉田春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 きれいな句ですね。風の道があるのか知らないが、あるように思わせます。 正裕 おや、昨日と風の方向が違っている、ということでしょう。今日の方が昨日より穏やかだ、という雰囲気があって、作者の繊細な感覚を窺うことができる。 水牛 上手な句だ。風が微妙に違うんでしょう。広い野原では大体、風の道は決まっているが、その微妙さをこの句は押さえている。感心しました。 而雲 天気予報ではよく、昨日は北風だったが、今日は南風です、なんて言っている。作者は通勤とか買い物で、毎日同じ道を通っているので、風の道の違いを感じたのでしょう。               *              *  初夏の頃、青田や葦原などの上を風が渡っていくのを見ることができる。枯野でも同じことがあるかも知れないが、この句の場合は風の方向を感じたのだと思う。正裕氏の言うように、言葉にはなくても「今日の方が穏やか」という雰囲気が漂ってくる。柔らかな詠みぶりに理由があるのではないだろうか。(恂)

続きを読む

枯蓮の陽あたる方へ折れにけり    嵐田 双歩

枯蓮の陽あたる方へ折れにけり    嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会) ヲブラダ 枯蓮をよく観察した結果なんでしょう。本当に陽のあたる方へ折れるのか、私は知らないが(笑い)、この句は読み手を納得させますね。 正 風下に折れるはずですから、北風によって太陽の方へ向いているのかも。日本画を見ているようです。 正市 写生ではなく、詩的に表現したのでしょう。しかし「陽あたる方へ」は、うまいなぁと思います。 正裕 私もウソだと思った(笑い)。でも俳句としていいですよ。明るい感じがします。 智宥 私はまったく疑わなかった。作者の学識を信じて採りましたが(笑い)。 綾子 折れるときに日のあたる方へ向くのでしょうか? 発見があるのでいただきました。 双歩(作者) 近所の枯蓮を観察したら、倒れる方向は明らかに太陽の側が多かったので・・・。 水牛 そうですか。私は頭の中で作った句だと思ったが、観察の勝利ですね。              *         *  北風によって、南側に倒れる確率が高くなるのだろう。それを「陽当たる方へ」。表現の勝利でもある。(恂)

続きを読む

短日やスカイツリーの影の中     加藤 明男

短日やスカイツリーの影の中     加藤 明男 『この一句』  スカイツリーの北側の、例えば東京・向島あたりを考えたい。夏や秋だとスカイツリーの影は伸びてこないが、日が短くなれば影の中に入るようになる。いつもその辺りを歩いている人がある日ふと、ものの影に気づく。視線を南の方に向けると正体が判明した。スカイツリーの影が伸びて来ていたのであった。  理屈を言えばこういうことになるが、ただスカイツリーの影の中にいた、と解釈するだけでいいかも知れない。ある日、作者はスカイツリーの影の中にいた。オヤと気づいて辺りを見回すと、影はさらに長く、大通りを斜めに渡っている――、というような状況の中で、作者は「短日」を感じたのだろう。  東京スカイツリーは二〇一二年の開業前から今日まで、何千何万もの俳句に詠まれてきたはずだ。巨大な電波塔として、風景の一つのアクセントとして、繰り返し、繰り返し登場しているが、長い影の中に居る「短日の私」はユニークで興味深い。“スカイツリー俳句”の傑作だと私は思っている。(恂)

続きを読む