にこにこと志功の鬼や文化の日   谷川 水馬

にこにこと志功の鬼や文化の日   谷川 水馬 『合評会から』(秩父長瀞吟行句会) 大虫 吟行のわくわくした気分、しかも今日は秋晴れ文化の日。版画の鬼の笑みに託してあの時の雰囲気を見事に詠んでいます。 正裕 思いもかけぬ志功コレクションの山でした。中でも優しげな赤鬼青鬼が楽しかった。晴れの特異日である文化の日の季語と響きあってほのぼのとします。 臣弘 志功を詠んだ句の中で一番面白かった。彼の作品はもともと暖かさが持ち味。作者は、怖い鬼をユーモラスに見せた作品を良く観察しています。文化の日を季語にしたのもグッド・アイデアでした。        *     *     *  秩父長瀞吟行のスタートが「やまとあーとみゅーじあむ」。秩父の山奥に志功板画をあれほど集めた美術館があるとは思いもよらなかった。一行の気持をなごませ、ゆったりした気分にしてくれた。志功の鬼がにこにこという叙述に大勢が惹かれた。(水)

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草紅葉草木成仏至仏山    野田 冷峰

草紅葉草木成仏至仏山    野田 冷峰 『合評会から』(酔吟会) 涸魚 草紅葉の尾瀬ですね。漢字ばかりを並べた句だけに技巧が見えて、心にぐさりと来るものはない。しかし作り上げるまでの苦労に敬意を表し、一票を投じました。 詠悟 でも、この句は漢字を無理に当てはめた感じがしない。自然に出来たのかも知れないね。 春陽子 至仏山、「仏に至る」ですよね。草木もまた仏になるという、深みが感じられる。 水牛 きれいに出来上がっているが、「草紅葉」と「草木成仏」は意味に重なりがある。経の言葉は「草木国土悉皆成仏」だから、この句は「悉皆成仏」としたいなぁ。(「なるほど」「確かに」などの声)。 冷峰(作者) 尾瀬の草紅葉は本当に綺麗だった。正面に燧岳があったが、草木も命の終わる頃だから、反対側の至仏山がいいなと・・・。句が出来たら漢字ばかり。本当に自然に出来た句です。 反平 漢字ばかりの句は技巧が走って嫌なんだが、自然に出来たのなら評価を改めましょう。             *           *  「悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」に大賛成。「草木」と「悉皆」を入れ替え、鑑賞して頂きたい。(恂)

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新旧の村人集ふ牡丹鍋         田中 白山

新旧の村人集ふ牡丹鍋         田中 白山 『この一句』  地方出身者が生まれ故郷に戻るのが「Uターン」。都会から地方への直線的な移住が「Iターン」。故郷に戻らずに別の地方に住む「Jターン」もあるが、ともかく都会から地方へと移り住む動きが確かにある。さればと過疎に悩む自治体が、あの手、この手を繰り出して、都会人を地元に誘っている。  村人たちも都会人の流入に理解を示すようになった。地元の習慣を教えたり、農業の手ほどきをするなど、新隣人へのもてなし振りが、テレビなどによって伝えられる。猪肉を手に入れた、牡丹鍋を作ろう、新しく来たお隣さんも呼ぼうじゃないか、というようなことがしばしば行われているのだろう。  あたかも猪や鹿による作物の食害が目立っているが、被害を避けるだけでは能がない。地元にはハンターの他に、捕獲・肉処理・販売の業者などが生まれ、肉の買いやすく、食べ易い状況が生まれているという。新旧の村人の集う場となった「牡丹鍋パーティ」。これはまさに現代の一風景なのである。(恂)

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納豆どすか居ておへんえと京の宿     藤野十三妹

納豆どすか居ておへんえと京の宿    藤野十三妹 『合評会から』(酔吟会) 詠悟 京都のいやらしさがよく出ていますな。関東の食べものは、ゲスなものと思い込んでいます。この人、宿の仲居ですかね。知らないはずはないが、知らん顔をする。 反平 京都人の会話をそのまま俳句にした。その面白さが出ていて、とてもいい句だ。 恂之介 京都の人は「居ておへんえ」なんて言うのですか。京都弁が面白い。 水牛 納豆なんていう名の人は知りません、という意味でしょう。 恂之介 ははぁ、そういうことですか。納豆を知っていながら、そんな名前の人は、と・・・。 十三妹(作者) 私は水戸生まれだから、京都住まいの時は苦労しました。納豆のことはトラウマですね。              *           *  一年中、作られ、食べられている納豆がなぜ冬の季語なのか。ある歳時記が「納豆汁」だけを季語としていることで、大方の事情が知れる。すなわち現今は、納豆汁を通じて納豆にも思いをはせる、ということなのだろう。温かいご飯の上に載った納豆にも、冬の季節感がありそうな気もするが。(恂)

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その時は銀河の涯を探り見む     篠田 義彦

その時は銀河の涯を探り見む    篠田 義彦 『季のことば』  その昔、人間は銀河(天の川)を天空に流れる大河と見た。やがて天文学の進歩によって、地球を含む太陽系も銀河の一部であり、地球は取るに足らぬちっぽけな星の一つであることが分かってきた。しかも宇宙の情報はまことに膨大にして難解で、素人では銀河の実態を理解できないほどになってしまった。  ならば銀河の果てを、我が目で確かめてやろう、という壮大な句が登場した。大ボラであことは、作者も読む側も先刻承知である。「その時」とは、あの世へ行く時なのだろう。臨終の際、人間の脳は不思議な働きをするらしいから、ひょっとすると銀河の真実を見極められるか、という思いも生まれる。  俳句における銀河は長らく七夕伝説に付随する存在だったが、やがて句材として独立し、秋の夜空の主役と言えるほどになった。「冬の星」の傍題だった「冬銀河」も、いつの間にか独立した項目を得て、秋の銀河を上回るほどの人気を得ている。立冬も過ぎた。夜空に冴え渡る冬銀河を句にしてみようか。(恂)

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満天に星明りして音もなし     後藤 尚弘

満天に星明りして音もなし     後藤 尚弘 『季のことば』  「星明り」は星の光だけで十分に明るい夜空のこと。月はなくても月夜のように明るい星空を表す「星月夜」とほぼ同義と言えるだろう。歳時記では「秋の星」や「星月夜」の傍題としているものもあり、季語としての立場は定まっていないようだが、その意味するところは明らかである。  この句はもちろん、晴れ渡った夜空を詠んでいる。月は出ていないが、夜空の隅々まで星の光が及び、いつもとは違う、ぼんやりとした明るさに満たされているのだ。「音もなし」がこの句の眼目だが、具体的にどんな状況なのか。周囲に物音が絶えて、「星の呟き」さえも聞こえてこないのだろう。  ヨーゼフ・シュトラウス作曲の「天体の音楽」という結構賑やかなワルツがある。星などの天体の運行を音に表わしているとされ、「なるほど」と頷かせられるものがあるが、ちょっとしっくりこない面もある。日本人として、俳句を好む者としては、やはり「音もなし」の方がいいなぁ、と思うのである。(恂)

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我が影と二人連れなる秋の末   久保田 操

我が影と二人連れなる秋の末   久保田 操 『季のことば』  「秋の末」は「行く秋」「暮の秋」「秋惜む」などと同義のものと解してよかろう。晩秋の月夜を歩いていれば、我が影ははっきりとついて来る。人通りの少ない郊外の住宅地だと、まさにこの句のような光景になるだろう。  この句を句会で見た時には、それにしてもずいぶん淋しい句だなと思った。芭蕉が死ぬ前月あたりに詠んだ「此秋は何で年よる雲に鳥」に通じるような感じであり、陰々滅々たる気分になったのである。その上「我が影と二人連れ」というのもよく見受けるフレーズだし・・、悪い句ではないが一寸頂けないなあと、拾わず仕舞いになった。  しかしこの句を見直しているうちに、淋しい句と断定したのは早まったかなという思いがしてきた。「秋の果」ではなく「秋の末」と言ったのは、単に秋の終わりということを客観的に述べただけで、必ずしも詠嘆を込めたものではない。「我が影と二人連れ」は、誰に気兼ねすることなく深まる夜の秋の散歩を独り楽しんでいるようにも思える。そう考えてもう一度見直したら、とても面白い句に思えて来た。もう今日は立冬。まさにこれはきのう今日の句である。(水)

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天の川ダムの放水滔々と   深瀬 久敬

天の川ダムの放水滔々と   深瀬 久敬 『合評会から』(三四郎句会) 義彦 ぱっと光景が浮かんだ。天の川が見えて、その下にダムの放水があるんでしょう。ダイナミックな感じです。 崇 天と地、自然界と人間の社会の大きな取り合わせです。「ダムの放水」を「ダム放水の」としたらどうですか。(「その方が口調がいい」の声)。 恂之介 黒部ダムとか観光地では昼間放水するらしいが、夜にも当然、ダムの放水があるのでしょう。すごい風景ですね。        *     *     *  天の川とダム放水の取り合わせは豪快で、素晴らしい。昨日発信した「海峡に下北浮かべ天の川 有弘」は高みからの景色で静謐を感じさせる句だが、これはそれと逆で轟音が聞こえて来るようだ。作者は低い所に居て、前景に勢いよく落下するダムの放水、視線を上に辿るとダム湖を作っている両側の山、さらにその上に天の川の流れる大きな夜空という構図である。見たままをそのまま十七音字に写し、自然と人工の織りなすダイナミズムを生き生きと伝えている。(水)

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海峡に下北浮かべ天の川   河村 有弘

海峡に下北浮かべ天の川   河村 有弘 『合評会から』(三四郎句会) 義彦 高いところから見ているのでしょう。天の川の下に下北半島が浮かんでいる。スケールの大きい句ですね。 崇 読むほどに大きな景が浮かんできます。作者の実感だと思う。 進 本当に、広々とした景色ですね。 恂之介 北海道側から下北を見たのかな。昼間に見たことありますが、これは半島が夜の海に浮かんでいる。印象的な句ですね。        *     *     *  作者の弁では函館山から見たのだそうである。芭蕉の「荒海や」の句のようで気にしていたと言うが、これは別種の趣があり、堂々たる一句である。芭蕉句が水平の視線であるのに対して、こちらは俯瞰である。作者も天の川にあって、下北半島を見下ろしているような気分が覗える。句会の面々が語っているように、すこぶるつきのスケールである。さらりと詠んでいて、「大景を詠んでやろう」などというけれん味が無いのがいい。(水)

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行く秋やラストダンスを黒揚羽   藤村 詠悟

行く秋やラストダンスを黒揚羽     藤村 詠悟 『この一句』  黒揚羽(クロアゲハ)は普通の揚羽蝶(キアゲハ)が黄色の目立つ蝶であるのに対して、全体が黒く、後ろ羽にオレンジ色の斑紋があって、ちょっと妖艶な感じがする。  アゲハチョウの類は悠然と夏になってから出て来る。それで夏の季語とされているのだが、秋になっても盛んに飛び回る。十月、蜜柑類の木に卵を産み付けると、いつの間にか姿を消して行く。ところが十一月の声を聞いてもまだふわふわと飛んでいることがある。しかしもう、盛りの頃の張りは薄れてしまっている。  晩秋の昼下がり、手のひらほどもあろうかという大きな黒揚羽が木蔭から不意に現れたりすると、夢幻の境地に引き入れられるような気分になる。それはかつて都心の大劇場を満員札止めにした歌姫が、地方の公会堂の小舞台に立ち、愁いを帯びた笑みを浮かべているようにも見える。そうした人間どもの勝手な思い込みなどものかは、黒揚羽は優雅に舞い続ける。行く秋の黒揚羽は誇り高く美しい姿を崩すまいと気張っている。(水)

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