行く秋やだらだらと飲む金曜日   村田 佳代

行く秋やだらだらと飲む金曜日   村田 佳代 『季のことば』  夜長の秋ともなれば金曜日と言わず毎日飲み過ぎてしまう。だからこの句にぶつかった時、「だらだら飲んでもいいのは金曜日だけですよ」なんて言われているような気がして、意地悪なことを言うなあと思った。しかし、もとよりそれは毎日が日曜日の老耄のバカバカしい邪推である。  「金曜日」こそは真っ当な人にとって、こうした気分に浸れる日に違いない。つらつら思えば私にだって、一週間ちゃんと働いて、やれやれ一息と大ジョッキを傾ける週末があった。むろんそれだけでは終わらず、だらだらと飲んだのであった。  この句は「だらだらと飲む」という措辞によって、酒飲みのしまりの無さのようなものを感じさせる恐れもある。しかし、そういう否定的な意味合いではなく、自分をすっかり解きほぐしているということなのである。半ば意識して、だらだらと飲んでいるのだ。これぞ至福の時なのである。  「行く秋」という季語の雰囲気を「だらだらと飲む」という普通ではない言い方で詠み、しかもその感じを実によく表していると思う。(水)

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箒目の気ままな庭や小鳥来る     大熊 万歩

箒目の気ままな庭や小鳥来る     大熊 万歩 『合評会から』(日経俳句会) 二堂 庭はさっさと掃いたのでしょう。普通の家にも小鳥が来た、という嬉しさがよく出ている。 実千代 箒目がまっすぐではなく、「気まま」としたところが、すごくいいと思います。 正市 寺などではないが、そこそこ広い庭でしょう。庭掃除の最後で塵取を使うと、どうしても箒目は乱れますが、その辺は気にしない。「気まま」という表現が斬新です。 双歩(啓明改め) 庭に小鳥来るは当たり前ですが、気ままに掃いた様子に味がありますね。 万歩(作者) 初め「箒目の正しき」としたのですが、いろいろと変えてみまして・・・。 誰か 推敲の勝利だな。             *         *  表現をいろいろと変えみたが、結局元通り、という経験は誰にもあるだろう。しかし気に入らない言葉は、変えなければいい言葉にならない。「推敲の迷路」の先には必ず出口があるとも言う。(恂)

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庭園の新婚撮影小鳥来る       大石 柏人

庭園の新婚撮影小鳥来る       大石 柏人 『この一句』  作者は大きな団地のラジオ体操主宰者である。この時期は毎朝、暗いうちに会場に立ち、参加者を待ち受けて、自ら考案した「元気」印のハンコを出席カードに押す。長くやってきた俳句も、このところ「体操もの」ばかりになった。「体操俳句」という新分野を開拓しようという意欲が感じられる。  句会への投句も体操オンリーになった。もちろんいい句も少なからずあるのだが、作者が分かってしまうだけに選び方が悩ましい。そんな時に出てきたのが上掲の句である。披講後、作者が判明した時、「ほう」という声が起きた。心なしか「そうか、よかった」という雰囲気が感じられた。  この句、新郎新婦が式場の広い庭に立ち、家族や友人たちが廻りを囲んでいるという場面である。芝生が一面に広がり、植え込みも当然あるはずで、「小鳥来る」という季語の持つ明るさが快く描かれている。「投句の半分くらいはこのような句を――」。後輩の一人として、そんな期待を抱いたのであった。(恂)

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長月や生きた分だけ爪を切る     岩沢 克恵

長月や生きた分だけ爪を切る     岩澤 克恵 『この一句』  この句、句会で大いに気になった。選べなかったのは「生きた分だけ」がはっきり理解出来なかったからだ。合評会で「どういう意味だろうか」と訊ねてみた。欠席投句なので作者の答えはないのだが、何人かの解釈に納得した。「前に爪を切ってから、その日まで」。なるほどそうかも知れない。  十日に一度か、二週間に一度か、女性は爪を丁寧に切っているのだろう。形を整え、やすりで削り、その後のことは分からないが、男性には思い及ばぬ気持ちを注いでいるに違いない。長月がその爪切りと、どう関わり合っているのか。長月は「長雨の月」から来ており、長雨は「眺め」の掛詞だという。  その昔の古文の授業を思い出した。小野小町の「花の色はうつりにけりな いたずらに」に続く下の句の解釈である。「わが身世にふるながめせしまに」。先生は「美人が長雨を眺め、世に古る自分をしみじみと思っている」と説明した――。勝手なことを書いたが、さほど外れていない、という思いもある。(恂)

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落日の尾瀬輝けり草紅葉       野田 冷峰

落日の尾瀬輝けり草紅葉       野田 冷峰 『季のことば』  四十年も前になるだろうか。晩秋の尾瀬を訪れ、草紅葉の素晴らしさに目を見張ったことがある。やはり落日の時刻であった。尾瀬ヶ原の見渡す限りが黄金色に輝いていた。同行の一人が「水芭蕉に感激しているようでは尾瀬の素人だなぁ」と語り、みんなが「そうだ、そうだ」と同調した。  何日か後に仲間が顔を合わせた時、草紅葉のことが話題になった。「ススキではなかった」という言葉はあったが、草の名は誰も知らない。パソコンが普及するずっと前のことである。一人が「尾瀬の植物」というような図鑑で調べたところ、載っているのは花ばかりで、草のことは分らなかったという。  この句によって「あの草」を思い出した。早速インターネットで「尾瀬の植物」を検索したら、出てくる写真はやはり花ばかり。一つ「これかな」と思われるのがワタスゲ(綿菅)だが、細長い茎の先端に白い綿帽子を付けていた。花が落ちて「名もなき雑草」と化した草が、尾瀬の秋を彩っているのだろう。(恂)

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鮭一尾届いたさてと腕を組む     杉山 智宥

鮭一尾届いたさてと腕を組む     杉山 智宥 『季のことば』  鮭一尾が家に届いたとなると大ごとである。何しろ体長一辰發△訛臺だ。浜育ちや海釣りの名人など、腕に覚えがあるなら「ホイ来た」とばかり出刃包丁を取り出すだろうが、普通の人では手に余る。しばし眺めた末に、おずおずと万能包丁の刃を入れる、というということになるのだろう。  かつて塩鮭は有力なお歳暮贈答品の一つで、それを捌くのが各家の大仕事であった。男手のない時などは近所の魚屋に頼む。頃合いを見て、バットという琺瑯引きの四角い容器を持ち、切り身になった鮭を魚屋に取りに行くことになる。年配の人には、このような記憶を持つ人が多いのではないだろうか。  しかしお歳暮の鮭は塩の効いた荒巻のことで、こちらは冬の季語になってしまう。近年は北海道などから、獲れたてが宅配便などで送られてきて、刺身でも食べられるという。荒巻ではないから、この句はまさに現代の秋の風景だ。近所に親しい魚屋がないから、ますます「さて」と腕を組むことになる。(恂)

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海の果て見つめる猫の影長し   藤野 十三妹

海の果て見つめる猫の影長し   藤野 十三妹 『季のことば』  ご主人の帰るのをじっと待ち続け、改札口の方向を見つめているのは忠犬ハチ公。猫はそんなサービスはしてくれない。ご主人なんか餌もらう時以外は関係無い、もっぱら自分の気になる方角や物事をじっと見据えるだけである。この「見つめる」という動作は、犬よりもむしろ猫の方が得意というか、猫には元々そういう癖があるようだ。  我が家のチビもひまさえあれば書斎の出窓に座ってじいっと外を見つめている。TVコマーシャルの「窓猫」そのもので、外の石段を通りかかる娘さん達が気付いて「カワイーッ」なんて立ち止まったりするが、チビは別にそう言ってもらいたくてそうしているわけではないようだ。知らんぷりしている。この句の猫はたぶん海に思い入れがあって、何かというと海を見てるのだろう。  句会で見た瞬間いい句だなと思ったのだが、季語が無いので取るのを止めた。しかし、「影長し」は晩秋から冬にかけての季語として十分資格がある。寂寥感漂い、抒情味豊かではないか。「夜長・長き夜」(秋の季語)、「短日・暮れ早し」(冬)ともなれば、背をそらせ遠くを見つめる猫の影もぐんと長くなる。(水)

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小上りに古希ことほぐや走り蕎麦   玉田 春陽子

小上りに古希ことほぐや走り蕎麦   玉田 春陽子 『この一句』  粋な句である。まず「小上りに」という出だしがいい。「うちは飛び切りの老舗ですよ」なんて看板を鼻先にぶら下げた嫌味な蕎麦屋ではない。ごく庶民的な昔ながらの店だが、食わせるものに間違いのない蕎麦屋である。気軽な店で、腰掛席の脇に低い畳敷きの小上りがあって、低い衝立で仕切ってある。  気のおけない仲間四、五人が上がり込んで、「タマちゃん古希お目出度う」なんてやっている。新蕎麦にはもちろん醸したばかりの「新走り」。こういうのを「歯にしみ通る」というのだろう、しみじみ幸福感に浸る。悪ガキ時代からの仲間があれこれ他愛の無い旧悪を暴露しながら、「お前もよく七〇まで生きたもんだ」「そういうお前こそ」なんて笑い合っている。端からみれば至極馬鹿々々しい情景だが、本人同士、ふざけ合っているようでいて案外真面目である。  お互いに身体のあちこちに不具合が生じ始めているが、立ち居振る舞いにはまあ支障はない。欲を言えば切りがないが、まずまずの暮らしを送っている。この状態をまずは寿ぐべきなのだろうなあと、新蕎麦の最後の切れっ端をつまんだりしてる。(水)

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ぐあぐあととろろ擂る母日曜日   高井 百子

ぐあぐあととろろ擂る母日曜日   高井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 水馬 これはもうまさにオノマトペの「ぐあぐあ」が明るくて、美味しそうで、いただきました。 大虫 擂り鉢を擂る音をうまく表現してますねえ。        *     *     *  これもとろろ擂りを詠んだ句だが、「お母さん」に焦点を絞っている。選者の評の通り擬音語の効果が鮮やかだ。擂粉木を回す音は「ごろごろ」「ごりごり」と書くのが普通だが、作者は「ぐあぐあ」だという。  オノマトペとは音を感じたままを文字に写すのだから、人によってさまざまに変わる。しかし、自分勝手な表記では読む人に分かってもらえないから、自ずと収斂していって、犬は「わんわん」、猫は「にゃあにゃあ」と定まって行く。  しかし、オノマトペを用いて俳句を詠もうとすれば、新機軸を打ち出したくなるのが人情である。この句の「ぐあぐあ」はどうか。ごろごろより威勢が良くて、いかにも勢いよくとろろを擂る感じがする。一家を背負って立つ“肝っ玉母さん”の姿も浮かんで来る。元気が良くてとても気持がいい。(水)

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子等の手がすり鉢押さへとろろ汁   山口 斗詩子

子等の手がすり鉢押さへとろろ汁  山口 斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) 大虫 まだそんなに大きくない子供たち。何か手伝いたいと、すり鉢押さえている。お母さんがせっせと擂る、そういう風景がヴィヴィッドに見えて来ます。 水馬 大変微笑ましい光景で、いい句だと思います。 厳水 私は「待ち切れず母手伝ひてとろろ汁」と作りましが、元々はこういう風に詠みたかったんです。今これを見て、なるほどと感心しています。        *     *     *  ほんとにこれは素直に詠んでいて、ほのぼのとした感じの伝わって来るいい句だ。昔も今もとろろ汁は家族みんなの大好物。とろろ芋を擂って醤油を利かせた出汁で伸ばした汁を温かい御飯にかけ、青海苔かもみ海苔をぱらりと振る。ただそれだけの単純な料理だが、なんとも滋味深い。懐かしさを感じる。  そのとろろ汁を作るのに、子どもたちが手伝うと言って、すり鉢を押さえている。擂粉木を力一杯回しているのはもしかしたらお父さんかも知れない。お母さんはにこにこ笑いながらもうひと品おかずをこしらえている。今夜の食事は一家揃って、さぞかし美味しいことだろう。(水)

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