祖母の声美顔水より糸瓜水      渡辺 信

祖母の声美顔水より糸瓜水      渡辺 信 『季のことば』  九月十九日は子規忌だった。別称「糸瓜忌(へちまき)」で知られるように、糸瓜が大きくなる頃である。この時期、東京・根岸の子規庵へ行くと縁先の棚に大きな糸瓜がぶらりと垂れ下がっているが、「おや、珍しい」という感じを受ける。糸瓜の栽培が、それくらい少なくなってきたということだろう。  かつて東京の多くの家で日除け用の糸瓜棚を作っていたが、最近はゴーヤに役割を譲ったようだ。九州や沖縄の食用を別にすれば、化粧水としての糸瓜水も、糸瓜タワシも、はるか昔のことになった。今や一定の地位を保っているのは、俳句の季語としての「糸瓜」「糸瓜忌」くらいのものかも知れない。  この句にも糸瓜を懐かしむ心情が窺えよう。糸瓜の枯れ始める頃、根元から三十造曚匹僚蠅鮴擇辰道絮賛紊鮗茲襪函一升瓶で一本は軽い。祖母が瓶を取り変えながら、口癖のように「美顔水より糸瓜水」と言う。作者はゴーヤの日除けを見上げ、祖母の声を懐かしく思い出していたのではないだろうか。(恂)

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ロッキーに汽笛染み入り天の川       印南 進

ロッキーに汽笛染み入り天の川       印南 進 『合評会から』(三四郎句会) 久敬 天の川にアメリカのロッキーを持って来たのがしゃれている。大山脈に汽笛が響いているというのだから、雄大ですね。 有弘 ロッキーに「汽笛染み入り」とはスケールが大きい。印象深い句ですね。 恂之介 あの辺りに鉄道は通っているのでしょうか。 有弘 カナディアンロッキーでしょう。 進 カナダから11時間も汽車に乗って太平洋側に出るのですが、その途中にロッキー山脈があります。天の川とともに、100両連結の貨物列車とか、向うの列車の規模にも圧倒されました。              *            *  最も印象深い天の川は? そんな会話に出て来たのは、ノルウェーのオスロで、豪州のエアーズロックで・・・という具合で、ほとんどが外国でのことだった。東京湾で夜釣りをした時、と言いかけて口をつぐんだ記憶がある。俳句の天の川も日本を出て、外国の舞台を選ぶようになってきた。(恂)

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岩風呂や赤子手伸ばす天の川        竹居 照芳

岩風呂や赤子手伸ばす天の川        竹居 照芳 『合評会から』(三四郎句会) 論 無垢な赤ん坊が岩風呂の中で思わず手を伸ばしたのですね。それほどきれいな天の川だった。 豊生 「名月をとってくれろと泣く子かな」(一茶)。あの句と同じように、子供の純粋さを感じる。 信 赤子が風呂に入って、「あれほしい」とおねだりしているのですか。 恂之介 赤ん坊はただ腕を上に伸ばしただけかも知れない。しかし余りにも綺麗な天の川だったので、大人たちは「取ろうとしている」と見たのだろう。 有弘 竹居(照芳)さんの句は優しいね。いつもそう思うんだ。 照芳(作者) 子供の頃、岐阜で大きな地震があって、夜は余震を警戒して外に出ていた。その時のものすごい星空のことなど、天の川の句を作りながらいろいろ思い出しました。               *          *  天の川はその昔、俳句も和歌の伝統に従い、七夕伝説に関連して詠まれていた。しかし昭和八年刊の歳時記には「天の川を単に天体として詠ずるは近代の傾向なり」とある。季語も世につれ、である。(恂)

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秋冷や何やら嬉しトレーナー     谷川 水馬

秋冷や何やら嬉しトレーナー     谷川 水馬 『季のことば』  俳句で「更衣・衣更え」(ころもがえ)と言えば、春着から夏着へ着替えることである。日本人の初夏の季節感を表す重要な季語一つと言えるだろう。ただし一般的には季節に相応しい着替えを意味しており、厚手のシャツを着たり、重ね着したりするのは、冬への衣替えと言って差し支えない。  この句の主人公はふと寒さを感じて、木綿地、厚手のトレーナーを着てみたのだろう。「トレーナー」は和製英語で、本当は「スウェットシャツ」と言うらしいが、ともかくあのふわふわ感はそぞろ寒の時期に捨て難い。「何やら嬉し」という表現を見て、本当にそうだなぁ、と思わざるを得なかった。  「裸虫(はだかむし)」という言葉がある。毛や羽などのない虫の総称だが、辞書類によれば「人間の異称」でもある。この時期、トレーナーを着た時などに、何とも言い難い嬉しさを感じることがあるはずだ。進化の過程で裸虫となった人間が、寒気の到来を前にして体毛を得た気分、と言えばいいのだろうか。(恂)

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敗荷のうすき日差しを浴びてをり     星川 佳子

敗荷のうすき日差しを浴びてをり     星川 佳子 『季のことば』  「敗荷」は「やれはす」と読む。蓮は晩秋から冬にかけて次第に枯れて行くが、最終的な「枯蓮」に至るまでの、途中の状態にあるのが敗荷である。「破れ蓮」と書いてももちろんいい。しかし歳時記の一番目には依然として「敗荷」が置かれており、正式な表記はこちら、と言えるのだろう。  この句は今月初め、東京・足立区の西新井大師吟行に於いての作。境内の一角に鯉の泳ぐ池があり、池中の蓮がちょうど敗荷の状態にあった。茎が「く」の字に曲がったり、枯れかけている葉もあったが、緑の葉もかなり残っている。曇りがちの空から時折、淡い光が射してきていた。  いま思うと、あれこそが敗荷に相応しい状況であった。枯蓮になってしまえば晴天の下でも、雲の重く垂れこめる日でも、それなりの趣が生まれるだろう。しかし枯れて行く途中となると「うすき日差し」に勝る語があるだろうか。この句に「何かもう一言欲しい」という声もあったが、さらなる修飾は余計かも知れない。(恂)

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小鳥来て世間話のひとしきり   流合 研士郎

小鳥来て世間話のひとしきり   流合 研士郎 『季のことば』  この句会にはもう一つ「鳥わたる友のおしゃべり暖かき 実千代」という似た趣向の句が出ていた。蕪村に「小鳥来る音うれしさよ板びさし」という名句がある。ちょっと朝寝していたら、庇をかさこそと歩き回る小鳥たちの足音が聞こえてきた、ああ今年も渡って来たんだなと思う。小鳥たちも安心しているのだが、蕪村もほっとしているのである。そんな気分に通い合うほのぼのとした雰囲気が、この二句にはある。  晩秋、北方からツグミをはじめ小鳥たちが続々と渡って来る。暖かい冬を過ごせる日本にようやっとたどりついて、それぞれねぐらを定めるべく、仲間同士おしゃべりを交わす。安堵の気持からか、その鳴き交わしは実に楽しげに聞こえる。それが「友のおしゃべり」や「世間話のひとしきり」、つまりは夕刻の井戸端会議の風情と響き合って、実に感じの良い句になっている。  東京近辺の住宅密集地では渡り鳥を実見しにくくなった。しかし、ちょっとした広い公園や河原に行くと、「小鳥来る」光景に出会える。これも俳句に親しむようになったからこそ得られた「うれしさ」である。(水)

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子供等は土手に坐りて天の川   宇野木 敦子

子供等は土手に坐りて天の川   宇野木 敦子 『季のことば』  「七夕」は七月七日、「天の川」はその夜空に現れる銀河。しかし、現在のカレンダーは太陽暦(新暦)で、七月七日はまだ梅雨の最中だから滅多に星空など拝めない。元々の七夕祭は旧暦七月の行事で、新暦では概ね八月半ばになる。従って俳句では七夕は秋の季語とされ、これがしばしば混乱を招く。  江戸の昔、七夕に合わせて入谷で朝顔市が開かれた。明治五年に新暦に切り変わって、さあどうする。朝顔栽培業者は油障子で囲った温室を作るなど苦心惨憺して新暦七夕に朝顔を咲かせ、「七月七日の朝顔市」を存続せしめた。しかし天体はそうはいかない。やはり澄みきった秋の夜空でなくては天の川は現れてくれない。それで今では、「朝顔市」は夏の季語、「朝顔」と「天の川」は秋というねじれが生じている。  この句は新暦か旧暦かはともかく、子どもたちが土手に仲良く並んで夜空を見上げているということだけをすらっと詠んでいる。全くなんの技巧も凝らしていない。にもかかわらず、清澄な秋の夜の空気が肌に沁みて来る。おそらくこの子供たちもスマホゲームとは異なる何とも言えない大自然の神秘を感じ取っているのではないか。そういうことまで思わせる句である。無技巧の技巧とでも言おうか。(水)

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太陽を頬張り石榴裂けにけり   岡本 崇

太陽を頬張り石榴裂けにけり   岡本 崇 『合評会から』(三四郎句会) 久敬 石榴が熟して割れている様子ですね。太陽を頬張る、石榴が裂けるという、リアルな表現が印象深い。 敦子 同感です。この句がいちばん最初に目につきました。 信 石榴って真っ赤ですね。それに太陽の光、刺激的です。 有弘 とても絵画的だと思いました。静物画かも知れないが、強烈な光が感じられる。 進 我が家の近くに石榴が二本あって、いつも見ていますが、本当に真っ赤で、太陽を受けて、こんな印象ですね。 恂之介 太陽を「頬張る」という表現がどうかなと思ったが、いま見直すと石榴の裂けた感じとよく合っています。        *     *     *  「太陽を頬張る」とはよくぞ言ったものだ。大きく笑み割れたザクロは見ようによっては毒々しく、生々しく、他人の子を取っては貪り食った夜叉神にふさわしい。まさに石榴は口いっぱいに日の光を吸い込み、耐えきれなくなってばかっと割れたのだ。(水)

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行く秋や詩朗句集の深き味   須藤 光迷

行く秋や詩朗句集の深き味   須藤 光迷 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 「深き味」と「行く秋」とが合っています。 智宥 ほんとにいい句文集だった。 正裕 詩朗さんの句は、読み返しても上手さの中に独特の味わいがある。「行く秋」の季語が生きている。 冷峰 俊子夫人のまとめあげた詩朗句文集は本当の逸品。 十三妹 詩朗さんへのこよなき一句です。 定利 句文集『団居(まどゐ)』。まさに、今頃読むと一段といいですね。        *     *     *  日経俳句会、番町喜楽会はもとより、どこでも人気者だった「シローさん」が逝って二年半、『団居─山口詩朗句文集』が発刊された。故人の良き人柄が偲ばれる良い本で、すこぶる好評。この句も句会で断然トップの票を集めた。しかし、故人とその作品を知らない人には全然通じない句である。“同じ釜の飯”の仲間には熱狂的に迎えられる句だが、普遍性を欠く。「座の文芸」と言われる俳句には、そうした特殊性がある。(水)

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行く秋や壁のゴキブリ手ではたく   岡田 臣弘

行く秋や壁のゴキブリ手ではたく    岡田 臣弘 『季のことば』  晩秋は虫たちも一生懸命である。子孫を残すためか、自分が越冬する体力をつけておくためか、しきりに食糧を求め動き回る。蟻は虫の死骸や動物質のゴミに群がり、蜘蛛は羽虫を絡め取ろうと巣を張り巡らす。ゴキブリだって同じである。  造化の神の配剤か、ゴキブリは人間の住み処に近く暮らすよう仕向けられたのが幸せでもあり、またとない不幸でもあった。食い物が簡単に獲得できるのは幸せだが、人間に見つかったが最後、殺虫剤を浴びせられ、箒で引っぱたかれる。それがため、昼間は人目につかぬ所に潜み、夜暗くなると出て来て台所などを這い回る。ところが、秋も深まって来ると、ゴキブリの食欲は旺盛になって、昼間から出て来たりする。  さてこの句、行く秋の物思いに耽っていて、ふと気付くとゴキブリが壁を這っている。あいにく手近に殺虫剤は無いし、良き得物も無い。拱手傍観、ゴキブリの蹂躙を黙って見逃すか──。老いてなお血気盛んなる主人は、「こいつめっ」と叫ぶなり、手で叩き殺した。裂帛の気合いが句に漲っている。しかも実にバカバカしくて、面白い。(水)

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