靴底に八月の熱感じつつ     石黒 賢一

靴底に八月の熱感じつつ     石黒 賢一 『季のことば』  八月の末は夏と秋の端境期である。テレビやラジオをアナウンサーはこのところずっと「もうすぐ秋なのですですが」と夏の暑さを嘆いていた。ところが俳句をやっている人はちょっと違う。「暦の上ではもう秋なのに」と思いながら、訪れつつある秋の気配を敏感に感じ取っているはずだ。  私(筆者)はいつもスニーカーのような底の厚い靴を履いている。だから靴の中の全体が熱く、この句を見たときは「足裏に靴底の熱を感じるものだろうか」と思った。しかし句の作者が分かって了解した。この人は仲間内で知られたお洒落で、底の薄い、高価そうな靴を愛用している。  そうだろう、と頷いた。あのような靴なら、アスファルト道路の炎熱をストレートに感じるに違いない。句は「感じつつ」で終わっている。熱いなぁ、まだ真夏のようだ、と詠みつつ、季節の変わり目を暗示しているのだ。句会から十日ほど経った。薄い靴底はもう、秋の到来を伝えているのだろう。(恂)

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サングラス気持華やぐ魔法かな   池村 実千代

サングラス気持華やぐ魔法かな   池村 実千代 『この一句』  「魔法かな」というのがちょっと言い過ぎではないかと、句会では採らなかったのだが、後から当日の全作品を読み直しているうちに、思い切ってサングラスをかけた時の気持を素直に5・7・5にした感じがなかなかいいなと考え直すようになった。  サングラスの句というと、とかく「本心を隠す」とか「斜に構える」「コワモテ」といった面が取り上げられるが、この句はサングラスの明るい面を詠んでいる。もう何十年も前に大人気だったアメリカから輸入のテレビ番組「奥様は魔女」、それに触発されて生まれたアニメ「魔法使いサリー」などが盛んに発していた、「上り坂の時代」の肯定的な明るさを感じる。  きっとこのサングラスは眼鏡の縁や蔓に金銀宝石などが象眼されたり、凝った意匠のおしゃれ用に違いない。玉の色もあまり黒っぽくなくて、バイオレット、ブルー、セピア系かもしれない。「ちょっと派手かしら」などと言いながら掛けて鏡に映す。なんだか若返った気分になって、嬉しい。(水)

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敵機なき夜空を飾る大花火   田村 豊生

敵機なき夜空を飾る大花火   田村 豊生 『合評会から』(三四郎句会) 崇 花火の夜空と悲惨な空襲下の夜空。いま平和の中に生活している、という感慨ですね。 恂之介 平和な世の中がいつまでも、という思いが感じられます。 正義 私は岐阜の田舎にいたが、焼夷弾が落ちるのを何度も見ています。とても明るくて子供心に花火のようだと思いましたが、やはり本当の花火の方が綺麗ですよ。 進 私は宇都宮にいて製粉工場が爆発炎上するのを見ましたが、粉の種類によって爆発の仕方が違うらしい。あれは何の粉だ、と解説する人がいましたね。        *     *     *  平均年齢80歳になんなんとする句会だから、こういう句がしばしば出て来るし、それにまつわる思い出話が参加者の数だけ出て来て止まらなくなる。私とて同じ。「その話、去年も聞いた」と若い者にウンザリ顔をされる。しかし、嫌な顔されようが、話し続けると心に決めている。それが戦中戦争直後を生きた者の務めだと思っている。(水)

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朝顔や妻の小言を聞き流し   宇佐美 諭

朝顔や妻の小言を聞き流し   宇佐美 論 『季のことば』  朝顔は品種改良と栽培技術が進んだ結果、今では七月早々から園芸店に並ぶ。有名な入谷の朝顔市も毎年七月六、七、八日の三日間と決まっている。こんなところから、俳句にかなり慣れた人でも朝顔を夏の季語と勘違いしてしまうことがあるが、朝顔はれっきとした秋の季語である。これは実際に朝顔の種を蒔いて育ててみれば分かるのだが、盛んに咲くのは八月である。また朝顔は別名を牽牛花(けんぎゅうか)と言うように、昔から牽牛織女の七夕の頃の花とされていた。七月七日は旧暦では言うまでもなく秋である。  この句、「妻の小言」を朝顔と取り合わせたところ、実に味がある。妻も甲羅を経て山の神などと呼ばれるようになると、小言発生器と化す。よくもまあ朝っぱらから小言のタネを思いつくものよ。まるで次から次に咲き続ける朝顔みたいじゃないか・・。恭順を装いつつ耳に蓋をし、萎んだ花殻をむしったりしている亭主の姿が浮かんで来て、実におかしい。(水)

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石一つドナウの始まり滴りぬ   水口 弥生

石一つドナウの始まり滴りぬ   水口 弥生 『この一句』  ヨーロッパを代表する大河の一つドナウは南ドイツの森林シュヴァルツヴァルトに発する。いくつもの小流れが集まり、ドナウエッシンゲンという森に囲まれたお伽の国のような町を流れるブレク川になり、大理石像などあしらった由緒ありげな泉が「これぞ源泉」ということになっている。大正時代、ウイーン留学時にここを訪れた歌人斎藤茂吉は故郷の最上川と重ね合わせて大感激したのだろう、「大き河ドナウの遠きみなもとを尋めつつぞ来て谷の夕ぐれ」と詠んだ。  しかし、ドナウ源流点というのは数カ所あって、正確にここがそうだということは決められないようだ。昔、私が住んでいたプラハからウイーンに至る街道の尾根筋にも「ヨーロッパ分水嶺」というのがあって、「ここよりドナウ、ライン、ブルタバ(エルベ)流れ下る」と刻んだ石碑が立っていた。  さて、この句の石は果たしてどこか。どこでもいい。黒々とした石が滴りに光っている。この一滴が悠久のドナウとなって延々三千キロ、黒海にそそぎ込むのだ。「これぞ滴り」というところを詠んでくれたものだと思う。(水)

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真白けき八月の雲動かざる   篠田 義彦

真白けき八月の雲動かざる     篠田 義彦 『この一句』  炎熱の八月を活写した。特に「真白けき八月」という措辞が強い効果を発揮している。失礼な言い方だが、この「真白けき」は「雲」の修飾語として使っただけなのかも知れない。「真白けき雲・八月の雲」というわけである。しかし、結果的にはすぐ下の「八月」を修飾しているから、「真っ白な八月」という新鮮でユニークな詩語を生んだ。  灼熱の太陽に照りつけられると、目がおかしくなるせいか、大気の変化か、あたりが真っ白に見える。あらゆるものがおぼろげになって、ゆらゆら揺れ始めたりする。白昼夢を見たりするのもそうした時である。私の記憶の中の「真白き八月」は昭和20年8月15日、疎開先の千葉の百姓家の前庭に直立不動して聞いた玉音放送の場面である。玉音は蝉の声にかき消されほとんど聞き取れず、真っ青な空に入道雲が立ち上がっていた。まさにこの句の通りであった。  もちろんこんな遥かな昔にまで遡らなくてもいい。平和な現代の高原をそぞろ歩きしているところと取っても良いだろう。あくまでも明るく、幸福な一時である。しかし、それも束の間の平穏かも知れない。「雲動かざる」が曲者である。その雲が動き出して、一天俄に、ということも感じさせる。とにかく、いろいろ考えが広がる面白い句だ。(水)

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人情の薄き地下鉄サングラス   岡田 臣弘

人情の薄き地下鉄サングラス   岡田 臣弘 『この一句』  JRだって近郊私鉄電車だって乗客同士のつながりなどほとんど無いのだが、地下鉄となると都心の交通機関だけに一層無機質な、単なる「足」という感じで、義理も人情もあらばこそといった塩梅である。近くの人に下手に言葉をかけたり、微笑みを見せたりすると、あらぬ誤解を生む恐れがあるから、隣との間に見えぬ仕切りをこしらえるかのように、身体を硬くしている人が多い。  この句はなんと地下鉄に乗ってもサングラスをかけている妙な人である。だからと言ってこの人物は暴力団風のコワモテ男ではなく、ごく普通の人、それもかなりお洒落な女性なのではないか。意識してつんとしているのではなく、周りから隔絶するような生き方が身についてしまっているようなのだ。サングラスもこの人にとっては眩しい陽光を遮るためのものではなく、自分と人とを仕切る道具になっているのだろう。東京沙漠には理知的で美人でお金がありそうで、にもかかわらず幸せではないような感じの人が目につく。  そうした鉱物質の都会の雰囲気を、あくまでも叙情的にうたった佳句。(水)

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八月の棚田見廻る赤とんぼ     吉田 正義

八月の棚田見廻る赤とんぼ     吉田 正義 『合評会から』(三四郎句会) 久敬 八月の棚田の空気をよく表わしていると思います。 義彦 赤とんぼが棚田の上を飛ぶ様子がよく分かる。見回るという言葉が気に入った。 敦子 そうですね、赤とんぼが見回っている、という情景が見えてきます。 進 私も言いたいことは全く同じ。季語が二つだが、敢えて選んだ。 恂之介 実際は虫を追っているのですが。見回っている、かのように見えたのですね。              *          *  兼題は「八月」だった。それに「赤蜻蛉」も季語。「季重なり」は禁止、と思っている人には選べない句だろう。しかし芭蕉は「一句に季節二三有とも難なかるべし」(去来抄)と言っている。複数の季が相照応してさらなる効果を生めばそれでいい、ということだ。この句、稲が実る頃の「八月」と、田の上を飛ぶ「赤とんぼ」のどちらも欠かせない。作者は七十歳代半ばで俳句を始めたばかり。二度目の句会で、この句が最高点を獲得し、出席者全員の拍手を受けた。(恂)

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山門の仁王大暑を吐き続け     直井 正

山門の仁王大暑を吐き続け     直井 正 『この一句』  仁王は別名・金剛力士。一対が寺院の山門の左右に立ち、参拝の人々を睨みつけている。一方が口を開いた「阿形(あぎょう」、他方が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」である。寺院内に悪者が入るのを防ぐ役割を持つから筋骨隆々、強そうな、恐ろしそうな表情をしていなければならない。  寺によって木立に囲まれて涼しげな山門もあるが、この寺の場合は日にさらされているのだろう。「大暑を吐き続け」ているのはもちろん「阿形」である。しかし「吽形」も怒りをこらえている表情をしているのだから、いつ怒り出すか分からない。作者は二種の表情がかもす暑さを感じているのだろう。  二十四節季の「大暑」からから一か月がたったが、暑さは収まるどころか却って厳しさを増しているかのようだ。その一方で豪雨による大災害が発生し、一体全体どうなっているのだ、と言いたくなる。「日本は冬夏二季の国に変わった」という見方さえある。仁王はまだまだ怒りを吐き続けるのかもしれない。(恂)

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雲の峰はるけく生きて来たりけり     大沢 反平

雲の峰はるけく生きて来たりけり     大沢 反平 『季のことば』  「坂東太郎」は関東随一の河川・利根川の異称である。しかし江戸の方言では入道雲、つまり「雲の峰」のことでもあったとは。ならば、と調べてみたら信濃太郎、石見太郎、丹波太郎、安達(あだち)太郎、比古太郎も雲の峰。信濃太郎は近江や越前の呼び名で、比古太郎は英彦山に湧くからだという。  雲の峰の名称は「夏雲奇峰多し」(陶淵明)など中国の詩に由来するらしい。しかしこの語、日本に移入されて本家よりはるかに豊かなイメージを生むようになった。「野社に太鼓うちけり雲の峯」立花北枝。「雲の峯石臼をひく隣かな」河野李由。雲の峰は何にでも似合うことを、日本人が発見した。  「雲の峯きのふに似たるけふもあり」加舎白雄。冒頭の句はこの白雄の句の系列だろう。。人生に関わる思いも、雲の峰によってより親しく感じられるのだ。「はるけく生きてきたりけり」。これに「雲の峰」を配されると、七十歳代も半ばを過ぎた者は「本当にそうだなぁ」と頷くほかなないのである。(恂)

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