段丘に夕陽見送る柿の花   河村 有弘

段丘に夕陽見送る柿の花   河村 有弘 『合評会から』(三四郎句会) 論 きれいな句ですね。夕陽の赤と柿の花の白。キャンバスを見ているような写実。 恂之介 段丘という言葉は珍しいが、河とか海などにある段々の丘ですね。夕陽と柿の花が合っています。           *     *     *  日本は列島の真ん中を山脈が走り、湧き出し流れ下る水が両側の山肌を削り土砂を押し流し、何万年も何百万年もかかって沖積平野を作り、その中を流れる川がまた左右を削り、という具合で処々方々に「段丘」が出来た。東京の山の手はほぼ全域が多摩川と荒川が作った武蔵野台地で、その周囲は崖となり段丘になっている。その崖っぷちには雑木にまじり、大きな柿の木が生えていた。宅地化が進んでほとんど伐られてしまったが、まだ郊外には残っている。  そういう段丘上の柿の木と夕陽といえば、先ずは朱色の実をつけた柿の木を念頭に浮かべる。つまり晩秋の句となる。ところがこの句は柿の花を配し、夏の夕景を描いた。実にユニークであり、それがまた成功している。「物思ひ」は、秋と春に限らないことを証明しているような句である。(水)

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若き継母父を奪ひし梅雨の入り   藤野 十三妹

若き継母(はは)父を奪ひし梅雨の入り   藤野 十三妹 『この一句』  恐らく自分のことではないだろう。近くにそういう事例があったわけでもなさそうだ。これは、作者の頭蓋骨の内部に生まれた物語世界の一場面に違いないと思う。なにしろこの作者は稀代の物語作家である。  時には吸血鬼ドラキュラの出没するトランシルヴァニアの廃城に身を置き、ある時は倫敦塔の斬首台にバラを捧げ、またある時は平安の昔の羅生門あたりを陰陽師と行く。洋の東西おかまいなくおどろおどろしい話を耳にすればすぐさま探索に赴き、また新たな物語を紡ぐ。  というわけだから、句会でこの句の作者が明らかにされた時、またやられたかと苦笑した。実は初めてこの句を見た瞬間、多感な少女時代の辛い思い出を詠んだのか、それにしてもずいぶん大胆に心中を吐露したものだ、と胸を衝かれる思いをした。ところがさにあらず。欠席投句の作者は、句友たちの深刻になっている表情をひとり自宅で思い浮かべ、呵々大笑しているに相違ないと思い至ったのである。とにかくこういう遊び心も捨て難い。(水)

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町名に上と下あり祭来る   岡本 崇

町名に上と下あり祭来る   岡本 崇 『この一句』  「なるほどなあ」と唸った。なんともうまいこと詠んだものだと感心した。私の住まいは横浜の「みつざわしもちょう」、西へ向かって中町、上町と続く。町名に「上」「下」がつくのは全国各地にたくさんある。それがどうしたと言われるかもしれないが、こういうことに改めて気付かされるのが「祭」なのである。  東京や横浜など大都会の町は、住民の出入り激しく、古い商店街は近郊に次々生まれる大商業施設に客を奪われ寂れてゆく。「わが町」の存在感は年々薄まるばかりだ。それが年に一度の夏祭になると、息を吹き返す。酒屋のオヤジも魚屋のババも曲がった背中や腰を伸ばして、半被を着込んで若返り、祭で里帰りしてきた孫たちを先導して山車を引いたりする。神輿はさすがに他所からの助っ人を頼まないとおぼつかなくなっているが、それでも威勢良く各町内を練る。カミチョウ、シモチョウが意地の張り合いをしたりもする。  この日ばかりはシャッターが下りていた元荒物屋が開いて祭の会所になり、ご近所寄り集まって冷や酒、渋茶で久しぶりの縁台話に花が咲く。(水)

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梅雨茸足の爪切る木のベンチ   横井 定利

梅雨茸足の爪切る木のベンチ   横井 定利 『季のことば』  梅雨晴れのほっとした気分をよく伝えている句である。四、五日降り込められていい加減くさくさしていたに違いない。ようやく降り止んで、薄日が差してきて、それがだんだん強く眩しいくらいになる。  近所からにわかに活発に動き回る物音が聞こえて来る。みんな待ちかねた晴れ間だけに、洗濯だ買物だと忙しい。しかしこちらは別に何の用事も無い。家人はとっくに出かけてたった一人。そうだ足の爪を切ろう。濡れ縁の先のタタキに置かれた木のベンチに腰をおろし、ヨッコラショと言いながら片足を乗せる。我ながらぶざまな恰好だが、別に誰かに見られるわけでもない。  ぱちんぷちんと剪るそばから爪はあちこちに飛ぶが、土にまぎれてしまう。庭木のいい肥やしになるかなんてバカなことをつぶやきながら、ふとベンチの脚を見て驚いた。なんと大きなキノコが生えているではないか。  黴も生えれば茸も生える、ほんに日本は雨の国、ぱちん、ぷちん・・・。(水)

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