山降りて小さな滝に憩ひけり   井上 庄一郎

山降りて小さな滝に憩ひけり   井上 庄一郎 『この一句』  妙な技巧などとは全く縁の無い、実に平明な句である。平明過ぎて、日記の一行を切り取ってきただけのような、素っ気なささえ感じる。こういう大人しい句は、たくさんの句がひしめく句会では見過ごされがちである。果たして、この句もそうであった。  しかし、じっくり味わうにつれ、この句はだんだんその良さが湧いて来る。すっと読んだだけではとてもこの味は感得できない。  「小さな滝」は登山口にあるのだろう。登る時にも目に入る。その時は「かわいらしい滝だな」くらいは感じるかも知れないが、それ以上の思いは無い。だが、「山降りて」ほっとした時の、この小さな滝の与えてくれる爽やかさ、安堵感はさぞかしのものであろう。読んでいるうちに、私も一緒に登って降りて、滝のほとりに憩うているような気分になるのだった。  土用のさなか、夏座敷に独り煎茶を飲んでいる。そんな感じの句である。(水)

続きを読む

ゆらゆらと大暑の道の勤め人   高橋ヲブラダ

ゆらゆらと大暑の道の勤め人   高橋ヲブラダ 『この一句』  大都会のオフイス街の歩行者は、コンクリートと金属とガラスで出来た巨大な箱の底部を這いずり回っている虫である。さなきだに暑い真夏日に、取り囲むビルのガラスや舗装路の熱で空気は否が応でも蒸され、熱風となって街路を吹き抜け、時には澱む。  そういう所を歩くのはよほどの暇人か、どうしてもそこを歩かなければならない「勤め人」である。皇居東御苑で吟行があるからと、東京駅から炎暑の丸の内・大手町を突っ切る暇な老人が、万一熱中症にかかろうとそれは以て瞑すべし。しかし、仕事で歩き回らねばならぬのは気の毒である。勤め人でも「長」がつくようなのは車で行ける。アスファルトジャングルを夢遊病者のようにゆらゆらと行くのは、言うまでもなく哀しき平サラリーマン。  この「ゆらゆらと」が効いている。こうした擬音語・擬態語は句を浮ついた感じにしてしまうとして忌み嫌う向きもある。しかし、この句のように大暑の街の情景をうたうのに用いると、非常な効果を発揮する。人もゆらゆら、街もゆらゆら、やがては世の中全体がゆらゆら? (水)

続きを読む

自転車の背中丸まる夕立雲   杉山 智宥

自転車の背中丸まる夕立雲   杉山 智宥 『この一句』  廣重の「名所江戸百景」の一枚、「大橋あたけの夕立」が頭に浮かんだ。日本橋浜町と深川との間に架かる新大橋を突然大夕立が襲った図である。驟雨の橋上を、裾をたくし上げ白い脛を見せて、すぼめた傘に頭を隠し小走りの女性二人連れ、尻端折りで上半身すっぽりコモをかぶって駆け出す男などが生き生きと描かれている。  一方、この句は自転車。男か女か、町中か川沿いのサイクリング道か、そんなことは何も示していない。ただ、乗り手がサドルから腰を上げ背中を丸め、懸命にペダルを漕いでいる姿だけをクローズアップしている。そして、その背後にはむくむくと立ち上がる入道雲。もう、ポツリポツリ来ているのかも知れない。この必要な部分だけを摘出して見せる手法がまさに浮世絵的である。  怪物に追われ逃げ惑う小さな人間──ホラー映画の一場面のようにも見える。ついさっきまでは日常の極めてのんびりした雰囲気。それが一瞬にして変わる、そんな様子を大げさにではなく、あくまでもさりげなく詠んでいる。(水)

続きを読む

木の陰を渡って歩く大暑かな   澤井 二堂

木の陰を渡って歩く大暑かな   澤井 二堂 『この一句』  この気持よく解る。作者が顔の汗拭いながら、「さて、次の木蔭は」などと探している姿が浮かんで来る。「飛石伝い」という言葉があるが、これは「木蔭伝い」である。真夏の太陽が容赦なく照りつける街中は、アスファルト路面の照り返しもあるから少し歩いただけで頭がくらくらして来る。街路樹が落とすあるか無きかの陰さえ救いのタネで、そこを伝い歩くのだ。  俳句には「片蔭(かたかげ・片陰とも)」という夏の季語がある。炎天下の道路の片側に建物や塀などに沿って細長い日陰の部分ができる。それを片蔭と言い、歩行者は自然にそちらに寄って行く。「片陰を歩き片陰なくなれり 丘本風彦」という、二堂句の続きのような句もある。  木蔭の伝い歩きや片蔭歩きなど、実際は大した効果はないかも知れない。しかし、気は心というものである。そういう人情を素直に詠んで、共感を呼ぶ句になった。(水)

続きを読む

山の神と言ふバス停あり大暑   徳永 正裕

山の神と言ふバス停あり大暑   徳永 正裕 『季のことば』  大暑は二十四節気の一つ、太陽が黃経一二〇度の時で太陽暦では七月二十二、三日にあたる。暑さが最も厳しいとされる夏の土用の最中でもある。こういう時にいつ来るか分からないバスを待つというのは考えただけでもうんざりする。  この句は「山の神」というバス停の名前を見つけたことと、げんなりするような「大暑」という季語を組み合わせたことが成功の要因であろう。  ところでこの「山の神」バス停は一体どこにあるのか。グーグルで調べたところ、千葉県佐倉市の京成臼井駅近くにあるという。なんだ、作者の住まいの近くである。そばにゴルフ練習場があるようで、多分、そこへでも出かけての行き帰りにこの面白い名前を見つけ、いつかはこれを詠んでやろうと思っていたに違いない。そこへ「大暑」という兼題。待ってましたと一句出来上がり。  この奇妙な句またがりの、韻律不揃いなところが「うんざり感」を助長し、俳諧味を出している。この暑さ、これで家へ帰ると我が家にも居付いている山の神からまたあれこれ言われるかも、なんて考えているのかどうか。そこまでは知らない。(水)

続きを読む

あの寺もこの寺もまたあぢさゐ寺     片野 涸魚

あの寺もこの寺もまたあぢさゐ寺     片野 涸魚 『合評会から』(酔吟会) 冷峰 鎌倉をあちこち歩くと紫陽花の咲いている寺の多いですよ。今では鎌倉中紫陽花寺だらけだ。 詠悟 紫陽花は作るのに時間がかからない。手間もかからないので、あちこちに紫陽花寺ができる。 反平 話は違うが、土壌が酸性だと青に、アルカリ性だと赤くなると言われている。本当なのかな。 水牛 そう言われてはいるが、紫陽花の種類によって発色しやすさの違いがあるようだ。 恂之介 紫陽花はやっぱり青ですね。青い紫陽花の寺は人気が高いのだろう。 涸魚(作者) これ、観念句なんですよ。紫陽花に人気が出ると、すぐに紫陽花の寺が増える。そんな世の中をちょっと冷やかしてみたのですが。              *         *  いま、紫陽花は新種の“花盛り”だという。写真によると「これが紫陽花?」と驚くほど華やかで、鮮やかなものが多い。ただし園芸店で聞いたら「新種の地植えはけっこう難しいですよ。葉っぱばかり茂ったり――」だそうである。あじさい寺に新種時代は来るのだろうか。(恂)

続きを読む

梅雨明けや孫の褓もとれたるぞ     岡田 臣弘

梅雨明けや孫の褓もとれたるぞ     岡田 臣弘 『この一句』  褓は「むつき」と読む。たとえ読めなくても、「孫の褓もとれた」となれば、「オムツのこと」と了解されるだろう。赤ん坊が成長していく過程の最初に「離乳」があり、次が「オムツはずし」となる。オムツが早く取れる子は賢い、などとも言われ、赤ちゃんを見守る側にはかなり気になることだ。  梅雨明けの日、「オムツが取れましたよ」という報告があった。祖父は「そうか」と大喜びである。「とれたるぞ」には、「とれましたよ」と周囲に知らせる雰囲気がある。孫自慢はいやらしくなく、聞く方も温かく受け止めてくれる。「親バカ」の語があっても「祖父バカ」がないのはその表れだろう。  一方、「孫俳句」を否定する向きが多い。孫を詠むと句がヤワくなる、ということだが、反論もある。例えば句仲間の光迷氏は「妻を抱くのはいいが、孫を抱くのはダメという道理はどこにあるのか」と書き、私は大笑いして賛意を表した。なお「妻を抱く」句を知りたい方は、中村草田男の句を調べて頂きたい。(恂)

続きを読む

梅雨明けや書「特選」のハガキ来る      大石 柏人

梅雨明けや書「特選」のハガキ来る      大石 柏人 『合評会から』(酔吟会) 涸魚 このような句が詠めるとは、うらやましい。嬉しい気分がありありと出ている。幸せな人の句ですね。梅雨明けに相応しい明るさがある。 恂之介 嬉しいことを嬉しいまま、率直に表現している。作者から頂いたメールによると大きな書道団体の展覧会で、これまで「佳作」だったのが、二段跳びで特選になったということです。 正裕 それは素晴らしい。「梅雨明け」という言葉とぴったりだ。とてもすっきりしていています。              *           *  この句会の日、実はまだ梅雨は明けていなかった。書道展特選の朗報は「梅雨晴れ」の日に到来したそうだが、句会の兼題に合わせて「梅雨明け」としたのであった。当欄はなるべく出来たてホヤホヤの作品を載せることにしている。しかしこの句の場合、さすがにフライング気味なので、しばらく待つことにしたのだが、気づけばすでに梅雨明けの句が当欄に登場していた。そうだったか、と掲載を決めたら、二十二日、関東甲信は昨年より十六日遅れの梅雨明け。タイミングがあったと言うのだろうか。(恂)

続きを読む

菖蒲園花の高さの車椅子        田中 白山

菖蒲園花の高さの車椅子        田中 白山 『この一句』  菖蒲園に車椅子の人が菖蒲を見にきた。場所柄、人が後ろから押しているのだろう。一組だけか、どこかの施設から何組もいっしょに来たのか。句の雰囲気から、何組もが池の中の八橋(やつはし)を渡っていくのだ、と想像した。作者は少し離れたところから、その行列を見ているのである。  八橋は京都の菓子の名として知られるが、一説に伊勢物語に出てくるカキツバタの名所の橋だという。何枚かの板をずらしながら渡して行く見物用の橋で、今では菖蒲園の風物となった。そこを車椅子の列が渡って行く。押す人の胸から上が見える。車椅子の人の頭が見え隠れしている。  車椅子の人と菖蒲の花が同じ高さであることを、作者は発見した。それだけのことを言った句だが、菖蒲見物のことを考えさせてくれた。車椅子を押す人は菖蒲の群生を上方から眺めている。車椅子の人は花を真横から見ているのだ。菖蒲田の全景を見下ろせるような場所があるのかな、と思った。(恂)

続きを読む

向日葵や闘牛場の砂埃         須藤 光迷

向日葵や闘牛場の砂埃         須藤 光迷 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 向日葵(ひまわり)が一面に咲いている風景が見えます。その向日葵畑の中に闘牛場があって、周辺には砂埃が…、という風景ですね。 厳水 南ヨーロッパの果てしない向日葵畑が頭に浮かぶ。闘牛場なのだからスペインでしょう。南部のアンダルシア地方かな。向日葵と闘牛場の砂ぼこりという風景は珍しい。 綾子 そういう景色がありありと浮かんできます。 光迷(作者) スペインの地中海側から車で一時間ほど入った最古の闘牛場です。渓谷の中にありました。           *            *  句を見たとたん平原の中にある地方都市の闘牛場を想像した。最古の闘牛場だとすれば、アンダルシア・ロンダの闘牛場だろう。行ったことがないので調べると、作者の言う通り渓谷の中にあるようだ。しかし見渡す限りの向日葵畑の中にある闘牛場というイメージは容易に変えられない。よし、私の場合は平原で行こう、と決めた。俳句は作者の手を離れれば、もう、こちらのものなのだ。(恂)

続きを読む