夕干潟白鷺一羽ひそと立つ     竹居 照芳

夕干潟白鷺一羽ひそと立つ     竹居 照芳 『この一句』  夕暮れ迫る干潟である。潮干狩りの人たちはもう帰ってしまった。一羽の白鷺が上げ潮を感じ取ったか、帰巣の時が来たのか、薄暗い干潟からふわりと飛び立ったのだ。なかなか印象的な風景である。夕干潟は重厚な雰囲気を持つ舞台であり、飛立つ鳥は大きめの真白な鳥でなくては、と思う。  この句、実は「季重なり」であった。「干潟」は潮干や潮干狩と同グループの春の季語であり、「白鷺」は夏の季語なのだ。季重なりは好ましくないとされるが、現今は禁じ手のように見る傾向もあるだけに、どちらか一方の語を別の語に変えたらどうか、という指摘を受けるかも知れない。  そんなわけで私も季重なりは避けた方がいい、と考えた。ところがこの句の、どちらの語を変えてみても、うまくいかなかった。句の魅力は夕干潟と白鷺によって醸される独特のムードにあるようで、一方を変えると魅力の大半が消えてしまうのだ。この句、季重なりの成功例と言えるのではないか。(恂)

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白波の遠くに見ゆる潮干かな    後藤 尚弘

白波の遠くに見ゆる潮干かな    後藤 尚弘 『この一句』  何年か前、JR・海浜幕張駅に降りて呆然とした。連れの人によると、そのあたりは昔の潮干狩の場所だったという。六十年以上も前の記憶と現状は、原始時代と未来と言えるほどの隔たりがあった。私はここで浅蜊をたくさん採って、自宅(東京)に持ち帰り、母親から誉められたこともあった。  幕張、稲毛の潮干狩には何度も行っているので、干潟の広さを今もありありと思い出すことができる。黒々とした砂浜が延々と続いていた。風の強い日は句のように、遥か彼方に白波が立っていた。潮が上がり出すと、友人の借りたボートに貝などを載せ、何百辰皹砲ながら帰った記憶もある。  だから、この句を見た時は実に懐かしい思いがした。干潟の沖に白波の立つことはもちろん今でもあるし、作者が最近、実際に見た風景なのかもしれない。しかし私は、戦後間もない頃の潮干狩を詠んだのだ、と勝手に決め込んだ。こうして私の心の中に新たな一枚の「名画」が生まれた。(恂)

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