戦なき地球の夢や蜃気楼          高石 昌魚

戦なき地球の夢や蜃気楼          高石 昌魚 『この一句』  作者の昌魚氏が「日経俳句会報」に書いた随筆の中に「特攻チョコレート」という、旧制高校時代のエピソードがある。終戦後間もなくのこと、寮に配給されたチョコレートを食べ、学生たちがおかしくなった、というのだ。みんなが大騒ぎし、スポーツ選手は根限りの練習を続け、一晩中眠らぬ者が続出した。  学生らが食べたのは、軍が特攻隊用に作った覚せい剤入りのチョコであった。特攻隊員は覚せい剤の力を借りて、敵艦に突入していったのだ。私はそんな話を半信半疑で聞いたことがあったが、もはや疑う余地はない。有為の青年たちの命を、こんな手法で奪った国の罪の深さを、改めて思うばかりだ。  「蜃気楼」は春の季語である。この時期、蜃気楼は海などに現われるが、すぐ消えてしまう。戦なき地球の夢は、蜃気楼のように消えていくばかりなのか。いや、そうではない。蜃気楼は現実に存在するものが、映像となって現れてくるもの。作者ももちろん、夢の実現を信じておられるのだろう。(恂)

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寺町のどこかで梅が咲いている       大沢 反平

寺町のどこかで梅が咲いている       大沢 反平 『合評会から』(日経句会) 智宥 標語みたいだけれど、やっぱり俳句なんでしょう(笑い)。あっさりして、いいなと思いました。「どこかで梅が咲いている」と、止めたのはなかなか品がある。 佳子 寺町は塀が多くて中が見えません。梅の香りだけが匂ってくる。その中を散歩している春の喜びを感じられて、いいなと思いました。 定利 梅がいいんでしょうね。「どこかで咲いている」。さりげなく、だからいい。 光久 梅は香りで在りかが分かる。「寺町」が合っています。 水牛 俳諧の骨法をよく捉えている。桜は「見る」で梅は「匂い」なんですね。              *         *  「匂う」とか「香る」のような嗅覚にかかわる語を一切使わず、しかも「咲いている」と詠んで、「梅の香り」を感じさせる。「寺町のどこかで」も、もちろん辺りに梅香を漂わせるための重要な舞台装置である。俳句という短詩の特徴を、いかんなく示した一句、と言えるだろう。(恂)

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産直の菜にまじりをる春の草   金田 青水

産直の菜にまじりをる春の草   金田 青水 『この一句』  「産直」という言葉はすっかり定着して普通名詞になった。野菜や鮮魚などを市場を通さず生産者と消費者が直結した販売方法、「産地直結(直売)」の略称。田舎の道路沿いや漁港の近くには昔から葦簀張りの売場があったが、それが都会のスーパーやデパートのコーナーに現れて「産直」と呼ばれるようになってからもうずいぶんたつ。今や産直専門店のようなものまで現れ、缶詰瓶詰はじめ明らかに業者が納入している物品まで並べている“産直という名の土産物店”もある。  この句の産直は素朴なタイプのようである。売場こそ町なかの大きな店の一角なのかも知れないが、売っているものは農家が直接運んで来たもののようだ。それが証拠に、ほれ、小松菜に混じってぺんぺん草が一緒に束ねられているよ。  ちょっとした発見を喜んでいる風情が伝わって来る。サトウハチローは「ちいさい秋みつけた」と詠んだが、これはまさに「ちいさい春」を見つけた嬉しさである。(水)

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春の草放浪癖がむっくりと   杉山 智宥

春の草放浪癖がむっくりと   杉山 智宥 『季のことば』  「若草」という季語が萌え出た早々の初々しい香り立つ草を言うのに対して、「春の草」は萌え始めの草も言うが、むしろ春もやや深まり、緑色が少し濃くなって、ある程度伸びた時期のものを指すことが多い。思わずごろんと寝っ転がりたくなるくらいに生えそろった頃合いである。  というわけで、この句を句会で見た時には、「『若草や』とした方がいいのにな」と首をひねった。しかし後でじっくり吟味した結果、やはり「春の草」がいいようだと思い直した。  なぜ最初に「若草や」とした方が良いと思ったのか。それはまず句形がきっちり定まるから。そして、「小諸なる古城のほとり」をはじめ、昔から「放浪癖がむっくりと」頭をもたげるのはまだ生えそろわない若草の頃ではなかろうか、と思ったからであった。  しかしこれは固定観念に毒された思い込みだったようだ。風の冷たい早春では、何の目当てもなく外に出る気分にはなかなかならない。緑が目立ち、吹く風もそよそよとなってこそ、遊びごころがふわふわと湧いて来る。(水)

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蜃気楼消えて浜辺の人帰る   植村 博明

蜃気楼消えて浜辺の人帰る   植村 博明 『この一句』  浜辺にはたくさんの人が蜃気楼の出るのを辛抱強く待つ。おしゃべりしたり、本を読んだり、スマホでゲームをしたり・・・。「出たぞ」と誰からともなく声がして、皆一斉に真剣にその方向に目を凝らす。蜃気楼というだけあって、船と言われればそうだとも思えるし、楼閣と思えばそうも思えるし・・・。十分もするとすーっと薄れて、あとはのたりのたりの春の海。  蜃気楼と言えば富山県魚津市。3月下旬から6月上旬にかけて、魚津港は蜃気楼見物客でにぎわう。海中から出て来た数千年前の杉林「埋没林」と「ホタルイカ」、それと極め付けの「蜃気楼」で町興しをやっているのだから、地元がこの主役にかける期待は大きい。しかし、いつ出るか分からない。シーズンの約80日間で、「ぼんやりしたのが見えた」というのを入れても15日あるかないかというから、まことに頼りない。  わずか数分でも蜃気楼が見られた人は幸運。上気したような顔で帰って行く。出たのか出なかったのか、実際に見たのか見なかったのか、すべては蜃気楼。そんな雰囲気をしれっと詠んでいて面白い。(水)

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みちのくやいつもの色の春の海   嵐田 啓明

みちのくやいつもの色の春の海   嵐田 啓明 『合評会から』(日経俳句会) 定利 海は昔の色を取り戻しているけど、実際はまだまだなんだよと。軽い句なんだけど裏があっていい句だと思いました。 庄一郎 素直な句だと思う。地上はまだまだ復旧していないけど、海はいち早く復帰したのを「春の海」で詠った。 正市 作者は被災地に何度も出かけ、ずっと見続けている人。「いつもの色の春の海」という“決め文句”がびしっと決まっている。 反平 海は復興しつつあるけれど、という思いが裏に秘められた句。           *     *     *  あれから三年、「みちのくの海」はのんびりした春の景色を取り戻した。放射能測定の結果安全が確認された鮪、ヒラメ、メヒカリなどなど旨そうな太った魚が続々と水揚げされている。市場でもまた測定する。今や福島原発の付近以外の魚は大丈夫と言われているのだが、いわゆる「風評被害」というやつで売れないようだ。地元漁民が気の毒なのはもちろん、都会の消費者にとっても大変な不幸だ。思い上がった人間に大自然の下した鉄槌の傷跡は容易に癒えない。(水)

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夕べの灯揺るる運河や残り鴨   今泉 恂之介

夕べの灯揺るる運河や残り鴨   今泉 恂之介 『合評会から』(日経俳句会) 悌志郎 隅田川、佃島に舟溜まりがある。運河に町場の灯が映っている夕方の寂しい情景をうまく詠んでいる。 庄一郎 江東区の運河か。無駄がなく非常にうまい。目に浮かぶ。 てる夫 景色がよく見える句。 操 運河に映る灯りに、帰りそびれた鴨の姿…情景が浮かぶ余韻のある句です。 十三妹 一幅の絵を見るような、詩情豊かな佳句。           *     *     *  再開発が急速に進む隅田川河口あたりの情景を詠んだものに違いないと、句会に集うたみんなが思ったのだが、「市ヶ谷のお堀で見た景色」と作者はにんまり。釣り堀があるあのお堀も「運河」には違いない。確かに残り鴨も見える。  どうということはないのだが感じのいい句である。「残り鴨」(春の鴨)はなんとなく落ち着かない感じで、さりとてそれほど焦るそぶりも見せずに遊弋する。晩春のとりとめない気分をにくらしいほど上手に詠んでいる。(水)

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どれも皆食べられさうで若草野       高瀬 大虫

どれも皆食べられさうで若草野       高瀬 大虫 『合評会から』(日経俳句会) 佳子 「若草」という兼題は難しくて作るのに苦心しましたが、この句はすなおに詠んでいて、すっと腑に落ちますね。同感できる句です。 綾子 やわやわした若草ならではの句ですね。 冷峰 この時期の若草は、本当に食べられそうですよ。 智宥 その通りですが、毒の草もあります。用心をお忘れなく。 水牛 若草の本意を上手く詠んでいる。私はよく採ってきて天ぷらにします。なかなか美味しいですよ。おひたしはごわごわして、適さないですが。                *          *  作者は食欲だけの人ではない。同じ例会の投句に「想ふ人あるだけでよし老いの春」。同世代として、こちらにより共感したのだが、考えてみると若草もやわやわしていて、けっこう艶めかしい。「若草の」は「妻」にかかる枕詞だし…。何とはなしのもやもや感、無きにしも非ず。私だけかもしれないが。(恂)

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ふらここや横漕ぎを知る拗ねはじめ     広上 正市

ふらここや横漕ぎを知る拗ねはじめ     広上 正市     『季のことば』  「ふらここ(ぶらんこ)」は風船、風車、しゃぼん玉と並ぶ春の季語である。俳句になじみの薄い人は「これが季語?」といぶかるかも知れないが、子供たちが元気よく遊ぶ様子を思い浮かべてみたい。それぞれに春の季を表す語として味わいがあり、季語としての存在感は十分、と言えるだろう。  ただし「ぶらんこ」には使用上の問題点がある。鞦韆(しゅうせん)、ふらここ、ふらんど、ゆさはり、半仙戯などの名もあり、最もポピュラーなはずの「ぶらんこ」は、他の語に明らかに圧倒されているのだ。句会ではそれが話題になった。俳句の伝統と現実のどちらを選ぶか、ということである。  この句は、反抗期の幼児の意地と行動を実に巧み詠んでいる。ぶらんこは当然、正面と後方への「縦漕ぎ」でなければならないが、危険な「横漕ぎ」をやる子供がいる。親が注意すると、拗(す)ねて横漕ぎを止めない・・・。とても現代的、現実的な情景だ。だから私は「ぶらんこ」がいい、と思っている。(恂)

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耕せば陽と混じり合ふ土温し     直井 正

耕せば陽と混じり合ふ土温し     直井 正 『季のことば』  中国の内陸部、黄土高原の端にあたる都市でしばらく過ごした時、花壇を耕す作業を見ていたことがある。大学の花壇だからかなり広い。作業員が何人も来て、鋤などで掘り起こすのだが、地面に水分はなく、ポクポクとした感じである。耕して細かくなった土を均すと砂漠を思わす状態になった。  それからホースで水道の水を入れるのだが、何と半日も放水を続けるのだ。花壇はいくらでも水を吸い込んでいき、「一か月くらい水はやらなくてもOK」だと、作業員は言っていた。本当にその通りで、地表が砂漠状になっても半年以上、オキザリス系のピンクの花が咲き続けていた。  前句とこの句を見て「日本の“耕”だ」と思った。適当な陽光と水分を含んだ土がある。土を耕すという手応えがあり、たちまち耕土に相応しい状態になっていく。世界の中で「耕すと土が陽と混じり合う」という感覚を得られる地域は、少ないのではないだろうか。日本には豊かな天地の恵みがある。(恂)

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