湯豆腐や傘寿の人の陽気酒   徳永 正裕

湯豆腐や傘寿の人の陽気酒   徳永 正裕 『季のことば』  冬は何と言っても湯豆腐。料理とも言えない料理だが、気持も身体も温まる。これも新春川越七福神吟行で生まれた句。  七福神を詣で終えて、川越の老舗鰻屋で懇親会を開いたのだが、鰻が出るまでのあれこれの料理の中に、湯豆腐が出て来た。まずまずの吟行日和だったとはいえ、やはり寒の入りの真冬を4時間以上歩いたのだから、身体は冷え切っている。小鍋からふわーっと上がる湯気に一同ほっとして、座が和んだ。  一行の最長老涸魚さんは今年傘寿。足取り確かに二万歩をすいすい踏破して、すっかり御機嫌。実に美味そうに熱燗を呑んだ。かかりつけの医師からは酒量制限を厳しく言われているようだが、今夜ばかりは自ら縛めを解いて気分良く呑んでいる。「陽気酒」という造語が場の雰囲気と涸魚さんの人柄をよく表している。単なる挨拶句の域を越えて、読む人の気持まで温めるような力を持っている。(水)

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空っ風居留守決め込む弁財天   高井 百子

空っ風居留守決め込む弁財天   高井 百子 『合評会から』(新春七福神吟行会) 智宥 やっと辿りついた七福神第七番、弁天様のお寺は素っ気なかった。「お宝?あるけどアンタらには見せてやらん」。まさに空っ風。七福神巡りを売り物にしておいて、なんだその態度は、と川越市役所に怒鳴りこみたいところだが、この作者は大人。「居留守」とさらり流してこの場を納めている。私などこの域に達するのはいつのことやら。 弥生 見られなかった残念な気持ちがユーモアたっぷりに表現されています。 てる夫 坊さんもいろいろ、なんですな。           *     *     *  「川越七福神」は地元全体で盛り上げようとの熱意が感じられる。寺はコンクリ造が多くて風情に乏しく、七福神そのものも取り立てて由緒ある像は無いが、ルートマップは完備、川越らしく最初のお寺には焼芋屋がちゃんと出ている凝りようだ。全長6.5kmと歩き出がある。ようやくゴールに辿り着いたら、国宝級の弁天像なので出すわけにはいかないと、版画が貼ってあるだけ。なんともけち臭く、折角の良い気分が損なわれた。しかし皆さん指摘のごとく、この句はさらり、ちくりと上品にからかったところがいい。(水)

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福詣横に逆さに小江戸地図   玉田 春陽子

福詣横に逆さに小江戸地図   玉田 春陽子 『合評会から』(新春七福神吟行会) 涸魚 道を探しながら歩く七福神巡りのありさまをよくとらえている。 水馬 皆さんがクルクルと地図を回す所作がパッと浮かんで来ます。もっとも地図を回すのは地図が苦手な方ですが…。 而雲 集合場所で分かりやすい地図をもらったと思っていたが、実際に寺を探し出すと、一人ではとても行けないと感じた。「横に逆さに」は実に巧みな表現だ。 実千代 本当にそうでした。その日の情景がすぐにわかります。           *     *     *  もう都内のめぼしい七福神はあらかた回ってしまい、平成25年からは近郊に繰り出した。第一弾の佐倉七福神に続き、26年午年は小江戸川越。地元観光協会が親切丁寧な地図を作っており、みんなそれを持ってはいるのだが、さあ分からない。スタートの第一番妙善寺から間違えて、『のつけから迷ひ笑ひて福巡り 谷川水馬』ということになった。掲出の句もこの句も、新春の藹々たる気分に溢れている。(水)

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煮直して飴色深き大根かな   今泉 恂之介

煮直して飴色深き大根かな   今泉 恂之介 『この一句』  大根は野菜の王様ではないか。大根おろし、なます、サラダ、浅漬けと生で食べるのも良し、煮て良し、はたまた保存食としての切干し大根も旨みが凝縮して実に旨い。着色してない上質の沢庵漬はことのほか冷酒に合う。おでんや粕汁も大根無しには出来ないし、大根のつまが無くては上等の刺身も台無しだ。  煮大根にもいろいろある。地方色があり、家庭ごとに異なる味付けがある。あっさりと茹で上げて柚子味噌などで食べる風呂吹き大根も、大根本来の旨みが味わえて真に結構だが、この句の煮大根のように飴色になるまで煮込んだ柔らかいのも滋味が深い。ことに冬場はこの煮大根がいい。一日目はあっさり炊いた風呂吹きのようなもの、二日目になるとすっかり味が染み込んでいる。そして三日目は、もう飴色がかって、柔らかくて、歯応えという点では頼りないが、完全に馴染んだお袋の味である。  このように、生でも、あっさり煮ても、ぐんと煮込んでも、干したのを戻しても、漬けても美味い野菜はあまり無い。応用範囲が極めて広いのは、「オレが俺が」と自己主張しないからであろう。しかし、どんな味付けをしようとも、やはり大根は大根らしさを保っている。そこがまた面白い。(水)

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老骨の塑像なりけり日向ぼこ   大沢 反平

老骨の塑像なりけり日向ぼこ   大沢 反平 『合評会から』(酔吟会) 詠悟 まあ、こういう風にはなりたくないなあと思いつつ採りましたがね、(大笑い)。しかし、町を歩いているとこういう光景によくぶつかりますよね。まさに老人大国なんだなと・・。 操 「老骨の塑像」とはねえ、よく言ったな、寂しいなあと・・。でも塑像のように全く動かずに、じっと日向ぼっこしているのにはおかしみもあります。 正裕 動かないのか、動けないのか・・。(爆笑)とにかく日向ぼっこの老人をずばりと描いています。           *     *     *  とにかく、固まって動かない。公園のベンチや田舎のバス停で、死んでしまっているんじゃないかと心配になるくらい、じいっとしている老人を見かける。ロダンの「考える人」は筋肉の張り切った若者、こちらは老骨。見たままを詠んだのだろうが、「老骨の塑像なりけり」に、ペーソスとユーモアが感じられる。年寄りの多い句会だから他人事とは思えないといった表情の人もちらほら。(水)

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うつぶせる古代の武人枯葎            田中 頼子

うつぶせる古代の武人枯葎            田中 頼子 『この一句』  この句、「何だろう」と思うか、「アレだな」と気づくどうか。ゆっくり考えれば低いハードルなのだが、句会で百数十の句から選んでいた時は「埴輪なのかな」などと考え、見過ごしてしまった。その後に榛名山噴火の火山灰、火砕流に飲み込まれた「鉄製の甲冑を着た武人」に違いない、と気づいた。  一昨年、群馬県渋川の国道建設現場で発見された。その後に調査が続き、さまざまな報告が今も伝えられている。古墳時代の鎧(甲)を実際に着た人物の出土は全国で初めてだという。句の作者に確かめたところ「皆を逃がそうとして指揮していたのか、などと勝手に想像していた」そうである。  インターネットで調べてみた。武人の脇から乳児の頭骨も発見されていた。複数の学者が「赤子を抱いて逃げる途中だったのでは」と推測している。やがて土が積もり、春に草が生え、冬には武人の上を枯葎(かれむぐら)が覆っていたのだろう。かくして千五百年、彼はうつぶせのままであった。(恂)

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八十男パソコン買換へニューイヤー     大石 柏人

八十男パソコン買換へニューイヤー     大石 柏人 『この一句』  「俳句限界説」というものが長らく語られてきた。俳句は十七音だから、五十音+濁音、半濁音などを組み合わせて行けば、限界の数字に到達するという主張で、正岡子規もそんな問題を提示している。一方、高等な計算を根拠に、日本人が一人あたり百万句作らないと俳句の限界が来ない、という説もある。  これらに対し私は、非数学的な「俳句無限界説」を支持している。なぜなら子規の頃は言うに及ばず、つい最近まであり得なかったような事柄が、次々に誕生しているからだ。例えばコンピューターのことを詠んでいけば、以前にはなかったような作品が難なく生まれていくはずである。  八十歳の男性がパソコンを買い換えた、というこの句もまた、俳句に限界がないことを証明するものだろう。俳句限界説が出るのは、同じような題材ばかり詠み、類句的作品を大量生産していることにも原因がある。新しい題材を句作りに取り入れ、俳句の限界をどんどん後方に追いやろうではないか。(恂)

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うたた寝の大ぐい呑みに去年の酒      大澤 水牛

うたた寝の大ぐい呑みに去年の酒      大澤 水牛 『季のことば』  手元にある大判・五分冊の歳時記によると、広く知られている「去年今年(こぞことし)」は、「去年」の傍題として最後に載っていた。三十年ほど前の出版だから、それほど昔ではないのだが、その後に「去年今年」が存在感を増して独立、今では「今年」と「去年」を傍題として従えるようになっている。  立場の逆転が起きたのは何と言っても「去年今年貫く棒の如きもの」(虚子)のパワーによるものだろう。この句は戦後間もなく、川端康成が称賛したことによって有名になり、年末、年始には必ずマスコミが必ず紹介するほどになった。もはや一般常識的レベルの季語、と言えるのではないだろうか。  一方、「今年」や「去年」は季語としてめっきり影が薄くなったが、実力を失ったわけではない。例えば上掲の句。大晦日の夜、大ぶりのぐい呑みでやっていて、うたた寝をした。はっと気づけば、もう新年、というわけである。「去年」はつまり、「去年今年」を包含する季語なのであった。(恂)

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行列を希望で満たす除夜の鐘      宇佐美 論

行列を希望で満たす除夜の鐘      宇佐美 論 『この一句』  元旦の早朝、家の近くの氏神様に初詣に行くのを慣わしにしているが、たった一度だけ大晦日の午後十一時半ごろに出かけたことがあった。住宅街の中にある無名の神社だけに混雑していないだろうと、高を括っていた。ところが着いてみたら、参拝客が余りにも多いのでびっくりした。  鳥居の前の道路には人が行列を作っている。拝殿への数十段の石段には人が溢れんばかりである。やがて近くにあるいくつかの寺から除夜の鐘が鳴り出した。人々の間にざわめきが湧き上がり、大きくなっていくように感じられた。ざわめきは行列する人たちの「希望」であったのだ、とこの句を見て気づいた。  あの年は確か、二十一世紀に入る「ミレニアム」の年であった。「千年紀」という言葉が飛び交い、人々はけっこう大きな希望を抱いていた。あれから十数年、希望はいくらか小さくなっていても、大勢が集まれば行列を満たすほどになるようだ。われわれはすでに、希望の年を歩み始めている。(恂)

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逆立ちの尻をふりふり池の鴨   加藤 明男

逆立ちの尻をふりふり池の鴨   加藤 明男 『合評会から』(日経俳句会) 万歩 俳味のあるいい句だ。不忍池で詠んだのかな。いかにも俳句的だ。 綾子 とてもかわいいいい句です。鴨はよく見かけますが詠むのは難しい。それを客観写生手法でうまく詠んでいます。鴨がよく見えてくるようです。 大虫 風景が分かりやすい。水の中でのリズミカルな動きが、いい感じで表現されている。 冷峰 私の家の近くの落合川でよく見かける光景です。こんなに上手に俳句になるんだなと感心しました。           *     *     *  尻をぶるぶるっと振るわせ上半身を揉み込むようにするのは、元来水に浮くように出来ている身体を無理矢理水中に沈めるための動作なのだろう。こうして水中の小魚を捕まえたり、水底の虫をついばんだりしている。水鳥たちにとっては日本の冬はこの上なく心地良い。ひと冬過ごす間にたっぷり栄養を取り、子鴨は成長し一人前になり、親鴨は北方大陸に帰ってからの産卵育児の体力をつける。鴨の様子を適確にしかもユーモラスに描写している。(水)

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