来年の命は知らず日記買ふ   片野 涸魚

来年の命は知らず日記買ふ   片野 涸魚 『この一句』  切実感を伴ってぐっと迫って来るが、この句にはあっけらかんとした明るさがある。少なくとも日記を付けようという気持は、萎えた心からは生まれて来ない。これが救いであり、この句の良さである。  俳句では「来年の命は知らず」などというフレーズはあまりお目にかからない。伝統俳句では、こういうどきっとする言葉はなるべく用いないようにしようといったある種の遠慮があるように思う。それを敢えて言ったところに、作者の年輪が感じられる。  既に平均寿命と言われる齢に達し、もうこれからは何があってもおかしくはないと覚悟を決めている。だからこそ一日一日が尊い。別に取り立ててどうのこうのをやるわけではないが、じっくりと回りを見つめ、来し方に思いを巡らせ、これからの日々を十分に楽しもう。そんな心境に達している。日記はそういう暮らしには恰好の小道具になりそうである。そう言えば「残日録」なんていう言葉があったなあ、なんぞと呟きながら、除夜の鐘を聞いている。(水)

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蝶ひろふ昨夜の寒さこたへしか   澤井 二堂

蝶ひろふ昨夜の寒さこたへしか   澤井 二堂 『この一句』  郊外の住宅地か、都心でも比較的緑の多い落着いた住宅街だろう。道の脇に吹き寄せられた枯葉の上にきれいな蝶の羽根が見えた。全く動かない。そっと拾ってみると、やはり息絶えているようだ。  暮れも押し詰まって、この数日、さすがに朝晩の冷え込みはきつい。蝶は春から秋にかけて卵を産み、それが孵って芋虫・毛虫になり、さなぎになって越冬、親の蝶は晩秋から初冬に死んでしまう。しかし中には運良く暖かい落葉の降り積もった中に身を潜めて、冬眠状態で冬を越し、春暖の候にいち早く飛び始めてすぐに卵を産み付け、子孫繁栄貢献一号となる強いのもいる。しかし、この蝶は越冬ねぐらが見つからず、体力も衰え、寒さに凍えてしまったんだろう。そんなことを思いながら、落葉の中にそっと返してやった。  出勤時はこういうものに目を止める余裕はありそうにないから、多分、早朝の散歩の一コマであろう。自然界にはありふれた、ごくごく小さな出来事だが、それを発見した感動が、こんな美しい、心優しい句を生んだ。(水)

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遠き日の汽車の窓から買ふ蜜柑   田中 白山

遠き日の汽車の窓から買ふ蜜柑   田中 白山 『季のことば』  東海道新幹線が開通する七、八年前だから、確かにもう遠い日々である。作者は山陽線・東海道線を乗り継ぎ二日がかりで上京、大学に入った。その年の夏休みはアルバイトと都内近傍の“探検”で帰郷しなかった。やはり正月だけは両親、朋友の待つ故郷で過ごそうと、汽車に乗った。プラットフォームには駅弁売りが高声で行き交う。窓を開けて、弁当とお茶と、そして細長い網袋に入った蜜柑を買う。  世の中がそろそろ落ち着いてきたとは言え、まだまだ多くの人が食べるのが精一杯の時代だった。地方から東京の大学に入れるなど、回りから羨ましがられるご身分ということになる。しかし仕送りだけでは到底やっていけないから、家庭教師はじめ何でもこなした。勉強も一生懸命やった。  今どきの若者を見るにつけ、ついつい「俺たちの若い頃はなあ」とやりたくなる。しかしそれを言っても詮無きこと。長年連れ添った女房と炬燵で向かい合い蜜柑を剥いていると、絵巻物を繰り広げるように来し方が鮮やかに浮かんで来る。(水)

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煩悩になほ纏われて年惜しむ     河村 有弘

煩悩になほ纏われて年惜しむ     河村 有弘 『季のことば』  句会の兼題「年惜しむ」を改めて調べてみたら、どの歳時記にも「過ぎ行く年を惜しむ感情」とあった。何となく分かるが、芸のない説明だと思う。「惜しむ」の意味がはっきりしないのだ。では、と辞書で「惜しむ」を調べてみると、「愛(お)しむ」という表記も並んでいた。これなら分かりやすい。  古い辞書でさらに「おしむ」を引いてみた。『「惜しむ」は「愛しむ」の転義にて、両者の間に截然たる区別存ぜず』と書いてあった。「名を惜しむかな男(おのこ)ゆえ」(与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」)。若い頃、仲間と大声で歌っていた歌詞の意味が、ようやく理解できた次第である。  上記の句、そうと分かって鑑賞したら、一つの側面が見えてきた。煩悩に纏われていた一年を愛しんでいるのかも知れない。人間には百八の煩悩があるという。それを捨てるか、纏ったまま生きていくか。煩悩は人間が人間であることの証かとも思う。除夜の鐘の数を数えながら、考えてみようか。(恂)

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夢つなぐ手帳新たに年惜しむ       竹居 照芳

夢つなぐ手帳新たに年惜しむ       竹居 照芳 『季のことば』  サラリーマンをはじめ仕事を持つ人に欠かせないもの一つに手帳がある。日々のスケジュールや行動がその中に収められ、一年経てばその年の全ての行動か書き込まれている。自分の仕事だけでなく趣味や親戚、友人との付き合いなども記入されているから、日記帳は不要と言う人も少なくない。  十二月は新しい手帳を手に入れる時期であり、来年早々の予定はすぐに書き込まなければならない。一方、古い手帳には一年間の感慨が込められており、しみじみと眺めることもあるだろう。「日記買う」や「日記果つ」と同様、「手帳買う」や「手帳果つ」にも季節感があり、季語となる資格は十分である。  しかし、と思う。現代の俳句では、季重なりがまるで禁じ手のように考えられている。もし年末の手帳が季語であったら、この句はおそらく存在しなかった。「手帳新たに年惜しむ」。改めて味わってみると、なかなかいいではないか。歳時記に載らない幸運、というものがあるのかも知れない。(恂)

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ふくろうの声で酒飲むログハウス       深瀬 久敬

ふくろうの声で酒飲むログハウス       深瀬 久敬 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 面白い状況を詠んでいる。ログハウスに梟の声とは、さもありなんと思いますね。 義彦 「声で」は「声を肴に」ということかな。一人で静かに飲んでいるという感じだ。 進 梟もログハウスにも北欧の雰囲気がある。いい気持ちで飲んでいるのでしょう。 久敬(作者) 囲炉裏端で酒を飲む、という場面を考えましたが、ちょっと古くさいので、今風のログハウスに変えてみました。 崇 梟の声を聴きながら、呑んでいるとなると、熱燗ですかな。               *          *  梟の声を聞くのは囲炉裏端がいいか、ログハウスがいいか。ログハウスなら暖炉の火が燃えて、という状況になるだろう。酒はどうか。熱燗もあり得るが、ワインとかブランデーなども似合っていて、想像の幅が広がっていく。一方、囲炉裏は現在の日常生活と直接つながっていない。昔の思い出、レトロを演出する宿屋、ということになるだろう。こちらも悪くはないが、時代とともに退いていかざるを得ない。(恂)

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ふくろうの首が回って罪ひとつ      篠田 義彦

ふくろうの首が回って罪ひとつ      篠田 義彦 『この一句』  梟の首がくるりと回るのを、動物園で見たことがある。それまでは向こう側の壁を向いていたのだが、急に首が回転した。肩の位置はそのままで、首だけを百八十度回して、こちらを睨んだのだ。隣にいた若女性が「回り過ぎだよ~」と叫んで、ボーイフレンドの腕にしがみついた。  この句の「罪ひとつ」とは何かと考えた。あんな風に首を回されたら、誰もが驚くだろうし、恐怖感を覚える人がいるかも知れない。しかしそれを罪としたなら、句の面白味は半減しそうである。前衛的な雰囲気を持つ句だけに、解釈は読み手ひとりひとりに委ねるべきかも知れない。  句会後、作者にうっかり「罪ひとつって、どういうこと」と聞いてしまった。「首を回して獲物を見つけたら、生き物の命をひとつ奪うことになるじゃないか」という答えが返ってきた。彼は分かりやすくするために具体例を話したのだ。なるほど、と思ったが、聞かない方がよかったのだろう。(恂)

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ふくろうのみつめる森の深さかな      田村 豊生

ふくろうのみつめる森の深さかな      田村 豊生 『この一句』  句会の兼題の一つに「梟」が決まった時、「見たことがない」「どこに居るんだ」などの声が上がった。動物園にいるよ、喫茶店で飼っていた、などというアドバイスもあったが、結局は自分の頭の中にある梟の姿が多く詠まれたようだ。これも、その一句だろうが、句会で最高点を獲得している。  同じような発想の句が多い中、最も素直に詠み切っていたので、多くの支持を受けることになったのだろう。「深い森の雰囲気がでている」「巨木が密生している森だと思う」「獲物を睨んでいるのだ」などのコメントがあった。簡素な言葉こそが、さまざまなイメージが生み出す素であるらしい。  作者は俳句を始めてわずか一年の八十一歳。本年の初夏に詠まれた「いざ行かむ傘寿の先へ衣替(ころもがえ)」が、柔道体験者の集まりで作られた「三四郎句会」の今年度第三位に選ばれた。俳句を作ることによって、往年の明るさ、若々しさを取り戻してきた、と思われフシもある。(恂)

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老いてなほ良きことありし年惜しむ   後藤 尚弘

老いてなほ良きことありし年惜しむ   後藤 尚弘 『合評会から』(三四郎句会) 信 読んで字のごとく、ですね。毎年、年を重ねて行くばかりですが、いいこともあったのですね。一年を振り返って、いい思い出を振り返っている。 久敬 こういう句を詠んでみたいですね。読む側も嬉しい気持になります。 恂之介 年とって一年を振り返ると、後悔することになりがちですが、これは前向きですね。      *     *     *  まさに皆さんの評の通り。作者も「年取ると、友達が死んだとか、そんなことばかりです。しかしいいこともありますよ。孫がリレーの選手になった、とかね」と言っている。  えらく元気で大声で威勢のいいことばかり言っている年寄りがいる。しかし、その横顔や背中には言うに言われぬ寂しさが貼り付いていて、はっとしたりする。老人はやはり寂しい存在なのだ。それを自得した上で、この句のように小さなことでも「良きこと」と捉えられる心の持ち様。それが本当の老人の元気というものなのだろう。(水)

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鰤大根作りしあとの干菜かな   山口 斗詩子

鰤大根作りしあとの干菜かな   山口 斗詩子 『季のことば』  この句は季重なりであると言ったら、え、どうしてと数人がいぶかしげな表情を浮かべて言った。最早「干菜」が冬の季語であることはもちろん、干菜というものすら分からなくなっているのだ。一方、鰤大根は今でも冬になると家で作ったり、居酒屋でも出て来たりするから、大概の人が冬の風物詩として理解している。  というわけで、この句の季語は鰤大根という人が多いかも知れない。しかし、この句は「干菜」の句である。前の晩、お母さんが太い大根と鰤のあらを豪快に断ち割って、ことことと美味しい鰤大根を炊き上げた。呑兵衛のお父さんは相好を崩し、子どもたちもふうふう吹きながら熱々を頬張った。  今朝起きてみると、ベランダの物干に大根の葉っぱが掛け干しされている。干菜をすかして冬晴れの真っ青な空が輝いている。働き者の母さんが早くも昨夜の残りを吊り下げたんだなと思う。  近ごろはこんなこまめなお母さんはごくごく少ないだろう。それよりも、干菜にするような立派な葉のついた大根を探すのが難しい世の中になっている。(水)

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