焼芋や少年の日の赤バット          金指 正風

焼芋や少年の日の赤バット          金指 正風 『合評会から』(酔吟会) 佳子 赤バットと焼芋の取り合わせが合っています。時事句でもあるし、いいですね。 水牛 川上哲治が活躍していた頃は、焚火でよく焼芋を焼いていた。少年たちは川上の赤バット、大下の青バットに夢中で。野球カードの紅梅キャラメルも人気があったが…。 恂之介 川上の赤バットが出てきたら、採らないわけにはいかない。 臣弘 焼芋、少年、赤バットとノスタルジーの三つ揃いだが、よく分かる句だ。ただ私はアンチ巨人だからね。この句は採らなかった。               *        *  赤バット、背番号16、弾丸ライナー。戦後のヒーローの死で、当時の少年たちにはいろいろな記憶が甦ってきたに違いない。食べ物、映画、遊び、友達のこと。人それぞれだろうが、私は何と、当時の少年雑誌に載っていた短歌を思い出した。「川上の16番とお風呂屋の下駄箱開ければ二足も入ってる」。もちろん詠み人知らず。作者いま、俳句、短歌なんぞを作っているのかなぁ。(恂)

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へた虫に耐えたる富有柿三つ         藤村 詠悟

へた虫に耐えたる富有柿三つ         藤村 詠悟 『季のことば』  あの家、この家に、柿の実が美しく輝く季節になった。東京あたりだと、自宅の庭で簡単に作れる果物は柿くらいのものだから、柿主にとって待望の時期だろう。ところが柿の実り方には大きな差があり、枝もたわわに鈴生りの家があると思えば、わずかに数個だけという残念な家もある。  不作はヘタ虫(カキミガの幼虫)の仕業に違いない。このウジのような虫は初夏に発生して小さな青い実を落とし、晩夏に発生したものが大きな実に取りつくという。色づいた実の中で早めに真赤になった実を取ると、ヘタと果肉の間に虫が食いこんでいて、柿好きをがっかりさせてしまうのだ。  作者は毎年、柿が実るのを楽しみにしているそうだが、今年は僅かに三つ。これからは鴉など柿好きの鳥と、「いつ採るか」を探り合う時期だという。ヘタ虫の駆除はかなり難しいようで、柿の出来は結局、自然にまかす人が多いらしい。僅か三つでも、それが無農薬柿という宝物なのである。(恂)

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どれくらい生きたか忘れ蚯蚓鳴く       佐々木 碩

どれくらい生きたか忘れ蚯蚓鳴く       佐々木 碩 『この一句』  テレビに出ている人の年齢を見て「私と同い年だ」と思い、しばらくして、「俺は十歳も年上だった」と気づいたことがあった。若いつもりでいたのではない。瞬間的に年齢を失念してしまったのだ。作者も同じなのだろうか。いや、生きた期間を忘れているのは蚯蚓(みみず)の方かも知れない。  俳句は自分の意図をはっきりと相手に伝えるように作るのが本道だと思う。しかしこの句の「作者か、蚯蚓か」のように、意味不明のために不思議な魅力を生む場合がある。仙人が「私は何歳かな」と呟く。それを聞いた蚯蚓が「私も年を忘れてしまった」と答える。そんな場面さえ考えてしまうのだ。 「蚯蚓鳴く」のような奇妙な題材で、大勢の人が一斉に作品(句)を作るというのが、俳句と言う文芸の面白さの一つ、と言えるだろう。何だいこれは? と考えているうちに、作者と自分の思考がからまって、意外な面白さが醸されたりするのだ。そんな作り方を試みている人もいるらしい。(恂)

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木漏れ日の秋の縁側老い二人   ??石 昌魚

木漏れ日の秋の縁側老い二人   ??石 昌魚 『この一句』  静かで平和な情景を淡々と詠んでいる。笠智衆と東山千栄子の昔の映画を思い出させるような句である。こうした映画は、あまりにも静かで、全編さしたる波乱もないから、その後の高度成長期の脂ぎった話が持てはやされる中で忘れられて行った。それがここ数年、あちこちでリバイバル上映されたりしている。効率一辺倒の世の中に首傾げる人が出てきたせいかも知れない。  俳句の世界でも同じようなことがある。バカの一つ覚えのように「大景」を詠むべしと、銭湯のペンキ絵富士山のような句を作ったり、誇大妄想のおどろおどろしい句がもてはやされたりしていたのが、近ごろはだいぶ落着いてきた。  ただ、落着き過ぎると、箱庭細工のようなせせこましい小ぢんまりまとまった句ばかりがはびこって生気を失う。沢山の会員を抱えた既成結社の多くがそういう傾向になっており、それに反発するように俳句の約束事などを無視しためちゃくちゃなものが現れている。まあそうやって左右に振れ動くのもまた俳句の面白さである。  この句など極めて地味だが、人生の本当の幸せを問うているようなところがうかがえて、しみじみとして来る。(水)

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足萎えて黃落の中に佇めり   山口 斗詩子

足萎えて黃落の中に佇めり   山口 斗詩子 『季のことば』  「黃落」とは木の葉が色づいて散り、木の実が熟して落ちること、さらにはその季節の気分を言う晩秋の季語である。都会では街路樹の銀杏が黄金色に黄葉して降り注ぐさまが、「黃落」をイメージする代表的な情景であろう。欅並木は色合いが地味だが、冬間近という風情では一際優る。  この句は字義通り受け取れば、「足が萎えてしまって、落葉の降りしきるなかで立ち往生してしまった。まさに人生終幕の時だなあ」ということになろう。これはもう「黃落期」という、後期高齢者の悲哀をそのままつぶやいたような句ではないか。  しかし待てよ、と思う。作者はそれを良しとしているような感じではないか。足が萎えたのは年のせいだから仕方がない。それよりも、今日の「足萎え」は、この凄まじいばかりの銀杏落葉の真っただ中に踏み込んだが故なのだ。最後の華を咲かせるとはよくぞ言ったものだわねえと、むしろ面白がって佇んでいる。なんだか自分も妙に元気づいて来る。この句はそんな気持を詠んだようにも感じられる。(水)

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病室にゐるはずのなき蚯蚓鳴く   吉野 光久

病室にゐるはずのなき蚯蚓鳴く   吉野 光久 『この一句』  温度や湿度が一定に保たれ、清潔そのものの病室に、蚯蚓やオケラのいるはずがない。サッシ窓がきっちりはまった鉄筋コンクリートの病棟の上階まで、虫の声が伝わって来ることなど考えられない。糞真面目な人がこの句を見たら「何をばかなことを言っているのだ」と言うかも知れない。しかし、この句を何度か読んで、目をつぶって、自分が病室に仰臥している姿を思い浮かべると、よく解ってくる。  じっとしていれば物思う。五官(感)は研ぎ澄まされる。普段は気にも止めなかった音が聞こえる。いるはずのない蚯蚓の声だって聞こえてくるのである。それはもう、蚯蚓の声だろうがオケラの声だろうが問題ではない。  作者には「長き夜の厚さ増しゆくカルテかな」という句もあるように、病に耐える日々が長く続いている。傍から形ばかりの慰めなど言うのが憚られる雰囲気なのだが、本人は極めて冷静沈着、病と「闘う」のではなしに「うまく付き合ってゆこう」と大悟徹底している。だからこそこういう透徹の句が生まれて来るのであろう。(水)

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富士見えぬ富士見坂なり蚯蚓鳴く   星川 佳子

富士見えぬ富士見坂なり蚯蚓鳴く   星川 佳子 『この一句』  秋の夜長をジージー、ジージーと、こちらを地の底に引き込むような単調な鳴き声。昔の人はこれをミミズが鳴くのだと思った。賢しらな現代人は、蚯蚓には発声器官が無い、これは螻蛄(けら)の鳴き声であると、先人の誤謬を憫笑する。しかし、ケラが鳴いているのを見た人などほとんど居るまい。生物学者だとて実見した人は少ないだろう。果たして本当にケラが鳴いているのか。  谷中には東京都区内で数少ない「富士山の見える富士見坂」が残っていたのだが、それも先頃マンションが出現して、富士を隠してしまった。この周辺の谷間は寺が多くじめついた土地で、まさにケラが好み、蚯蚓の鳴き声の聞ける場所であった。しかし、いまや住宅がびっしり建て込んで、路地まで舗装され、蚯蚓やオケラには住みにくい場所になってしまった。  「富士見えぬ富士見坂なり」の上五中七と「蚯蚓鳴く」の下五は、全然なんの脈絡も無いように見える。しかし、口ずさんでいるうちにじわじわと、いかにもしっくり付いているように思えて来る。不思議な句である。(水)

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急カーブ鏡に映る甲斐の秋   植村 博明

急カーブ鏡に映る甲斐の秋   植村 博明 『この一句』  東京からちょっとしたドライブで紅葉を楽しめる場所はたくさんあるけれど、まず指折るのは山梨県であろう。中央道、東名道と二本の高速道路で東京と結ばれているのが強みである。昇仙峡、富士五湖周辺、篭坂峠と晩秋の甲斐はまさに「錦繍の国」となる。  車のバックミラーは額縁の役割も果たす。素晴らしい景色は真っ正面からでももちろん美しいのだが、バックミラーという額縁におさまった後側の光景は、時に美しさが際立つように見える。九十九折りの坂道を曲がるたびに目まぐるしくアングルが変化し、正対して眺める景色とは全然違った感じを受けるのだ。正対している風景は自分が意図して目を向けた視野の範囲であり、「こんな風景」であろうという何とはなしの予期がある。ところがバックミラーに映る景色はそうではない。カーブを曲がるたびに意図せざる景色が現れる。  そういう機微を鋭く捉えた句で、これは凄い感覚だと感じ入った。(水)

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間引菜の三を二にして一にする        広上 正市

間引菜の三を二にして一にする        広上 正市  小さな野菜の種を三粒ほどつまみ、僅かなスペースにまとめてぱらぱらと蒔く。やがて芽生えてくると、三つの芽のうちの一番成長の悪いのを抜く。またしばらくして、残りの二本から弱そうな一本を抜き、元気のいい最後の一本だけを残す。その抜かれる方が「間引菜」(秋の季語)である。  抜いたものは味噌汁に浮かせて頂いたりするのだが、生存競争を見るようで、何とはなしの哀れさがつきまとう。それともう一つ、プランター栽培程度では楽な作業だが、ちょっとした広さを持つ菜園だと腰をかがめて一本一本抜いて行く間引きが、それはそれは腰に堪えるのだという。  そんな作業を「三を二にして一にする」と、まことにドライに詠み切った。考えてみれば、句の内容は間引きの作業そのものであり、普通なら芸のない表現ということになる。しかし野菜を育てることの本質を知れば、名優の演ずるような「無表情の芸」が、この句から見えてくるのではないだろうか。(恂)

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