枝豆や昔はどこも子沢山            金指 正風

枝豆や昔はどこも子沢山            金指 正風 『この一句』  戦後の、東京五輪がやってくる以前だろう。あの頃、貧乏の子沢山は当たり前だった。わが家は五人兄弟だったが、近所にはそれ以上の家がたくさんあった。母は家事だけで手一杯で、父が一人で家計を支えていた。夕方、買い物に出る母は時々、枝葉つきの枝豆を買ってきた。  子供心に、何であんなものを買ってくるのか、と不満だった。枝から外し、塩ゆでしたものを食べさせられたが、あまり好きにはなれなかった。そうか、あれは父親に食べさせるためだったのか、と気づいたのは、サラリーマンになり、酒場へ出入りし始めてからだった。  句会の後は馴染みの店で一杯やるのが通例である。「とりあえずビール」「とりあえず枝豆」も通例だ。東京で食べる枝豆はさほど美味いものではないが、ビールには確かには合う。枝豆をつまみながら、上掲の句を思い出していた。私はちょっと口数が少なかったかも知れない。(恂)

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月明り昼のままなる鰯雲   水口 弥生

月明り昼のままなる鰯雲   水口 弥生 『季のことば』  鰯雲は鱗雲、鯖雲とも呼ばれ、秋空の看板のような雲である。気象学では巻積雲と言い、地上6千㍍から1万2千㍍くらいの高空に現れる。抜けるような青空を背景に、無数の鰯が群れ遊ぶ様子は実に美しい。  やがて夕方となり、鰯雲も真っ赤な夕焼けに照り映える。そして夜。月明かりの夜空にまだ鰯雲が浮かんでいるではないか。昼間と同じ南西の空に、昼間と同じような形で張り付いている。背景の青空が黒く変わり、月明に白く浮き上がっているように見える。雲はかなりの早さで動いて行くのが普通なのに、鰯雲だけはどうしてこんなに長い時間そのままなのだろう。天然自然の玄妙不可思議に浸りつつ、夜空の鰯雲に見入っている。  「夜になっても昼のままの鰯雲。不思議だなあ」と、口をついて出た疑問をそのまま575にしただけのような句だが、そこから始まって想念がどんどん広がって行く。「夜の鰯雲」という珍しい情景。本当は珍しくもなんともない、誰もが見ているはずなのに気がつかない。ましてや俳句に詠み止めようなどという人は極めて少ない。(水)

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妖怪も村の支えと過疎の秋   藤野 十三妹

妖怪も村の支えと過疎の秋   藤野 十三妹 『この一句』  近ごろずいぶん妙なものが流行る。「ゆるキャラ」とかいうマスコット人形と、もう一つは「妖怪」だ。この二つは昔から、それぞれ独特の存在感を示すものがあった。しかし今どきのはちょっと変で、マスコミやインターネットで紹介されると、さして魅力の感じられないものがわっと持て囃される。  妖怪といっても、大概はばかばかしい「お化け」の類である。上田秋成、三遊亭円朝、小泉八雲などの怪談に登場する、凄艶な幽霊などは見当たらず、道化ばかり。ゆるキャラときたら、あの県が当てたから我が県もと、広告宣伝会社の口車に乗せられて可愛くもない縫いぐるみ(着ぐるみ)を鳴り物入りで売り出す。イベント屋がそういうものを集めた大会を開く。ネタ不足に悩むテレビが飛びつく。すると大勢の大人子供が押し寄せる。  これも日本という国が平和で、万民がそこそこ暮らして行ける恵まれた国なればこそのことであろう。「妖怪博物館でも作って観光客呼び込むべえ」「妖怪クッキーや妖怪アイスはどうだんべえ」と、賑やかな相談が始まる。そんな「今」を面白く詠んでいる。(水)

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空っぽの大桟橋や鰯雲   廣上 正市

空っぽの大桟橋や鰯雲   廣上 正市 『この一句』  鰯雲の秋空を見るのにいい場所はあちこちにあるだろうが、横浜港の大桟橋、通称メリケン波止場ほど素晴らしい所はそうそう無いだろう。もっともここは真夏の入道雲を眺めるにもうってつけの場所でもある。  大改造してからもう一〇年以上たつだろうか。昔は細長くて平らな、大型ではあるがごく普通の埠頭だった。それがデッキを蔽う広大な屋根が、曲線を描いた板張りのテラスに変身、「鯨の背」というニックネームがついてハマっ子や観光客の憩いの場所になっている。てっぺんには芝生の広場があり、ベンチがある。ここに座って、秋風に吹かれながら鰯雲を仰いでいると、鬱陶しい気分などいっぺんに晴れ上がる。  それなのに、ここは意外に人出が少ない。近ごろ客船の入港が極端に減ったからだ。日本の港の停泊料が高い上に、豪華客船の超大型化でベイブリッジをくぐれない船が増えて来たからだという。空っぽの大桟橋はいよいよ広さが目立ち、秋風が淋しさをかき立てる。(水)

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ねこじゃらしくすぐりごっこする姉妹   井上 庄一郎

ねこじゃらしくすぐりごつこする姉妹   井上 庄一郎 『この一句』  「ごっこ」という接尾語は、前に名詞を置いて、そのものになりすましたり、その形や動きを真似たりする子供の遊びを言う。縄の輪の前方に運転士役、後方に車掌役、真ん中に乗客になる子を乗せて走ったり停まったりする「電車ごっこ」。鬼の役の子が逃げる子を追いかけ、捕まえたらその子が鬼になるという「鬼ごっこ」(これには様々なやり方があったが、ほとんど忘れてしまった)。この二つが「ごっこ遊び」の両横綱で、昭和四十年代まではどこの空き地にも見られた。こういう素朴な遊びを見なくなって久しい。  「くすぐりごつこ」という遊びは聞いたことがない。多分これはちゃんとした「ごっこ遊び」ではなく、単に猫じゃらしでお互いをくすぐりっこしているのだろう。「先に笑った方が負けよ」という取り決めはあるのかも知れない。秋風が吹いて気持の良い縁先かテラスで、幼稚園と小学生の姉妹が笑いたいのを我慢しながら、懸命に猫じゃらしで相手の首筋や二の腕などをくすぐっている。籐椅子にくつろぐおじいちゃんはもうメロメロである。(水)

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仕舞風呂秋の七草暗唱す   横井 定利

仕舞風呂秋の七草暗唱す   横井 定利 『合評会から』(日経俳句会) 碩 情景と動きがよく分かります。 万歩 春の七草はよく口から出てくるけど、秋の七草はなかなか・・。風呂に入りながら指折り数えているのが目に浮かぶ。 正裕 私も秋の七草覚えようと時々やっていた。一つか二つ抜けちゃう。 博明 仕舞風呂だから、のんびりやっている感じが出ている。 光迷 夜遅く月を眺めながらゆっくりと。このゆとりが何とも羨ましい。      *   *   *  「秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種の花」  「萩の花尾花葛花なでしこが花をみなえしまた藤袴朝貌(あさがお)が花」  万葉集(巻八雑歌)に載っている山上憶良の秋の七草の歌である。この二首は並べられており、問答形式のような感じである。秋の野のピクニックで若き男女が、秋の七草を言い合いながら見つけっこしているのだろうか。一方、掲出句は記憶が怪しくなったのだろう、仕舞風呂で思い出しながら唱えている図。これはこれで楽しそうだ。(水)

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新涼や身離れのよき魚の骨           佐々木 碩

新涼や身離れのよき魚の骨           佐々木 碩 『この一句』  俳句会最高の賞「蛇笏賞」を受けた著名俳人がかつて、こう語っていた。「私は取合わせの句がどうしてもうまく詠めない。これから勉強していきたいと思う」。受賞時の年齢は八十歳を越えていたはずだ。その後に努力されたかも知れないが、取合せの名手にはなれなかっただろう、と想像している。  「取合せ」とは異質な事物を一句に並べる作り方で、古来、俳句の重要な手法になっている。例を挙げれば上掲の一句だ。「や」という切れ字を挟んで「新涼」と「身離れのよき魚の骨」が並ぶ。「新涼に何で魚の骨?」の声はあっても、「素晴らしい。これぞ取合せの句」と評する人が多いのではないか。  何の関係もなさそうな二物の取合わせが、句を作るコツである。しかしそのことを知っていても、いい句はなかなか作れない。この句を見て私は「素質がないとダメかな」と思った。なぜなら私は「新涼」に「魚の骨」はまず思いつかない。ところがこの句は、まさに新涼、と思ってしまうのだ。(恂)

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敬老日きょうも元気だいろはにほ        大石 柏人

敬老日きょうも元気だいろはにほ        大石 柏人 『この一句』  この句は初め、理解できなかった。句会の選句表で眺めた時も、深く考えることなく見過ごしてしまった。しかし作者が分かって、ああ、そうか、と思った。この方は私の会社の先輩で、千葉県のある大きな団地に住み、引退後はゴルフや俳句を楽しむ傍ら、自らラジオ体操の会を立ち上げていた。  会員の出席カードは自分で作り、ハンコの文字は「今日も元気」にした。毎朝、真っ先にラジオ体操の会場に顔を出し、来る人、来る人のカードに「元気印」を捺している。雨が降っても雪の日でも、必ず出かけて行くという。会員は大勢なので、「どんな日でも、誰かがやってくる」そうである。  問題は「いろはにほ」であった。句会後、家に帰ってから思い当たった。「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」(久保田万太郎)を踏まえているに違いない。作者も含め人々は故郷を出てちりぢりとなり、この団地に集まってきた。幾星霜を経ての敬老日。「皆さん、元気ですよ」というのが、句の真意だと思う。(恂)

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嶺々を越えて信濃の秋の雲           前島 厳水

嶺々を越えて信濃の秋の雲           前島 厳水 『この一句』  信州へ行くと、なるほどここは山国だ、と思う。北アルプス、中央アルプス、南アルプス。その他にも名だたる高山、大山が連なっている。人々は山々の間の「盆地」「平」「谷」と名のつくような場所に集中して住まざるを得ない。空はもちろん山と山との間にあり、雲は山を越えて流れてくる。  秋風は西北から吹いてくるはずだ。雲もまた風に乗り、同じ方角からやってくる。人々はその土地ごとに、秋雲の来る方向の山の名を心得ているのではないだろうか。例えば白馬から、槍・穂高から、木曾駒から……。少年であれば山村暮鳥の詩のように、「おうい くもよ」と呼びかけるかも知れない。  この句、「信濃の秋の雲」の「の」重なりが気になっていた。「信濃へ」とした方がスムーズに読むこと出来る、と思ったのだ。しかし作者が判明して、やはり「の」とする他はない、と考えを改めた。彼は諏訪生まれであった。雲は嶺々をはるばる越えて来て、「信濃の雲」になったのである。(恂)

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秋の雲盆地をよぎる刹那かな          高瀬 大虫

秋の雲盆地をよぎる刹那かな          高瀬 大虫 『この一句』  何となく心に引っかかる句であった。作者は盆地を見渡せるような場所に居るのだろう。秋の雲が流れ、その影が盆地をゆく。見上げれば雲は悠々としているが、影の動きは意外に早く、地上が翳ったかと思ったら、すぐに秋の日が当たっている。しかし盆地を「刹那」に過ぎていくとは思えない。  雲は風とともにに流れていく。上空なら風は秒速百mにもなるから、雲の速さも同じくらいだろう。しかし盆地であれば相当な幅があるはずで、そこを過ぎるにはそれなりの時間がかかるはずだ……。私は俳句を理屈で考えてしまう傾向がある。こういうこと実際にあり得ない、おかしいよ、と断じてしまうのだ。  ふと気付いた。これは雲が盆地をよぎっていくうちの「一刹那」なのかも知れない。徒然草に「刹那を漫然と過ごしていると、すぐに一生を終えてしまう」というような一節があった。僧侶の資格を持つ作者は、雲の、あるいは雲の影の動きを見つめながら、そんなことを考えているのだろうか。(恂)

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