父の日の小さくなりし背中かな   嵐田 啓明

父の日の小さくなりし背中かな   嵐田 啓明 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 二堂 私の父親は九十九なんですが、やはり九十過ぎると食べても段々縮んでいく。「小さくなりし」が上手いな。 実千代 元気でいてほしいという気持が表れていて、なんともいい。 頼子 小さいとき大きな背中におんぶしてもらったのが、こんなに小さな背中に、という情景が浮かんできます。 正市 日常生活の中の発見。大げさでなく実景をひろってうまく表現している。 冷峰 いつからか母の日ばかりで、父の日はかすんでいる(笑い)。物理的に背中が小さくなったというより、父そのものが小さくなった世相を映している。           *     *     *  作者によれば、亡くなる前に急に小さくなってしまったなと思ったのだそうである。六月の第三日曜日、ああ今日は父の日かと、亡父のあれやこれやを思い出して一句成った。昔は365日毎日が「父の日」であった。(水)

続きを読む

愛犬も更衣どきくしけずる          竹居 照芳

愛犬も更衣どきくしけずる          竹居 照芳 『この一句』  鳥獣はこの時期、冬毛から夏毛になる。雪の世界の白から茶色や黄色などへ劇的に色を変えるタイプもいるが、多くは密生した毛を夏に相応しくすっきりした毛にしていく。ペット類ももちろん毛換わりの時期を迎えるので、飼い主はきれいな毛並みにしてやろうと、ブラッシングに励むことになる。  そんな時、普通ならペットに愛情を向けるだけだろう。ところが俳句に馴染んでいる人は、自らの更衣にも思いが及ぶ。「お前は更衣の時期を迎えたのだな。私も半袖シャツで外出してみようかな」。更衣という季語によって、飼い主と愛犬はより深く心を交わすようになるのではないか。  人間も大昔は”毛物”であった。冬になれば柔らかな長い毛をまとい、夏になればそれを脱ぎ捨てていたのだ。ところがいつしか裸虫(人間の異称)となり、衣類を作り出して季節の変わり目に着替えるようになった。作者は愛犬をくしけずりながら、人類のやって来た道に思いを馳せている…のかな? (恂)

続きを読む

いざ行かむ傘寿の先へ更衣          田村 豊生

いざ行かむ傘寿の先へ更衣          田村 豊生 『この一句』  「人生を振り返る句が多いなぁ」という声があった。兼題「更衣」の句を眺め渡すと、確かにその通りであった。「年重ね」「来し方を」「昭和は遠し」「母の姿も遠ざかり」――。人は更衣をするとき、わが身を振り返り、「もうこんな年になったか」「よくここまで来たものだ」という感慨を抱くのだろう。  そんな中にあって、この句は未来を見つめている。それも七十九歳のいま、数か月後にやって来る誕生日、すなわち傘寿の先へ歩を進めよう、というのだ。作者は「カラ元気ですよ」と謙遜されるが、「いざ行かむ」と詠み切った気合いが何とも快い。初夏の俳句に相応しい直球勝負である。  作者は俳句を始めて僅か半年ほど。句会に出たのは四、五回だろう。それも友人に引っ張り込まれての俳句体験であったが、高齢者に勇気を与える句を作ることが出来た。「いつ始めても早過ぎることはない。いつ始めても遅過ぎることはない」。米国人の作ったゴルフの格言は、俳句にこそ相応しい。(恂)

続きを読む

青梅の歩道に落ちてはづみけり        石黒 賢一

青梅の歩道に落ちてはづみけり        石黒 賢一 『合評会から』(三四郎句会) 尚弘 道路に落ちると、青梅は確かにはずみますよ。よく観察したものです。 義彦 瞬間を捉えていて。なかなかいいなぁ。 恂之介 青梅の落ちた音まで聞こえてきそうだ。 照芳 なるほどなぁ。今回、(兼題の)青梅をかなり観察したつもりだけれど、こういう場面に出会わなかった。しかしもし、この場面を見たとして、こう詠めるかな。          *            *  青梅が落ちて、ただはずんだだけのこと。見たまま、ありのままを表現する「ただごと俳句」に属するだろう。「ただごと」という語は、そんな句を揶揄する意味合いを含んでいるが、高野素十の作品のように、ただならぬ魅力を秘める句も少なくない。作者は俳句を始めて数年。俳句経験がそれ以下の人も、この句を支持した。(恂)

続きを読む

古刹から洋食匂う梅雨晴間          杉山 智宥

古刹から洋食匂う梅雨晴間          杉山 智宥 『この一句』  意外な状況を提示して、読む人に「しかし、あり得る」「けっこうリアルだ」などと思わせるのも俳句作りの一手法といえよう。この句はその一例で、由緒ある寺から洋食の匂いが流れてきた、というのだ。大寺院では無理だが、家族で守っている程度の寺なら、こういうこともあり得るだろう。  寺とは言いながら、和食ばかり食べているわけではない。住職一家には子供や若い人もいるだろうから、洋食も作るし、その匂いが庫裏から外の道路まで流れてくることもあるはずだ。句会での「カレーだろう」「デミグラスソースかも」といった感想には、この句への共感が込められていた。  前回に続いて取り合わせの句である。このタイプの句には、映像芸術のモンタージュやコラージュの手法との類似を言う向きもある。要するに1+1=2以上の効果を求めることで、この句なら古刹からの洋食の匂いと梅雨晴間の関係だ。両者を足して「2以上」の効果が生まれているかどうか。その判断はもちろん、読む側、選ぶ側に委ねられている。(恂)

続きを読む

どくだみや余生の日々の長きこと       片野 涸魚

どくだみや余生の日々の長きこと       片野 涸魚 『この一句』  どくだみという雑草の評価は単純に決められない。悪臭を放つ。ほおっておけば庭を埋め尽くすほどに広がっていく。地下茎を張り巡らしているから根絶は難しい。しかし十薬と呼ばれるように、薬剤としての用途は多く、白い十字花が咲き揃うと悪役的な側面を一掃するほどの美しさをみせる。  さて、そんなどくだみと余生の関係。俳句になじみの薄い人だと、「はてな」と首をひねるかも知れない。ところがこの句、句会では相当な支持を得て高点句となった。俳句をやっている人なら、何となく感じるものがあるのだ。ただ、この句を選んだ理由を問われると、誰もが言い淀むのではないか。  俳句の難しさ、面白さ、奥深さは、こういうところにあるのだろう。例えば余生に、どのような花を配するとぴったりくるのか。桜、梅、薔薇、紫陽花、朝顔、萩、山茶花――。思いつくままに花の名を挙げてみると、どれも「余生への思い」に合いそうな気もする。しかしそれらと、どくだみの花を比べたらどうか。後期高齢者の私などは、どくだみに勝る花はない、と思ってしまうのだ。(恂)

続きを読む

バス停に旧き町名麦の秋   大下 綾子

バス停に旧き町名麦の秋   大下 綾子 『合評会から』(日経俳句会6月合同句会) 頼子 市町村合併で古い町名が次々に消えてしまいましたが、バス停の標識にまだ古い町名が残っているという、なんとなくほっとした感じを抱かせます。 臣弘 田舎のバスで乗る人もいなくなって、もう来なくなっちゃった。古い町名のバス停標識だけがぽつんと残され、そばにはボンカレーの看板が埃かぶっている。まことに淋しい風景をさりげなく詠んだ、いい句ですねえ(大笑い)。 恂之介 都会に住んでいると今や麦畑も麦秋という季語も古いというか、懐かしい感じの言葉になった。そういうことを考えると、古い町名がバス停に残っていると詠んだこの句は麦の秋とよく合っていますね。 啓明 田舎のバスなんかは今ではもう朝一本、夕方一本という具合で、それを待っていると視野には麦畑も入って来るんでしょう、ふと見ればバス停だけに古い町名が残っている。味のある句だなあと思います。           *   *   *  「父が故郷の温泉に行きたい」と言うものですから、湯布院へ行って、大分へ出る道を行きました。バス停の標識を見て「ああここも大分市になったのか」なんて言ってまして・・・。親孝行が生んだしみじみとした句である。(水)

続きを読む

夏めくやアジアン雑貨の店に入る   植村 博明

夏めくやアジアン雑貨の店に入る   植村 博明 『合評会から』(日経俳句会) 碩 東南アジアの蒸し蒸しした暑さと、アジアの雑貨とが組んでできたいい句だなと思います。 正市 たくさん吊るしてある雑貨。ぐちゃぐちゃな店と「夏めく」の取り合わせがユニーク。 綾子 猥雑な雰囲気がいかにも「夏めく」感じです。           *   *   *  「アジアン雑貨」という言葉は若者から中高年まで、特にショッピング好きにはしっかり定着しているのだという。試しにグーグルにアジアン雑貨と入れてみたら、そういう品物を扱う店の名前がぞろぞろ出て来た。横浜山下町・中華街、渋谷、下北沢などに多いようだ。そういえばよく行く中華街には昔から中国や東南アジアの安物雑貨をごたごた並べる店があった。今やそういった店をひやかし、気に入った小物を買ってきて飾るのが流行らしい。ことに蒸し暑さでは断然親分格の国々の小物はお手軽な消夏法になるようだ。(水)

続きを読む

夏めくや風のことばに木のことば   佐々木 碩

夏めくや風のことばに木のことば   佐々木 碩 『合評会から』(日経俳句会) 万歩 新緑のところに出ると、風とか木がしゃべる童話のような感じがします。夏でなくても秋でもいいかなという気もしますが、やはり夏が一番かな。 光迷 夏でも春でもいいな。イメージ的には「夏めくや」が一番合うようだ。 弥生 私は初夏がいい。風の感じが違う。自然の中に入ると風や木がしゃべっているのが分かる。 正市 「風のことばに木のことば」はなかなか出てこない。言葉のリフレインと飛躍は本格詩人の感じがする。 庄一郎 風からも木からも夏めく感触が受け取れる、微妙な表現。 明男 風のそよぎ、木の葉のこすれる音を、「ことば」ととらえている点に、作者の感受性の豊かさを感じました。           *   *   *  「秋めくや」でも合うように思った。秋風こそ人の心を揺さぶり、木の葉の様子も物思いを誘うからである。合評会でもこうした「季が動く」点に意見が飛び交ったが、やはり「夏めく」がいいということに落ち着いた。(水)

続きを読む

茶摘唄富士は世界の山となり   大石 柏人

茶摘唄富士は世界の山となり   大石 柏人 『季のことば』  「夏も近づく八十八夜野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘ぢやないか 茜襷に菅の笠」。明治45年(1912)に発表された文部省唱歌「茶摘」だが、誰が作詞作曲したのか分からない。けれども未だに廃れずに、現代の子どもたちも知っている。とても明るくて調子のいい唄だからであろう。  茶は生糸と共に近代日本を支えた重要輸出品で、日本を列強の一角にのし上げた立役者である。京都の宇治、福岡県の八女など各地方に大昔からの茶所があったが、幕末維新に富士山の裾野、静岡県で大々的に生産されるようになって、一気に日本の輸出の中心品目にのし上がる。富士を背景に広大な茶畑というのが静岡県の代表的な風景になった。この句の作者は生まれも育ちも静岡。茶摘唄に慣れ親しみ、霊峰富士の申し子のような人である。  そのフジヤマが今月末にも世界遺産として正式に登録される。そんなものに指定されずとも富士山は超然としているのだが、ユネスコから改めて世界遺産と言われれば土地っ子としては悪い気はしない。子供のように喜ぶ詠みっぷりが微笑ましい。(水)

続きを読む