白魚の魚籠に影なき泳ぎかな         岡本 祟

白魚の魚籠に影なき泳ぎかな         岡本 祟 『この一句』  前回のコメントにあるように「シラウオ」と「シロウオ」は混同されやすい。魚種は全く別で、魚類図鑑で見ると形もけっこう違っているのだ。しかしどちらも春になると産卵のために海から川へ上る小魚で、半透明で、しかも美味しい。「同じようなものじゃないか」と割り切って、句を作る人もいる。  この句は「白魚」だから、もちろん「シラウオ」。一般に流通するのは、刺し網などの大量捕獲物がほとんどのようだが、こちらは川べりなどに四手網を仕掛けるこじんまりした漁法だろう。作者は水に半ば沈めた魚籠(びく)を覗き込み、「どうですか、採れましたか」などと漁の人に話しかけているのだ。  魚籠の中には何かが動いていて、光がゆらめいているのに、魚の影は見えない。「白魚やさながらうごく水の色」(小西来山)をふと思う。白魚の透き通るような姿を詠んだ句は古来、多いのだが、魚籠の中の様子は珍しい。細かな竹籠の目を通して、魚籠の内側に光が届いているのだろう。(恂)

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連衆の寄り目で掬ふ素魚かな   谷川 水馬

連衆の寄り目で掬ふ素魚かな   谷川 水馬 『季のことば』  日経俳句会・番町喜楽会の連衆八人で三月上旬、山口、萩、津和野を巡り、萩の漁港の海鮮市場「シーマート」での昼食風景。萩は河豚、海老はじめ活きのいい海産物が豊富だ。市場には旨そうな魚がたくさん並べてある。気に入った魚を買い求め、横手の料理屋に持ち込むと料理してくれるシステムになっている。あれやこれや注文した中の一品がシロウオだった。  素魚と書いて「シロウオ」。ハゼ科の小魚で体長五センチほどの透き通った魚だ。北海道から鹿児島まで列島沿岸にいるのだが、中国・九州地方で春を呼ぶ魚として特に人気が高い。産卵のために川に上がって来るのを網で掬い取るのだ。サケ目の白魚(シラウオ)とよく混同される。どちらも旬は三春、食べ方もよく似ている。白魚も素魚も俳句では「しらうお」あるいは「しらお」と詠まれる。  鉢に泳ぐ素魚を小さな杓子で掬い、ピチピチはねるのを手元の酢醤油の小皿に受けて啜り込む「躍り食い」が名物なのだが、皆々視力に問題が出て来る年頃のせいか、なかなか掬えない。賑やかな昼食になった。(水)

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一湾の風に骨透く干鰈   佐々木 碩

一湾の風に骨透く干鰈   佐々木 碩 『合評会から』(日経俳句会) 博明 あんまり奇麗すぎてどうかなと思ったけど、やはりいいですね。 光迷 この季節の干鰈は旨いから単純に食い意地で採りました。 てる夫 「一湾の風」の厳しさが干鰈を通じて伝わってくる。 十三妹 浜辺に射した陽光と潮の香りが心を満たしてくれるようです。 反平 「一湾の風」と言ったのがいいのかな。 恂之介 いや「一湾」は効いていない。陸奥湾とか、みちのくとか固有名詞を入れたほうがいいんじゃないかな。           *  早春から仲春にかけて各地で干鰈作りが盛んに行われる。若狭のが美味いとか、瀬戸内から九州のものがいいなどと、ご当所自慢が始まるのだが、余寒のやや冷たい風と日和に恵まれたものなら何処産であろうが旨い。  干鰈の骨が透くというのは言い古されたことで、類句累々なのだが、飽きることなく詠み継がれ、句会では常に人気を呼ぶ。やはりこれもまた日本人の心の中にある春の浜辺の原風景なのだろう。(水)

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ガード下独り昼餉の余寒かな   和泉田 守

ガード下独り昼餉の余寒かな   和泉田 守 『この一句』  会社員の昼食は大ざっぱに言って四つのパターンがある。社員食堂、外食、パンや弁当を買い自席か休憩室で食べる、愛妻あるいは自分で作った弁当持参。  近頃は自家製、購入合わせて弁当派が数を増しているようだが、やはり町へ出てレストラン、飯屋、蕎麦屋、ラーメン屋などを物色する外食派が依然として多い。  さて、外へ食べに行くとして、仲間と連れだってか、一人で行くか。仕事に追われていて麺類を啜ってすぐに戻るという場合は別にして、男性女性を問わず大概は二三人誘い合わせて行くようだ。きのう今日社内で見聞したもろもろを確かめ合う情報交換の場になるからだ。昼食は仲間同士の距離感を測る場ともなっている。  何かの拍子でタイミングがずれて、たった一人で昼飯を食いに行かねばならぬこともある。あらかじめ今日は独りで食べると決めての単独行ならいいのだが、そうでないとなんとも淋しい気持になる。仲間と来た時にはまったく気づかなかった頭上を通過する列車の音が妙に気に触ったりする。(水)

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桃の花弥勒菩薩の指の先   加藤 明男

桃の花弥勒菩薩の指の先   加藤 明男 『合評会から』(日経俳句会) 光迷 飾ってある桃の花も弥勒菩薩も優しい。 紘 季節とマッチしている優しい句だなと。 てる夫 優しさというところ。うまく合っている。 万歩 作り過ぎの句じゃないかと思ったけど、よく出来ていますねえ。         *  弥勒菩薩は優しい仏様。天上の兜率天というところに住んでいて、56億7千万年後にこの世に降りて来て、釈迦牟尼仏の救いの手から洩れて苦しんでいる衆生をことごとく救って下さるのだという。京都・太秦の広隆寺にある国宝弥勒菩薩半跏思惟像があまねく有名だ。腰かけて右足を左腿に乗せた恰好で、右手を右頬に当てるようにして、思いに耽っている。愚かなる人間どもを悉皆救ってやるのは並大抵じゃないぞと考え込んでいるのではないか。ミロクサマには蓮の花ももちろん合うけれど、桃の花を供えるのもなかなかよさそうだ。(水)

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控へ目に泣く子なりけり桃の花   廣上 正市

控へ目に泣く子なりけり桃の花      廣上 正市 『季のことば』  桃は言うまでもなく春の季語。三月三日の雛祭を「桃の節句」と言い、旧暦時代の昔はこの日あたりに桃の花が真っ盛りとなった。ところが新暦の三月三日は旧暦で言えば二月初めであり、桃はまだ蕾すらはっきりしない時期である。仕方が無いから園芸農家は花芽のついた桃の枝を切って温室に入れて温め、雛祭が来たぞと錯覚させて無理矢理咲かせたものを花屋に出している。  先日、句友連れだって萩や津和野を巡ったら、行く先々でお雛様を飾っていた。おやと思ったら、旧暦で雛祭をするのだという。一昨年出かけた松山でもそうだった。これなら桃の花も自然にほころぶ。  この句、いかにも桃の花にふさわしい。この子は間違いなく女の子であろう。「控へめに泣く子なりけり」とは、なんとも可愛らしいではないか。孫俳句というものは大概はダメなのだが、これは素晴らしい。すくすくと育って、「桃之夭夭 灼灼其華」(若々しい桃、輝けるその花・「詩経国風」)そのものの娘さんになるだろう。(水)

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金貸した男と出会ふ余寒かな         植村 博明

金貸した男と出会ふ余寒かな         植村 博明 『合評会から』(日経俳句会) 万歩 いかにも変な句ですね。舞台のドラマを思い浮かべました。ト書きにこの句が書いてあり、役者が左右から出てきて、ドラマが始まる、というような。 冷峰 金を借りたのではなく、貸した相手に出会って、余寒? 変じゃないかな。 十三妹 私、同じような体験があって、こっちが逃げ出したくなった。ですから、この句に実感があります。 正市 この二人は何かあって、貸した方も、もう顔を見たくないという間柄なのでしょう。 水牛 金の貸し借りにからむ人情を面白く詠んでいる。この余寒、春だと言うのになぁ、という感じでしょう。 博明(作者) 本当の話です。今でも会う機会はありますが、後味の悪いものです。こっちから言うことではないし、向こうからも言いません。もういいんですがね。           *           *  お金を人に貸すと、こんな奇妙な心理になるようだ。なるほど、余寒と合っているかも知れない。(恂)

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野焼の火長門石見の国ざかひ         大澤 水牛

野焼の火長門石見の国ざかひ         大澤 水牛 『合評会から』(日経俳句会) 恂之介 山口県の長門、島根県の石見(いわみ)。地名の魅力を感じます。重量感のある句ですね。 冷峰 長門・石見の野焼きは凄いですよ。私が見た所は岩がごつごつしていて、これぞ野焼き、という景観でした。一度ご覧になってもらいたい。天下一品の野焼です。 紘 低い丘の連なった所でしょうか。煙の流れる風景が見えます。いい句ですね。 水牛(作者) 萩から津和野へいく県境の山の中で、野焼きが見えました。火が一列に走っていたので、「野火走る」にしようかと思いましたが、作り過ぎかな、と思いまして。 反平 いやー、絶対に「野火走る」でしょう。野火の動きが感じられます。 水牛 そうですか。「走る」にした方よかったかな。            *          *  「地名は季語の次に重要な語」とは鷹羽狩行先生の言。歴史的な地名の力を改めて感じた。(恂)

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地虫出づ城址の丘はまろやかに        大沢 反平

地虫出づ城址の丘はまろやかに        大沢 反平 『季のことば』  蛇、蜥蜴(とかげ)、蟇(ひき)、蚯蚓(みみず)、蟻――。地上の暖かさが地中に伝わると、俺たちの季節が来たな、と這い出てくる小動物や虫たちである。彼らが地上に出てくる有様を総称した季語が「地虫穴を出(い)づ」。それぞれも例えば、「蜥蜴穴を出づ」という風に、季語として存在している。  女性なら蛇や蜥蜴のようなものに出会えば、たぶん「キャッ」と驚き、眉を顰めるだろう。しかし「おー、出て来たか」と、彼らの到来を喜び、歓迎する人もいる。おそらく原始人や古代人の春を待つ心を引き継いでいる人たちで、俳句をやる人にはこのタイプが多い、と私は思っている。  この句、地虫の出てくる丘が「まろやか」であるという。寒い冬を耐え抜き、ようやく地上に現れたものたちへの慈しみが感じられよう。彼らの出てくる時期はもちろん春。この後も、蛇、蜥蜴、蟇、蚯蚓、蟻らは活躍を続け、それぞれが独立した「夏」の季語となる。みな我々の身近な仲間なのだ。(恂)

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地虫出づワゴンセールのつかみ取り      岡田 臣弘

地虫出づワゴンセールのつかみ取り      岡田 臣弘 『季のことば』  「地虫穴を出(い)ず」のような季語を使い出すと、俳句の世界にかなり踏み込んだ、という気持ちになるらしい。「蛇穴を出ず」「蜥蜴(とかげ)穴を出づ」なども、もちろん同様である。「春風」「花見」のような語と違って、普通の人だと「?」と頭を傾げてしまうような世界だからだろう。  しかし「啓蟄(けいちつ」はどうか。これだと気象予報士が教えてくれるので、「ああ、あれね」とうなずくことになる。この語は「地中の虫(蟄)が穴を啓(ひら)いて出てくること」だから、「地虫穴を出ず」と同じこと。そうと分かれば、難しい季語だ、としり込みすることもない。  それにしても「ワゴンセールのつかみ取り」とは、力に溢れた形容だ。冬物一掃のセールだろうか。この時期のおばさんパワーの盛り上がりは、まさに啓蟄。ただし作者は、女性だけを地虫になぞらえているのではない。地虫の一匹として、異性の発散するエネルギーを、まぶしげに見ているのである。(恂)

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