それぞれに今年の顔や初句会   高瀬 大虫

それぞれに今年の顔や初句会   高瀬 大虫 『この一句』  正月も三箇日を過ぎると早速あちらこちらで句会が始まる。ヘボ碁、ヘボゴルフと一緒で、句を作るにはうんうん言って苦しんでも、いざ出来てしまえば句会がやりたくてうずうずという人が多いのだ。  新年句会というものは、俳句そのものは大したものがあまり出て来ない。正月早々あまり深刻なことを詠むのもなんだから、という気持が働くのか、和やかさを強調した句や、それこそお目出度い句が多い。でもそれで十分である。今年もみんな元気で楽しく詠み合っていきましょうという申し合わせの句会といった意味合いが濃厚なのだから。  この句もそうした和気藹々たる初句会の空気を素直に詠んでいる。「今年の顔」と言ったところがマンネリに陥るのを救っている。そう、心機一転、今年こそはの顔なのである。(水)

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屠蘇なめてまづは目出度き祖母の笑み      笹本塘外

屠蘇なめてまづは目出度き祖母の笑み      笹本塘外 『この一句』  勝手な想像を許して頂くことにしよう。お祖母さんは相当なご高齢で、寝たきりに近い状態かも知れない。視力や聴力も衰えて、ご家族との意思疎通は確かではない。しかし半世紀以上も一家を支えてきたお祖母さんがいないと今年が始まらない。孫たちが支えて屠蘇の膳に座ってもらう。  屠蘇を飲むしきたりは、家長から、逆に若い順から、という二つの流儀があるそうだが、この家では何はさておきお祖母さんからでなければならない。三段重ねの朱の盃から一番上の小さな一つを持たせ、父が銚子から三度に分けて屠蘇を注ぐ。家族全員が、お祖母さんの様子をじっと見つめている。  かつてはいけるクチだったお祖母さんも、この数年、お酒を口にしていない。アルコールと言えば、元旦のお屠蘇だけだろう。昨年から盃を持つ手元が次第におぼつかなくなってきた。今年は大丈夫だろうか。孫の手助けでようやく盃の端に唇を当て、ほのぼのと立ちのぼる香に、にっこりと笑った。「お屠蘇の香り、覚えているんだ」とみんなも笑う。こうして一家の正月が始まるのであった。(恂)

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コロラドの万丈の谷月冴える          岡田 臣弘

コロラドの万丈の谷月冴える          岡田 臣弘 『合評会から』(酔吟会) 佳子 見たことがないのに、見たことあるように感じました。荒涼として月にいるような…。 二堂 何しろコロラドの谷ですからね。行ってみたいと思いましたね。 涸魚 うらやましいねぇ。見たことのない凄い風景を詠まれて、脅かされているような感じもありました。 反平 作者(欠席投句)からのメールによると、グランドキャニオンらしいけれど、あそこはアリゾナですよね。でも、川がコロラド川だから、このままでもいいのかな。いずれにせよ、スケールが大きくて、私の好きなタイプの句です。 水牛 コロラドの谷へ行ったことがあります。崖の途中にキャンピングサイトがありましてね。私は泊らなかったが、夜、月が上がれば、なるほどこういう感じだろうと思いました。            *           *  句を見たとたん、「コロラドの月」と「箱根八里」の歌詞が浮かんできて、鑑賞に柔軟性がなくなってしまった。メンバーのコメントを聞きつつ、反省!! でした。(恂)

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冴ゆる夜のかくも静かに妻とゐて        吉野 光久

冴ゆる夜のかくも静かに妻とゐて        吉野 光久 『この一句』  「かくも静かに妻とゐて」。この静かさを別の語で表現できそうもない。部屋にいるのは夫婦二人だけ。夜はしんしんと冴え渡る。年末から年始へ、このところの寒さは特に夜に厳しく、じわじわと家の中まで浸透してくるようだ。二人が黙しているうちに、時は少しずつ過ぎて行くのである。  句を読み返していたら、武士の夫婦が浮かんできた。中級以下の立場ながら、夫は謹厳な生活を守り、日夜の研鑽を怠らないというような…。夫は正座し、書見台の和綴じ本を読んでいる。妻は少し離れたところでお茶でも淹れているのだろうか。現代にこのような夫婦の風景があり得るのか、とも思った。  作者が明らかになって、句会は粛然とした。作者は入院中であった。夫婦がおられたのは病室に違いない。夫は本でも読んでいるのか、俳句を考えているのか。奥さんは静かに付き添っているのだろう。句会から数日後、七草の夜の街に出ると風の当りはいくらか柔らかく、「冴え」は緩んで来たようであった。大寒はこれからだが、日は長くなり始めた。「日脚伸ぶ」を実感するのもそう遠くない。(恂)

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うたた寝の大ぐい呑みに去年の酒        大澤 水牛

うたた寝の大ぐい呑みに去年の酒        大澤 水牛 『この一句』  この「大ぐい呑み」には覚えがある。長らく陶芸に親しんでいる作者が、昨年の秋ごろに作ったものの一つに違いない。茶碗と言えるほどの大きさだが、ふっくらとして持ちやすそうで、まさに酒器と呼ぶべき形状をしている。「あれですかね」と聞いたら、「そう、あれでやりました」という。二杯も飲めば一合か、と見当をつけていたが、「たっぷりなら、八勺くらい入るかな」という大きさである。  大晦日の夜、大ぐい呑みで七、八杯はやったのだろう。「紅白」は見たかどうか、「ゆく年くる年」が始まる頃にはつい、うたた寝をしてしまった。はっと気づくと除夜の鐘も終わっていた。ぐい呑みにはまだ半分ほどの酒が…。「一杯の酒に去年と今年が分かたれたか」と感慨を持って酒杯を見つめる作者。  「去年(こぞ)」は「今年」とともに旧年・新年の移り変わりを示す季語の一つだ。広く知られる「去年今年」を「去年」の傍題とする歳時記もある。ならば、と「去年」を句会の兼題として作った一句。俳句、陶芸、酒という、作者と切っても切れないものの三つが、みごとに綾なしている。(恂)

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冬温し池の水面に鯉の口   井上庄一郎

冬温し池の水面に鯉の口   井上庄一郎 『季のことば』  今日五日は寒の入り。さすがに冷えてきた。これから二月三日の節分までの30日間が寒中で、一年で最も寒い時期とされている。  とは言っても時折、とても暖かで穏やかな日が巡ってくる。四日の昼間は横浜の我が家の庭は14℃にもなった。11月から12月にもこうした寒暖綯い交ぜの気温変化があり、俳句ではもっぱらそれに注目して「小春」とか「三寒四温」という冬の季語を据えている。しかし、1月から2月にかけても同じように寒い日暖かい日が循環し、やがて本格的な春の陽気に移って行く。この冬場の儲け物のような暖かい日を俳人は「冬温し」と言って、ことのほか珍重する。温いとは言っても寒中だからかなり冷えるのだが、「探梅」と称し、厚着して梅林をほっつき歩くのもこの頃である。  そうした折に池のほとりにさしかかり、鯉の群れ泳ぐのを見つけたのだろう。鯉も春の兆しを感じ取り、人の気配に餌を求めてわっと水面に浮いて来たのだ。大きな鯉が群がってやみくもに口を開けるさまは迫力がある。水面が鯉の口だらけだというところが面白い。(水)

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聖堂をあまねく満たす冬日かな   大下 綾子

聖堂をあまねく満たす冬日かな   大下 綾子 『この一句』  これは湯島の聖堂であろうか。それとも聖橋を渡って向い側の駿河台にあるニコライ堂(正式名称東京ハリストス復活大聖堂)か。ちなみに御茶ノ水駅そばの神田川に架かる聖橋は、湯島と駿河台の二つの聖堂を結ぶ橋という意味で名付けられた。どちらを詠んだものとするかで句の趣が微妙に変わってくるが、どちらと取っても句の意味する本筋は変わらない。大きな聖堂の内部に冬日が降り注ぎ、荘厳な雰囲気が漂い、信者ならずとも得も言われぬ大きなものにすっぽりと包まれたような感じになる。  しかし、この句は何もお茶の水の二つの聖堂に限ることはないのだ。ヨーロッパのゴシック建築の大聖堂でもいいし、日本国内津々浦々の小さな教会でもいい。この句の眼目は聖堂に射し込む「冬日」なのだから。  真夏の陽射しとは比べものにならない弱々しい冬日射しだが、一旦、暗い聖堂内部を照らすや、劇的な明るさと万物蘇生の温みをもたらす。「あまねく満たす」がそれをよく伝えている。(水)

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初夢やたどりつけないドアの先   星川 佳子

初夢やたどりつけないドアの先   星川 佳子 『季のことば』  初夢はもちろん新年の季語だが、さて、これは大晦日から元旦にかけて見る夢を言うのか、元日夜から二日の朝にかけてか、それとも二日の晩から三日朝にかけてのものか。広辞苑には「元日の夜に見る夢。また、正月二日の夜に見る夢。古くは、節分の夜から立春の明け方に見る夢」と出ている。旧暦の昔は年によって狂いがあるが立春が即ち年の初めで、節分が大晦日に当たる。つまりはこの三日間、どの晩に見た夢でも「初夢」ということになる。  いまでも「夢判断」とか「夢占(ゆめうら)」が盛んに行われているように、良い夢を見ると嬉しくなり、悪い夢だとしきりに気にする人がいる。悪夢を見たらお呪いをかけたり「夢は逆夢」と唱えたりする「夢違え」をする。  ましてや初夢ともなると、信心とは縁遠い人でも気になるだろう。この句の夢も良くないようだ。大地震か大洪水か、悪漢に追われているところか。何としてもあのドアの先まで逃げたいともがいても、届かない。はっと目がさめてやれやれ変な初夢、なんてつぶやいている。あまり深刻になっていない様子がうかがえるので、楽しい。(水)

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初刷やマウスでめくる電子版   嵐田 啓明

初刷やマウスでめくる電子版   嵐田 啓明 『季のことば』  「初刷」とは新年になって最初に配られたり店頭に並ぶ新聞雑誌を言う。もちろん厳密に言えば去年刷られたものだが、インクの香も新しく、何となく清々しい感じがする。別刷が二部、三部、四部と重なって、元日の新聞はやたらに分厚い。その上に折り込み広告もたくさん入っているから、小さな郵便受けには入りきらず、門柱の脇に置いてあったりする。  大晦日は大概夜更かしだから、元旦は大寝坊。場合によっては年賀状と一緒に元旦の新聞を取り込んだりして、屠蘇雑煮を祝ってから、おもむろにページを繰る。ご祝儀広告ばかり多くて、読むに耐える記事はあまり多くない(そんなことを言って、昔はそれを書いていた)けれど、このどうでもいいような元旦号をめくるのが正月気分のなんとも言えないところである。  ところが近頃の若者は初刷などには目もくれない。「ネットの方が見たい記事がすぐ見れる(この「見れる」というのがまた気にくわないのだが)じゃん」という。伝統あるニューズウイークも雑誌版は廃刊、ネット版だけになったという。已んぬる哉。(水)

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傍らに妻の寝息や去年今年   加沼 鬼一

傍らに妻の寝息や去年今年   加沼 鬼一 『この一句』  年越蕎麦を老妻と二人ですすって、除夜の鐘を聞いて就寝。あれこれ思い巡らしていると、すっかり目が冴えてしまった。子どもたちは巣立ち、今や狭い家を広く感じる老老世帯である。夫婦ともども寄る年波であちこちがたが来てはいるものの、大病を患っているわけではなく、立居振舞いに不自由はない。細かなことで不満はあるものの日常の暮らしもまずまずだ。  もうそろそろ喜寿という年頃になって、平穏無事、大過なく過ごせているのだから、これで文句を言ったら罰が当たるというものだ。しーんと静まった新年の暁闇の中に、妻の寝息がばかに大きく響く。あなたの鼾がうるさくてよく寝られないなんて言ってるくせに、自分だって結構派手な寝息を立てているではないか。  新しい年もたぶん我が家は去年と同じような暮らしが続くことだろう。世の中は政権が変わった途端にあれこれざわめいているけれど、市民の安穏な暮らしだけは保ってほしいものだ。(水)

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