茜雲浅間の嶺へ葱の列            前島 厳水

茜雲浅間の嶺へ葱の列            前島 厳水 『この一句』  茜(あかね)雲が西空を覆っている。その下に浅間山。手前の葱の列が浅間山まで続いている(ように見える)という風景。句の順序からいえば、上から下へと視線を戻してくることになるのだが、視線は明るさを求め、葱畑から浅間へ、さらに上空の夕焼け雲に戻って行くような感じもある。  決して明るい情景ではない、と私は思う。夕暮れが近づき、葱の緑色は土の色に溶け込もうとしている。浅間は茜雲を背に受けて、蒼黒く広がっているのだろう。絵画として思い描けば、上三分の一は美しい茜空である。しかしキャンバスの下三分の二は茶や緑を基調にした空間が広がっている。俳句には日本画を思わす情景がよく詠まれるが、これは重厚な油絵の句と言うべきだろう。  秋晴れや冬晴れの日なら、様子は一変する。青空の中に浅間が浮かび、手前の葱畑は緑が鮮やかである。想像によって、浅間が見える辺りを描けば、そのようなよくある風景になってしまうはずだ。しかしこの句は茜雲によって類型を脱した。実際に見た風景であるからに違いない。(恂)

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薄暮にも球追ふ子らよ冬浅し   山口 斗詩子

薄暮にも球追ふ子らよ冬浅し   山口 斗詩子 『この一句』  一昔前までなら、これは子供野球で間違いない。しかしサッカーが大流行の昨今では、夕闇迫る中でサッカー・ボールを追いかけ回す光景と取った方が普通かも知れない。ただこの句の場合は、草野球でもサッカーでも、どちらを思い浮かべてもいいだろう。分刻みで暗くなってゆく初冬の野原で、無我夢中になってボールと戯れる子どもたちの様子、というのが眼目なので、球技の種類なぞ何でもいいのだ。  「もう一回裏表やろうと頑張っている感じ」という句評を述べたのは、自分の子供時代の草野球を思い出した人だ。「ボールを取ったり取られたりして、暗くなるのにも気づかない」と言ったのは子供につられてサッカー・フアンになった人の今日的解釈だ。  こんな風に読者にいろいろに受け取られる句というのは、意味があいまいで、普通はあまり良い事とはされないのだが、この句はかえって自由で大らかな感じを与える。(水)

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玄関の主なき杖や秋の風   田中 白山

玄関の主なき杖や秋の風   田中 白山 『この一句』  何とも身につまされる。遅かれ早かれ我が家もこうなって、玄関の傘立てに私の杖がぽつんと一本。山の神が「お酒をさんざん飲んで、好き放題やった人ですから」なんて来客に言っている景色が浮かんで来る。  番町喜楽会という句会に喜寿にして入会した作者が、いきなり最高点を獲得した句である。句会のメンバーは私も含めて杖に頼る人間は一人もいないのだが、こういう句を見るとはっと悟る年頃にはなっている。「なんの難しいところもない、見たままをすっと詠んだだけだが、見る者の心にしみじみと伝わって来るものがある」というのが大方の賛辞であった。  「だけど、なぜ死んだ亭主の杖をいつまでも玄関に残しておくのか」という疑問が呈された。作者曰く、「表札をそのままにしておいたり、玄関にご主人の靴を置いておく家があるようですね、防犯の意味で。これは亡くなった友人の家のことなんですが、奥さんとしては処分してしまう気持にはなかなかなれないし、そこにあるとなんとなく心丈夫という気持もあるようでした」。(水)

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客足の落ちしスーパー舞ふ枯葉   堤 てる夫

客足の落ちしスーパー舞ふ枯葉   堤 てる夫 『この一句』  大きな駐車スペースを持った郊外型スーパー。どういうわけか客足が減り、店側も人員削減しているせいか外周りの掃除にまで手が回りかね、入口付近にまで落葉が舞っている。店の作りが派手で、幟や看板が派手なだけに、さびれた感じが一層目立つ。きっと間もなく閉店ということになるのだろう。  大手スーパーはここへきて店舗展開の見直しを進め、地方中小都市の不採算店を次々に閉鎖している。浮いた資金で東南アジア諸国に新規展開した方がずっと投資効率が良いからだ。しかし、スーパーが突然店仕舞いしてしまった地域住民は途方に暮れる。そのスーパーが出て来たために、昔からあった八百屋、魚屋、雑貨屋がみんな潰れてしまっているから、買い物する店が無いのだ。零細小売店の顧客を奪い、潰しておきながら、今度はその顧客を置き去りにして逃げてしまうのだから罪作りなものである。  見たままを詠んだだけの句のように見えるが、不景気な現代風景を鮮やかに示した、なかなか深い句である。(水)

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車椅子そつと追ひ越す花野道   植村 博明

車椅子そっと追ひ越す花野道   植村 博明 『合評会から』(日経俳句会) 好夫 「花野道」には一期一会みたいな感じがある。車椅子を思いやって「そっと追い越す」のが気持ちがいい。 昌魚 そうですね、心やさしさが表れていていいなと。そっと追い越しながら「お大事に」なんて言う。すてきな句です。 佳子 ちょっと待っていたのだが、ついに失礼して追い越したという場面を、上手に描いているなと思います。 臣弘 場面が浮かんできますよね。 青水 俳句的な世界の用語である「花野」のやさしさをうまく表現しています。「そっと追ひ越す」で辺りの人と風景をふんわり包みとった。      *     *     *  ゆっくり歩いていても、車椅子にはどうしても追いついてしまう。すぐ後について歩けば、なんだが急かしているような感じになってしまう。こういう時は思い切って声をかけて追い越した方がいい。そうした気遣いが伝わってくる句である。(水)

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蟷螂の鎌をもたげて轢かれをり         嵐田 啓明

蟷螂の鎌をもたげて轢かれをり         嵐田 啓明 『この一句』  自動車、自転車……、乳母車にだってカマキリは轢かれてしまう。しかし、ぺちゃんこになっても鎌(斧?)を掲げ、強烈な抵抗の意を示しているところがすごい。これぞまさしく「蟷螂の斧」。アスファルト道路、土の道の轍の中などにカマキリの死骸を見れば、人それぞれに思うことがあるだろう。  カマキリのように、自分の意思をさまざまに示せる虫が他にどれくらいいるのだろうか。アリやミツバチは餌を取ったり、巣を作ったりしているが、あれは個の意志の働かぬ集団行動と見るべきだろう。トンボやクモはどうか。自分で餌を捕食しているが、意志が感じられるのはせいぜいそこまでだ。ところがカマキリは人間にも立ち向かう気力を示し、死してなお抵抗の精神を失わない。  句の評に「現役時代のおのれの身を思い出し、切なくなりました」というのがあった。評者は女性であった。「カマキリ爺さん」なんて呼び名もあり、オスの印象の強い虫ではあるが、抵抗するのはメスなのかも知れない。オスのカマキリは結局、メスに食べられてしまうのだけれど。(恂)

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大男屈みてをりぬ貝割菜           広上 正市

大男屈みてをりぬ貝割菜           広上 正市 『季のことば』  秋まき大根の場合は一か所に五六粒の種を直まきし、子葉が二枚出たあたりが「貝割菜」(秋の季語)。この時期に元気な芽を三本残して、間引かれたものが「間引菜」(これも秋の季語)である。二つの季語の差は微妙であるが、残った三本を一本にする頃は子葉が増えるので「貝割り」ではなくなる。  一般には「カイワレ」と呼ばれるが、俳句で「菜」を省略した作例はあまりないようだ。近年は「スプラウト(新芽)」の通りがいいらしく、野菜売り場ではブロッコリー、レッドキャベツなどのスプラウトも並んでいる。しかしこれらは季節に関係なさそうだから、季語になれないだろう。  上掲の句は家庭菜園か小さな畑に芽を出した貝割菜を、大男が屈んで見ているという場面だろう。彼はその芽を慈しんでいるのか、はたまた間引こうとしているのか。アマチュアの農業人だと、種から育てた小さな芽を引き抜くのに心が痛むそうである。その一方で、汁の実にし、おひたしにする時のおいしさも思い浮かべている。悩むのが大男であるだけに余計、ペーソスを増そうというものだ。(恂)

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