落葉掃く身辺整理するごとく          直井 正

落葉掃く身辺整理するごとく          直井 正 『この一句』  明治時代の「名文の書き方」的な本を読んで驚いたことがあった。本の半分ほどが「~は~の如く」、つまり比喩の書き方に費やされていたのだ。「夕日は熟れ過ぎた鬼灯(ほおずき)の如く歪み」というような例を覚えている。明治の頃の名文には「~の如く」「~のような」が欠かせなかったのだろう。  俳句でも「如く俳句」の流行した時期があった。「玉の如き小春日和を授かりし」(松本たかし)のような名句は喝采を浴びたはずだが、低レベルの「如き」もたくさん詠まれていたという。やがて「如く俳句」を批判する声も出て、今は「あまり作らない方がいい」あたりに落ち着いているのではないか。  とはいえ「如く俳句」を悪いと決めつけることもない。要は読み手が「なるほど」とうなずいてくれればいいわけで、上掲句はそのレベルに達しているのではないか。掃かなくてはと思いながら、なかなか手をつけることが出来ない。掃き終えたら、また降って来る。残りの人生はこの作業に費やされるのか――。後期高齢者の落葉掃きは、身辺整理をするような思いに付きまとわれている。(恂)

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手の中の手の柔らかや落葉踏む       広上 正市

手の中の手の柔らかや落葉踏む       広上 正市 『合評会から』(日経俳句会) 庄一郎 手の中の手。幼児の小さな手でしょうね。実にうまい表現です。 光久 その通りですが、私はお祖父さんかお祖母さんが孫の手をすっぽりと握り、柔らかさを感じているのではないかと思いました。 てる夫 えっ、孫の手とは全然、思えない。私はもっと楽しい情景を思い描いていました。 水牛 老いらくの恋? というわけでもないかな。 恂之介 私は若い男女だと思いましたよ。 正市(作者) 若い女性と……いや、ま、孫です。孫ですよ。 てる夫 ちょっと邪悪な心が見えましたね。             *         *  誰がだれの手を握っているのか、人それぞれが想像を逞しくする。握る人は作者と決めがちだが、小説や映画の一場面とみたらどうか。作者も慌てて言葉を変える必要はない。(恂)

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落葉ふむ雀の足の小さきこと        横井 定利

落葉ふむ雀の足の小さきこと        横井 定利 『この一句』  「雀隠れ」という季語を思い出した。晩春になると雑草の丈が伸びてきて、雀を隠すほどになる。その時期の野や庭などの様子が「雀隠れ」なのだが、落葉の時期も同じようなことになりそうだ。落葉は二三日もすると茶色を増して行くので、雀にとって保護色のようになってしまう。落葉のなかでカサコソと音がするのでよく見たら、雀がチョンチョンと跳んでいたことがあった。  「落葉を踏む雀の足なんて、見えるのかなぁ」「マンションのベランダならよく見えるよ」。句会でそんな会話が聞こえた。そうなのか、と思った。庭などでは、落葉の中の雀の存在を辛うじて確認する程度だが、マンションのガラス越しなら、近くに寄ってくる雀をしっかりと見ることができるだろう。  雀の足が小さいのは誰でも知っていることだ。しかしそんな当たり前のことでもうまく句にすると、読み手が「本当にそうだよなぁ」と感心してしまうのが不思議なところ。ちっぽけな小鳥の健気さを教えてくれるからだろうか。「鶯の鳴くや小さき口明けて」(蕪村)という句もある。(恂)

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心地良き冬日の淡く布団干し   大平 睦子

心地良き冬日の淡く布団干し   大平 睦子 『この一句』  句会では「冬日と布団の季重なり」とか、「少しごちゃついている」といった注文がついた。たしかに季重ねであり、「心地良き」とか「淡く」とか冬日射しを愛でながら、「布団干し」という印象強い言葉を据えて、「冬日の句か、布団干しを詠んだ句か判らない」と言われるのもやむを得ないところがある。  しかしそうは言いながらも、この句は句会でかなりの人気を集めた。見たまま感じたままを詠んだところが共感を呼んだのだ。時雨や陰鬱な冬空の日々が続いた後にぱっと訪れたぽかぽか陽気。「今日こそ布団が干せる、冬物との総入れ替えができる」とはしゃぐ作者が見える。小春日の心地良さを素直に詠んでいるところが、天衣無縫の味を醸し出した。そんなところが人気の所以であろう。  俳人森澄雄は「僕は自然を詠んでいるのであって・・向こう側には季語が二つあっても不思議じゃない世界があるんです。たとえば、土筆が出てそこを遍路が通っている─というようなときには、向こうが季重ねなんだから・・」と言っている。冬日に布団を干したと詠んで何ら差し支えないのである。(水)

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塩鮭になほ塩振って老いを知る   大沢 反平

塩鮭になほ塩振って老いを知る   大沢 反平 『この一句』  句会では「老人の生態をよく掴んでいる。老人には甘塩鮭は物足りないんでしょうね」という感想があった。塩分摂取過多が忌み嫌われる昨今、塩鮭製造販売業者としては少しでも「減塩・甘塩」を謳って売上げを伸ばそうとする。しかし、これが折角の塩鮭の美味さを損ねているのだ。  辛くない塩鮭なんて本来はおかしい。きつい塩によって鮭の持つ旨味がより一層引き出されて来ることだってあるに違いない。そんな思いがあるから、焼いた塩鮭に塩を振ったりするのだ。「女房が台所に行った隙にささっと塩を振る。それがばれて怒られています」と作者は頭を掻いている。  しかしこの作者はまだいい。塩を振ったことを、「ああ、年取って味覚器官が衰えたせいかも知れないな」と分析しながら、自らの老いを噛みしめている。これがもっと進むと、塩を振っていることを忘れてしまい、一瓶全部振りかけてしまったりする。こういう俳句が詠めるうちはまだまだご安心というところである。(水)

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イケメンの世に塩鮭の面構   金指 正風

イケメンの世に塩鮭の面構   金指 正風 『合評会から』(酔吟会) てる夫 塩鮭も正面から見るとなかなかのイケメンですよ。面白い表現ですね。 二堂 アメ横へ行くともう塩鮭がつる下がっています。正に見得を切った強面の面構えです。イケメンといわれる軟弱な草食男子の世の中に、塩鮭はそれと対照的な面構えなんだと解釈しました。その対照をうまく表現しているなと思いました。 詠悟 南部鼻曲がり鮭はすごい形相で、しかし旨いですよね。      *     *     *  作者は「鮭の句には食物としての句が多いので、少し方向を変えてと思って作りました。世相と合わせて『面構え』が浮かびました」と言う。二堂さんや詠悟さんが言うように塩鮭の顔はじっと見つめると物凄い面構えだ。なよなよ男子全盛の今日この頃の街には決して見当たらない。しかしさらに見つめると、塩鮭はてる夫さんの言うように、なかなかのイケメンである。(水)

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悪友も次々と逝き酉の市   片野 涸魚

悪友も次々と逝き酉の市   片野 涸魚 『季のことば』  十一月の酉の日に鷲(大鳥)神社で行われる祭礼で、商売繁盛の神様として商家、飲食業、接客業などのいわゆる水商売の人たちに人気がある。今年は20日が二の酉で、台東区千束、新宿花園町、目黒をはじめ各地の鷲神社は例年通りごった返すだろう。  酉の市で売られるのが縁起物の熊手で、「福を掻き集める」「福を取り(酉)込む」という、実に分かり易い御利益をうたったお守りだ。熊手には宝船、七福神、おかめ、打ち出の小槌、鶴と亀、千両箱に大判小判と目出度い物がこれでもかとばかりにぶら下がっている。  お酉様は大概色街に近いところにあるところから、昔は悪友連れだって酉の市をひやかし、二三杯引っかけた勢いで悪所になだれ込むという一幕もあった。まあそれはともかく、十二月の超繁忙期を前に英気を養うイベントという趣のあるお祭りであった。「お互いにがんばろうぜ」と盃を上げ、肩を叩き合った仲間たちがもうずいぶん欠けてしまった。喪中葉書が次々に舞い込むのもこの時期である。(水)

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祭すんで川越の町冬はじめ         加沼 鬼一

祭すんで川越の町冬はじめ         加沼 鬼一 『この一句』  数年前、埼玉県川越市で電車を乗り換えた時、偶然「川越まつり」に出くわして仰天したことがある。私鉄の特急電車で四十分ほどのところに住みながら、これほど絢爛豪華な祭が行われているとは知らなかった。酒井・松平氏の城下町、江戸中期からの「小江戸」という別称は伊達ではない。  江戸の町には日枝神社の山王祭と神田明神の神田祭という二つの大祭があり、一年交代で江戸城への入場を許されていた。その「天下祭」の伝統を最もよく引き継いでいるのが川越まつりだという。毎年十月の後半に行われ、今年は二日間で百万人以上を集めたのだから、たいしたものである。  東京の西部地域に住む者にとって川越は長らく、さつま芋の名産地というイメージが強かった。戦後しばらくは川越に芋を買出しに行き、飢えをしのいでいた人も少なくなかった。その地に関東を代表するほどの祭が連綿として続けられていた。この祭に込める川越の人々の思いはいかほどのものか。祭を終えた後の満足感、安堵感、「冬はじめ」の季語に、そんな雰囲気を感じ取ることができる。(恂)

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新海苔に息災のふみ添へられて       岩沢 克恵

新海苔に息災のふみ添へられて       岩沢 克恵 『この一句』  新海苔が送られてきた。包みの中に「皆様、お変わりありませんか。私たち夫婦も御蔭さまで……」というような手紙が添えられていた、という句。一読、「ああ、いいなぁ」と思った。しかし、なぜ新海苔と息災の文がいいのか、と考えるとすぐに答えは出ない。親しい人の近況が、新海苔の香のように漂ってくるから、などと理屈をつけてみたが、どうだろうか。  句会では「被災地から送られてきたのではないか」という感想があって、「えっ」と思ってしまった。海苔と言えば浅草、と思う世代だから、現在のことを知らなかったのだ。はてな、東北も産地だったのかな、と調べたところ、宮城県松島湾で質のいい海苔が生産されていることを知った。  なるほど大震災、大津波の被災地からの贈り物とも考えられる。そうであれば訴える力が余計、強くなる。しかし産地を特定する必要はないかも知れない。いまでは有明海や瀬戸内海沿岸など多くの名産地があるという。この句から、人それぞれが「心の産地」の香を感じ取ればいいのだろう。(恂)

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葱一本孤独に添えて帰りけり       三好 六甫

ネギ一本孤独に添えて帰りけり       三好 六甫 『合評会』(番町喜楽会から) 冷峰 「孤独」が強すぎるかな、と思ったけれど、「一本」が効いていますね。私が葱を買って帰るとみんなが見るんです。自分のことが詠まれているような気がしました。 光迷 葱は普通三本だが、独り者だと一本でしょう。「孤独に」はよく分かりますね。 春陽子 葱一本は象徴的なものでしょう。「孤独に添えて」が、たまらなくいい。 而雲 そうですか。私は「孤独に添えて」がよく分からなかった。 水牛 私も別の表現がなかったかな、と思いましたが、皆さんの評を聞いていると面白い。 六甫(作者) この句を作って、分かる人と分からない人が半分ずつかな、と思っていました。而雲は分からない、春陽子は分かる。そんなところかと、踏んでいましたよ。 楓子 あのね、葱一本で全部分かるのよ。孤独とかへちまとか言わないで表現するのが俳句でしょ。 この後 「詠み過ぎだ」「いい句じゃないか」「分かっていないね」などの論争が続く。             *        *  「而雲」は筆者(恂)の俳号。「葱一本を我が孤独に添えて」なのか、と了解したのはしばらく後だった。(恂)

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