譲られて坐りし席や雲の峰 井上庄一郎

譲られて坐りし席や雲の峰   井上庄一郎 『季のことば』  今年の夏は暑かった、と過去形で言うことはない。今日から9月だというのにまだ夏が居座わっている。「雲の峰」、即ち入道雲、気象用語でいう積乱雲は夏の季語だが、今年ばかりは立秋からかれこれひと月たとうとしているのに、未だに水平線の彼方に盛んに湧き上がっている。  入道雲は昭和時代の子供にとっては夏休みの象徴のようなものであった。この雄大な雲の峰を背に、泳いだり、駆けっこしたり、トンボ釣りをしたりした。大人にとっては、これを仰いで汗をぬぐい、やがて降って来る夕立を思い、その後の涼風と「枝豆で一杯」てなことを考えるよすがともなっていた。しかし、最近は入道雲は遠い存在になり、時たま霰や竜巻をもたらすいまわしいイメージがつきまとうようになった。そうなってしまったのは、ビルが建て込んで、入道雲の立つ遠くの海も地平も見えなくなってしまったからに違いない。  電車でめずらしく席を譲られた。坐って向側の窓越しを眺めると、ビルの切れ目に入道雲が見える。つくずく懐かしいものに巡り会った気がした。(水)

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