蜩や合せ鏡の中の顔   高橋 楓子

蜩や合せ鏡の中の顔   高橋 楓子 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 取り合わせがうまい。蜩は物思わせる生き物です。合せ鏡を見ていますとね、遠くでしきりにカナカナカナと鳴く、昔を思い出しているのかどうか・・、いろいろ考えさせますねえ。 塘外 何しろ残暑ですから汗かいてお化粧の乗りも悪いんでしょうか、合せ鏡をにらんで、外には蜩が鳴く夕まぐれという、風景がよく見える句です。 春陽子 映画「女が階段を上る時」を思い出しましたね。雰囲気あるなあ。           *  作者は真面目なキャリアウーマンだが、時々こういう句を句会に出して不良老年の反応をうかがう茶目っ気がある。この三人もまんまと引っかかった。と言うのは半分冗談で、句自体とても良く出来てをり、三人が褒めそやすのも頷ける。合せ鏡というのは自分を客観視する働きを持つのだろう。蜩がバックグラウンドミュージックのように鳴き続けていて、この主人公の想念はとめどなく広がってゆく。(水)

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かなかなや疎開の寺の混ぜご飯   井上 啓一

かなかなや疎開の寺の混ぜご飯   井上 啓一 『この一句』  太平洋戦争末期、大都市の国民学校児童を空襲から守るために地方の農山村に集団で疎開させた。受入れ施設には主としてお寺や旅館が充てられた。疎開させられたのは3年生以上だった。当時の子どもたちは精神的には早熟だったが肉体的には栄養不良でひ弱な子が多く、1、2年生で親元から引き離すのは無理と判断されたのだろう。  学童疎開の子どもたちは、始めのうちこそ気が張っていて勇ましいが、しばらくすると家が恋しくなって、夜間消灯後にめそめそするのが出て来る。陰湿ないじめもある。引率教師の中に時には変なのがいて、6年女生徒の身体検査をしつこくやって戦後問題になったこともある。  唯一の楽しみは食事時間。「混ぜご飯」と言っても今日の五目寿司とかかやくご飯などではない。米不足を補うために豆粕、芋、大根などを入れた妙な臭いのする飯だ。それを疎開児童たちは懸命に掻っ込んだ。この時ばかりは喋り声すらしない。かなかなの声が静かな本堂にしみ通る。「無条件降伏」の玉音放送が流れるまで、あと数日である。(水)

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朴の葉の日影は広しバスを待つ   澤井 二堂

朴の葉の日影は広しバスを待つ   澤井 二堂 『季のことば』  日陰(日影、日蔭)はお日様が照ってさえいれば、何かそれを遮るものの下には必ず出来る。だから一年中日影はあり、何も夏場に限ったことではない。それなのに俳句では「夏の季語」になっている。何故か。それは夏こそ日影を最も好ましいと感じるからである。「涼し」を、実際に涼しくなってくる秋の季語とせずに、夏のものとするのと同じ気持であろう。  夏の太陽が西に傾き始める午後二時、三時頃、気温は最も高くなり、地面は照り返しで火を噴くようだ。そんな時、道の西側には家や塀や木の陰で黒々とした帯ができる。歩行者は吸い寄せられるようにその陰の中に入って少しほっとした表情を浮かべる。これが「片蔭(かたかげ)」。単に「日陰」というよりなんとなく俳句らしい感じがするので、この季語の方が人気がある。  この句はあの大きな葉の朴の木陰だというから、ずいぶん頼もしい日影である。道の脇に朴の大木があるとはずいぶん贅沢な、多分、山村のバス停だろう。これなら涼風になぶられながら一時間くらい待たされても怒らないだろう。(水)

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さんま焼き尾頭に分け夫婦たり   今泉恂之介

さんま焼き尾頭に分け夫婦たり   今泉恂之介 『この一句』  熟年夫婦二人だけの夕食風景である。頭の方半分は自分、尾の方はカミさん。旨味の濃い上半分を取るからといって、何も亭主関白を気取っているわけではない。我が糟糠の妻は魚を食べるのがあまり上手ではないので、どうしても食べやすいしっぽの方を好む。長年の習慣で、自然にそういう配分になった。  昔はもちろんそれぞれの皿に一匹づつ乗っていた。それがいつの頃からか夫婦で半分ずつ分けるようになった。昔の台所では秋刀魚をもうもうと焼いた。近頃の機密性の高いキッチンではそうはいかない。備え付けの上品で小ぶりなグリルで焼く。長い秋刀魚も無理すれば入るが、やはり半分に切った方が焼きやすい。といった調理上の都合もあるのだが、なんと言っても、二人とも脂のきつい秋刀魚は半分で沢山という気分になってきたことが大きい。  下半身のないサンマをつつきながら亭主はあれこれ考える。これが年取ったということかなあ、でもまあお互いに大過なくやって来られて、こうしてのんびりしていられるのが何よりと言うべきなんだろうなあ・・・。(水)

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さんま食ふ器用不器用おのづから   金指 正風

さんま食ふ器用不器用おのづから   金指 正風 『合評会から』(酔吟会) 涸魚 サンマは骨が多くて、若い人はもうあんまり食べないんじゃないかな。それを器用な人は上手な箸使いできれいに食べる。僕なんかあまり上手くないもんだから・・。まあそんなところをうまいこと詠んでありますなあ。 二堂 女房が不器用でいいとこだけ食べて、ちらかしちゃって・・。私は器用な方ですから、そういうちらかったのも食べてたりして(大笑い)、これはまあ我が家の秋刀魚食べてるとこみたいです。 てる夫 秋刀魚もいろいろあるようで、新鮮なやつは身離れが悪いんですかね、なかなかむしり難いのがある。こないだ食べたのは冷凍ものなのか、ぱらっと片身がはずれましたが、そんなこと思い出しながら、面白い句だなと・・。           *  一番旨いワタのある腹の部分は確かにに小骨が多い。近頃それを嫌う人が増えて、秋刀魚の夕食後は残り滓が大量に出る。作者は「器用不器用」というフレーズを思いついて出来たと思ったと言う。まさにそうだ。(水)

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蜩に後期高齢共振す          前島 厳水

蜩に後期高齢共振す          前島 厳水 『この一句』  「今までは人のことだと思ふたに」。後期高齢者になる手続きが、こんなに厄介なものだとは思わなかった。「とても面倒臭い」「本当に頭にくる」。先輩の文句を何度も聞いていたが、オレのことは「これはたまらん」と言いたくなる。何も悪いことをしていないのに、なぜこんな面倒を強いられるのか。  七十五歳になると健康保険料の天引きが振込に変わり、銀行引落に変更する手続きが何とも煩わしい。ようやく手続きを終えたと思ったら、区役所から「それは奥さんの分だけです」という指摘を受けた。何で? と首を傾げるほかはない。お知らせの紙を見たら「手続きはとても簡単」と書いてあった。  蜩(ヒグラシ)が「カナ、カナ、カナ」鳴く。頭の中で「後期高齢、後期高齢」と共振する。国や自治体の手際の悪さに、後期高齢に関するあらゆることが、こんな形で反応するようになった。一句に込めた作者の意図は別のものかも知れない。しかし私はこの句を借りて、言いたいことを言うことにした。最近はツクツクボウシが鳴いても「後期高齢、後期高齢」と共振している。(恂)

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朝顔や早起き苦もなし得もなし    杉山 智宥

朝顔や早起き苦もなし得もなし    杉山 智宥 『この一句』  若いころ、早起きは何であんなに辛かったのだろう。目覚ましが鳴ると、必死で起きなければならなかった。学校に遅れる、の年代が終われば、会社に遅れる、となり、朝、定時に起きることが人生の苦行の第一と思っていた。これを一週間のうち五日は続けて、日曜日の朝はこんこんと眠る。  小学校の頃から母親に「早起きは三文の得」と言われ続けていた。夏休みくらい、ゆっくり寝ていたいのに、「ラジオ体操に行きなさい」と起こされる。「三文の得なんていらないよ」とふてくされ、目をこすりながら運動靴を履いて出かける。あんな日々はもう、どこかへ消えてしまった。  定年退職となり、自由な時間を存分に得たとたん、不思議なことに何の苦もなく早起きができるようになった。それどころか布団の中に長くいることが辛くさえなってきた。やむなく起きて、朝顔に水をやったりしている……。こんな状況を考えながら一句を読み直してみると、ユーモアの中にそこはかとないほろ苦さを感じてしまう。俳諧味とはこのようなものを言うのだろうか。(恂)

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朝顔のまだ見ぬ色に水をやる    佐々木 碩

朝顔のまだ見ぬ色に水をやる    佐々木 碩    『合評会から』(日経俳句会) 正 水をやりながら、どんな色が出るのかな、と期待を込めたところですね。 正裕 朝顔の色は植えた時から大体、分かっているんですが(笑い)。でもロマンですね。楽しみにしている気持ちがよく出ているなと思いました。 淳 朝顔に水をやる、というのは当たり前ですが、「まだ見ぬ色」がかっこいい。 臣弘 分かりやすい句だけれど、出来すぎというか、ちょっとわざとらしくないですか。 水牛 つぼみで何色か分かっちゃうし、むずかしいところです。 青水 種袋の写真で想像できますね。でも水をやり、育てているときは、生命の神秘を感じざるを得ない。               *         *  朝顔の「まだ見ぬ色」、その色に「水をやる」という表現に議論が集まった。わざとらしさを感じた人もいた。しかし、うまく詠んだものだ、と思う。どんな色に咲くか、予想はついていても、やはり気になってしまう。実際の色を見るまでは、まだ見ぬ色なのだ。(恂)

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朝顔や今日はきのふの繰り返し      大澤 水牛

朝顔や今日はきのふの繰り返し      大澤 水牛 『この一句』  今日は昨日の繰り返し――。言われてみれば、頷くほかはない。生まれてこの方、学校に通うのも、会社に出かけるのも、おおよそは同じことの繰り返しだった。特に定年退職後がそうだ。旅行に行き、俳句会に出かける、ということはあっても、我々は基本的に同じことを繰り返しながら生きている。  すべて日常的な無意識の行動だから、普段はあまり意識しない。ところがふとしたはずみに、この句のような、人生の基本的な問題に考えが及んで行く。では、どんな時に考えるのか? 朝顔を見る時にだと、この句は言う。朝顔は毎朝咲き、昼には萎み、夕方には新しい蕾が長く伸びている。今日も明日も明後日も、まるで我々の生活に添うように、咲いたり、萎んだりを繰り返すのだ。  槿(むくげ)や野萱草(のかんぞう)など、朝咲いて夕方に萎む一日花は少なくないが、朝顔とは特別に親しい関係にある。種や苗から育てることにも関係があるだろうか。「おお、咲いたか」「明日はもっと咲きそうだ」。うんざりするような繰り返しではない。平穏にして幸せな繰り返しなのである。(恂)

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譲られて坐りし席や雲の峰 井上庄一郎

譲られて坐りし席や雲の峰   井上庄一郎 『季のことば』  今年の夏は暑かった、と過去形で言うことはない。今日から9月だというのにまだ夏が居座わっている。「雲の峰」、即ち入道雲、気象用語でいう積乱雲は夏の季語だが、今年ばかりは立秋からかれこれひと月たとうとしているのに、未だに水平線の彼方に盛んに湧き上がっている。  入道雲は昭和時代の子供にとっては夏休みの象徴のようなものであった。この雄大な雲の峰を背に、泳いだり、駆けっこしたり、トンボ釣りをしたりした。大人にとっては、これを仰いで汗をぬぐい、やがて降って来る夕立を思い、その後の涼風と「枝豆で一杯」てなことを考えるよすがともなっていた。しかし、最近は入道雲は遠い存在になり、時たま霰や竜巻をもたらすいまわしいイメージがつきまとうようになった。そうなってしまったのは、ビルが建て込んで、入道雲の立つ遠くの海も地平も見えなくなってしまったからに違いない。  電車でめずらしく席を譲られた。坐って向側の窓越しを眺めると、ビルの切れ目に入道雲が見える。つくずく懐かしいものに巡り会った気がした。(水)

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