谷あひの所を得たり蕎麦の花      堤 てる夫

谷あひの所を得たり蕎麦の花      堤 てる夫 『この一句』  このところ蕎麦の花を見ることが多くなった。列車や車に乗っている時、「あっ、蕎麦の畑だ。きれいだな」と思うのだが、何となくしっくりこない。黄金色に稔った田の一角に、四角く切り取った蕎麦畑を見ていて、あ、そうだったのか、と気づく。目にしている多くの蕎麦畑は休耕田だったのだ。  政府の減反政策によってどれくらいの休耕田が生まれているのか、正確には分からないが、蕎麦畑がその一端を表していることは確かだろう。この政策の是非は問わない。使わない田んぼを蕎麦畑に利用するのは大いに結構、と言うほかはない。句会の兼題に「蕎麦の花」が出たときなどに、気軽に見に行くことができる。地元産の蕎麦粉を用いた蕎麦にもありつく機会も多くなるのだろう。  とはいえ、蕎麦は痩せた土地の作物、というイメージが出来上がっている。山畑に広がる白い花は、その土地の象徴とも言えよう。「蕎麦の花」という季語は、われわれが代々受け継いできた思いとしっかり結びついているのだ。「谷あいの所を得たり」。まさにその通り、うまいこと言うなぁ、と思う。(恂)

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幸せやたくあんで食ふ今年米   大倉悌志郎

幸せやたくあんで食ふ今年米   大倉悌志郎 『この一句』  「新米」が兼題の句会には、当然のことだが新米そのものを描写した句や収穫の様子をうたったものの他に、新米をどう食べるかという句がたくさん出た。掲出句の他にも「新米に沢庵一つあとはお茶 明美」「新米や糠漬け味噌汁生たまご 青水」「くぼませて卵をのせて今年米 佳子」「新米を卵一つで二杯ほど 光迷」「新米に鯛一匹を炊き込めり 碩」と楽しい句が賑やかに並んだ。  豪勢な鯛飯はさておき、沢庵、卵かけご飯というのが多い。やはり、新米を味わうには、シンプルな「メシ」の象徴とも言うべき沢庵と生卵に落ち着くらしい。個人的な好みを言うと、実は卵かけご飯が大好きで、それに海苔と沢庵と味噌汁があると極楽極楽という気分になるのだが、新米の良さを感じるには役者が多すぎる。やはりこの句の作者のように、沢庵だけが正解かも知れない。  心底もう多くは望まない年である。真っ白に輝く新米ご飯と沢庵の二切れ三切れ。それで十分満足である。(水)

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新米の湯気を吸ひ込む朝餉かな   来間 紘

新米の湯気を吸ひ込む朝餉かな   来間 紘 『この一句』  新米は実に美味しい。越後魚沼のコシヒカリ特等などという目の玉が飛び出るほどの高値のものでなくとも、獲れたてで精米したての新米はどこ産であろうと美味しい。この句はその感激を素直に、具体的に詠んで、読者の共感を呼ぶ。しかも新米御飯を食べる前を詠んで、わくわく感じている様子を伝えたところがいい。  朝食の膳に向かい、茶碗にご飯をよそってもらう。湯気が顔に当たる。なんともいい香りではないか。女房殿が「新米よ」とのたまう。そうなのか、もうその季節なんだな、そう言えば大通りのスーパーの店頭に新米の幟が立っていたのを思い出した。季節の移ろいを感じるきっかけがなかなか掴めない東京で、「新米」は数少ない秋を告げる役者である。  とにかく、良い香りを十分に楽しみ、一口含む。噛むと口中に甘味が広がる。このところしきりに老いを意識するようになったのだが、これでなんとなくまた力が湧いて来るような気がしてきた。(水)

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居待月夫の靴音猫の声   大下 綾子

居待月夫の靴音猫の声   大下 綾子 『この一句』  居待月が既に中天にかかっている。もう夜もだいぶ更けた。聞き慣れた靴音が響いて来る。このところ残業で毎晩遅いのだが、靴音は乱れてもおらず、しっかりしているのでひとまずほっとする。それより早く、うずくまっていた猫がぱっと起きるや、ミャアと鳴いて戸口に向かって駆けだした。「私がお使いから帰ってきても知らんぷりしているくせに」とおかしくなってしまう。  猫は本当に身勝手だ。犬のようにお愛想など絶対に振りまかない。自分の好きなままに振る舞う。猫好きはそこがまたいいと言う。取り立てて猫好きというのではないが、自然に振る舞うところはいいなと思う。  自分のことを本当に好いてくれて、守ってくれる人は誰なのか、猫はちゃんと知っている。この男がボスであり、自分を可愛がってくれることが分かっている。だからこちらも懸命に親愛の情を伝えとかなければならない。ドアを開けて入って来るやミャアと言いながら身体をこすりつける。ご主人も猫なで声で応じる。私も遅ればせながら立ち上がる。夫婦と猫一匹、世は事も無し。(水)

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悠然と勝碁確かめ居待月   高石 昌魚

悠然と勝碁確かめ居待月   高石 昌魚 『この一句』  碁のうまい人がこんな句は詠まない。詠んだら嫌味なだけである。いつもいつもやられて悔しがってばかりいるのに、碁が好きで好きで・・古典落語「笠碁」の主人公のような人に違いない。  今夜は前々から目をつけていた、なんとか勝てそうな相手をいろいろな理由をくっつけて自宅の晩御飯に招いた。一杯飲ませ、さあさあと一局始めた。もちろん自分はあまり飲まぬよう我慢している。  細工は流々、苦心の甲斐あって、どうやら大勝利疑いなしだ。どこかに見落としは無いだろうか。うっかり見落としたのがもとで大逆転を喫し、眠れぬ夜を過ごしたことなど数知れず。入念の上にも念入りに、盤面隅々までじっくり確かめる。  もう大丈夫だ。相手は苦悶の表情。溜息なんかついてる。いつもとは正反対。まあ何といい気持なんだろ。こぼれる笑みをぐっと堪えて仰向く。時あたかもガラス窓から居待月が顔のぞかせた。こんな美しい月は見たことがないなあ・・。(水)

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来ぬ人やミッドタウンの居待月   流合研士郎

来ぬ人やミッドタウンの居待月   流合研士郎 『季のことば』  居待月は旧暦八月十八日の月で、今年は10月3日。中秋の名月から三日後だから、月の出は十五夜お月さんに比べると一時間半ばかり遅れ、しかも右下が欠け始めてちょっと寂しい。  旧暦時代の時刻は不定時法と言って、日の出から日の入りまでを「昼」とし、日没から日の出までを「夜」としてそれぞれを6等分して「一刻」とした。春分、秋分頃は現在と同じく昼夜各十二時間、一刻は二時間だが、冬至の頃は昼の一刻はとても短く一時間半少々、夜の一刻は二時間半近くになる。夏至はその逆で昼がとても長い。とにかく、夜が明ければ明六つの鐘が鳴り一日が始まり、日が暮れると暮六つの鐘で夜になる。  だから昔の人は早じまい。居待月の頃など、今の時計で言えば5時頃には夕飯を終えている。7時頃にようやく上がって来る居待月は、やはり坐って待つ(居待ち)ことになるわけだ。現代のデートは残業を断って駆けつけるにしても6時過ぎか。作者は居待月が高く上がってもまだ待たされている。高層ビルにかかる月を眺めるにつけ、あれこれ心配が頭をもたげてくる。(水)

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居待月去年と同じ飲み薬        横井 定利

居待月去年と同じ飲み薬        横井 定利 『合評会から』(日経俳句会) 正裕 飲み薬を見て、去年と同じだな、と思う感じが、何となく居待月(いまちづき)に合っていますね。 智宥 病状は良くなっていないけれど、悪くもなっていないんでしょう。これもご老人のちょっとした幸せなのかな。ただ名月でも、立待月(たちまちづき)でもこの句は成立するかな、とは思いますね。 恂之介 これ、病気のマンネリなんですよ。よくも悪くもならない。そんな感じが居待月ですよ。 てる夫 そうですね。名月を眺めている句ではない。お医者さんはどう考えますか。 好夫(医師) 同じ薬出して、今年も同じだなぁ、と思う。居待月と薬の微妙な関係、上手いですね。 水牛 私は二十五年間、同じ薬だが。              *           *  十五夜の後、月は少しずつ欠けながら、月の出もすこしずつ遅くなって行くので、十八夜の月は「居て(座って)待つ月」。そんな月と去年と同じ飲み薬にどんな関連が? と頭を傾げているうちに、何となく雰囲気が合うように思えてくるのでは…。俳句の不思議の一つである。(恂)

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野分晴れひたと墨打つ宮大工      玉田春陽子

野分晴れひたと墨打つ宮大工      玉田春陽子 『この一句』  かつて大工さんの技は少年たちの興味の的であった。鉋(かんな)をかけ、鋸(のこぎり)をひき、鑿(のみ)を打つ。一つ一つの道具を正確に扱い、大仕事をやり遂げて行く過程にも目を見張ったものだ。プレカット工法が全盛になったいま、あのような技はもうほとんど見ることはできない。  しかし宮大工は、さらに古い伝統的な技法をしっかりと守り、巨大な寺院、神社などを作り上げている。その技は我々の目には届かないが、実見すれば心が躍るだろう。そうだ、墨を一直線に引くあの技も。墨壺から糸を引いて材木の端に止め、糸を少し持ち上げて軽くはじく。あのオノマトペ(擬音語)を、この句は「ひた」と表現した。ああ、いいなぁ、と思う。少年時代の心のときめき甦って来る。  野分晴れの朝、宮大工が働き始めた。昨夜は強風が吹き荒れていたが、現場に何ら支障は起きていない。いい一日に技を振るう喜びを、彼は存分に感じているのだろう。鉋をかけた終えたばかりの真っ白な材木に墨を打つ。糸が小さく鳴る。朝の光の中、飛び散る墨の微粒子さえ目に見えている。(恂)

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野分過ぐ気うつ薄紙はぐやうに     山口斗詩子

野分過ぐ気うつ薄紙はぐやうに     山口斗詩子 『季のことば』  秋になると台風は北上するにつれて右に(東に)曲がり、日本列島をかすめて太平洋上を北東に去って行く。これが「台風一過」で、古い言葉なら「野分過ぐ」。こうなると北の高気圧が張り出して、爽やかな秋の日々になっていく。人の健康や気分にも当然、いい影響を及ぼすことになるだろう。  作者は毎年、春になると「気鬱」という「年中行事」が始まるという。夏は忍の一字でやり過ごし、ひたすら秋の到来を待つ。では、気分転換のきっかけは? もちろん台風一過である。それからというものは薄紙をはぐように気分がよくなり、いよいよ「私の季節」の到来となるのだ。  このところ台風のコースがおかしい。いままでの常識と違って台風は九州の西側をかすめ、朝鮮半島の方に進んでいく。日本列島の東南洋上に夏の高気圧が頑張っているからで、そのため暑さは一向に衰えを見せず、冷房がないと寝られないような日が続いている。関東方面に台風の影響は及ばないが、その代わり「野分過ぐ」ともならない。作者の気鬱はどうなのだろう。ちょっと心配である。(恂)

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蜩の尾瀬を渡りて風となり       高瀬 大虫

蜩の尾瀬を渡りて風となり       高瀬 大虫 『この一句』  尾瀬と言われて思い浮かぶのは水芭蕉、木道、湿原、尾瀬沼、燧ケ岳、至仏山――。水芭蕉がとうに咲き終わり、葉がびっくりするほど巨大になっても、その魅力が失われることはない。爽やかな風、澄んだ沼の水、全天を覆うほどの鰯雲。ハイカーの少なくなる秋が最も尾瀬らしい、と言う人もいる。  今は蜩(ひぐらし)も鳴いているのだろう。この句、尾瀬を渡るというのは、蜩が飛んでいることではない。鳴き声が渡って行くのである。木道を歩いている時に周囲の林から、蜩の声が聞こえてきた。声はもちろん途中で消えてしまう。それを「風となり」と表現したところが上手い。  尾瀬は尾瀬沼と湿原を中心にした広大な盆地である。いくつかあるハイキングコースの距離はそれぞれ二〇キロくらいあるだろう。複線の木道が延々と続いており、登山靴で踏んでいく感触がまことに心地いい。しかし、と思う。木道の整備などは、尾瀬の何割かを管理している東京電力を中心に行われてきた。この先、どうなっていくの「カナ、カナ、カナ」と蜩が鳴いている。(恂)

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