若葉風追ふ子逃げる子眺める子  高石 昌魚

若葉風追ふ子逃げる子眺める子  高石 昌魚 『合評会から』(日経合同句会) 庄一郎 三人の子供の様子をうまく詠んでいる。公園でしょうね。若葉風がよく似合っています。 智宥 三題噺のように調子よく、すいすい、と行きましたね。選んだあとで、ドリフターズの、よい子、悪い子、普通の子、というのがあったのを思い出しました(笑)。 光久 いい風の吹く季節ですね。子どもたちの走り回る情景が浮かんでくる。 実千代 「子」を連ねたことで強く心に響くのでしょうか。目を閉じると、ほのぼのとした情景が浮かびます。 操 そうですね。子供たちの息づかいが伝わってきます。 水牛 確かに調子がいい。ちょっと作り過ぎかな、と思いましたが。 昌魚(作者) これ、実景なんです。川口の西口の公園で、小さい子供たちが追いかけごっこをしていた。その中で一人、きょとんとしている子がいまして、興味深かった。             *           *  テレビの幼児体操では、何もせずぼんやりしている子供が画面の主役。なぜか注目してしまう。(恂)

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若葉雨チェロ抱き走る芸大生     澤井 二堂

若葉雨チェロ抱き走る芸大生     澤井 二堂 『この一句』  面白い場面を捉えている。句の主人公は芸大生なのだから、場所は明らかに上野の山である。樹木が立ち並び、ちょうど若葉の季節。急に雨が降って来たのだろう。音大生が大切な楽器を抱えて、走っている。気になるのがチェロのサイズと重さだ。調べてもはっきりした数字は分からなかったが、ケース入りでもあり、それなりのものだ。全速力で走るのは難しいかも知れない。  句会で私がこの句を選んだのは、大きな楽器を抱えて走っている様子が頭に浮かんだからである。しかし「走る」という語にしっくりこない面も残っていた。走れないとか、走りにくそうだ、というのではない。「走らない」方が若葉雨という季語によく合うのではないか、と思ったのだ。  「チェロ抱いて行く」としたらどうか、と私は提案した。しかし「走る、だからいい」という意見が出た。その方が確かに句に動きが出るし、パンチ力も増す。「そうかも知れない」と思ったが、完全に得心したわけではない。「走る」か「走らない」か。この文を書きながらまだ考えている。(恂)

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そり返る体操の空青若葉     大石 柏人

そり返る体操の空青若葉     大石 柏人 『合評会』(日経句会合同句会) てる夫 読んでその通りの句ですね。空を見るくらい反り返るのだから、小学生か中学生か。 佳子 「体操の空」は変わった表現ですが、初夏のすがすがしさが伝わってきます。 睦子 鉄棒で逆上がりして青空を見た、という句がありましたが、それに似て気持ちのいい句です。 水牛 「青若葉」という言葉がちょっと気になるな。 二堂 これ、ラジオ体操でしょう。ラジオ体操の会はほとんど年寄りですね。「大空に胸を開け」という歌を歌って体操を始めますが、みんな老人で体が硬いから、なかなか空が見えない。 冷峰 ぼくはラジオ体操の指導員やっています。反り返る時は「膝を曲げないように」と注意することになっていましてね。膝を曲げると体操の効果がなくなるんですよ。 水牛 年寄りが頑張り過ぎて、ひっくり返らないかな。             *         *  作者は地域のラジオ体操の会を立ち上げ、その後も世話人を続けている。自作のカードを会員に配り、そこに「今日も元気」というハンコを捺す。会員の平均年齢は75歳だそうである。(恂)

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短夜やナースしづかに来ては去り      吉野 光久

短夜やナースしづかに来ては去り      吉野 光久 『この一句』  やっぱりそうなのだ、と思った。入院すると一日中、横になっているので、何度も昼寝をしてしまう。その結果、夜になっても眠くならず、一晩中うつらうつらしている。そういう時、俳句をやっていて本当によかった、と思う。俳句がなければ、朝を待ち続ける夜を繰り返していただろう。  考える時間だけは十分にある。一句浮かべば、あれこれ推敲を繰り返しているうちに一時間くらいすぐに経ってしまう。この句も存分に練り上げた成果だと思う。看護婦ではなく、ナースに。静かに、を仮名書きに。来ては去る、ではなく、来ては去り、に……。実際にこのように考えたかどうか分からないが、ともかく隙のない句が出来上がった。私は短夜の名句である、と思っている。  この句は日経三句会・合同句会の最高点句。三十六人中、十八人がこの句を選んだのだから凄い。二位は9点句だからちょうどダブルスコアである。ちなみに二位の「桐咲くやもののふ駈けし切通」もこの人の作だった。かつての「療養俳句」のように、「入院俳句」という言葉を使ってみたくなった。(恂)

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短夜やジャズの音止まず六本木   流合研士郎

短夜やジャズの音止まず六本木   流合研士郎 『この一句』  洒落た感じである。昭和初年のモボ・モガの遊弋していた頃の雰囲気もうかがえると同時に、昨日今日の気分も漂う。もちろん作者は若いから、今のことを詠んでいるに違いないのだが、老年読者には懐かしき思い出を掻き立てる句とも受け取れるのだ。  六本木という町は不思議な雰囲気を漂わせている。赤坂と渋谷にはさまれた山の尾根のような地形で、屋敷町かと思えば洒落たブティックがあり、レストラン、バーがあり、外国企業の出先オフイスなどもある。もちろん新開発の超高層マンションとショッピングセンターを備えたエリアもあれば、美術館もある。知る人ぞ知るといったマンションの一角のクラブも数多あり、テレビや週刊誌に取りざたされる連中が出入りし、その取り巻きたちが入り交じる。  表通りは極めて健康的かつあっけらかんとした繁華街で、裏をごちょごちょ辿るといろいろと・・といった、アバンチュールを楽しみたい連中にはなんとも言えない魅力を発散する街。そこに物憂いブルースが夜っぴて流れる。(水)

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生り年の力まざまざ柿若葉   藤村 詠悟

生り年の力まざまざ柿若葉   藤村 詠悟 『この一句』  若葉は美しいが、中でも柿の若葉は本当にほれぼれする美しさだ。四月、枝先の新芽が開いて小さな葉が現れる。黄緑色の新葉は淡い緑になり、日を追って大きくなりながら緑を濃くして行く。五月から六月にかけての若葉はもうすっかり大きく、夏の陽を受けて力強く光り輝いている。  柿や栗やミカン類には生り年と不生り年(裏年)がある。枝もたわわに実った翌年は少ししか生らない。一年交替で豊作と不作を繰り返す。これは花を咲かす芽(花芽)が枝の内部に生まれる時期が、柿やミカンの場合、果実の生長する最中に始まるせいなのだという。あまりにも沢山の実をつけると、そちらに栄養を取られてしまい、花芽がよく出来ない。そのため豊作の翌年は不作になるのだ。  「今年は生り年だ。ほら見てごらん、若葉まで元気一杯じゃないか」。梅雨晴れの庭を眺めながら作者はにこにこ顔だ。(水)

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卯の花が人待顔の木戸の奥   岡田 臣弘

卯の花が人待顔の木戸の奥   岡田 臣弘 『季のことば』  この句を見た時、すぐに落語「笠碁」を思い出した。大店の主人でヘボ碁同士の二人が「待った」「待てない」のやり取りから、「もうお前のようなヘボとは金輪際打たない」「それはこっちのセリフだ」と喧嘩別れ。しかし二日もすると会いたくてたまらない。今日こそ来るかと碁盤を縁先に持ち出して待っていると、雨の中、笠をかぶってやって来た。「やい、ヘボ」「ヘボとはなんだ」「ヘボをヘボと言って何が悪い。くやしいならここへ来て勝負しろ」「おう、しないでおくものか」とたちまち元通りの熱戦開始。何としたこと、碁盤に雨粒がぽたぽた。気が急くあまり笠をぬぐのも忘れていたというオチ。  卯の花は卯月(陰暦四月)の花。今のカレンダーで言うと五月から六月にかけてが卯月。紫陽花より少し早く、垣根や植え込みなどに咲く。直径1センチほどの白い五弁の花が枝先にたくさんついているが、それほど賑やかではなく、ひっそりとした感じである。この頃「走り梅雨」とも呼ぶ雨がよく降る。雨中の無聊をかこち人待顔になる気分を言うのに卯の花は格好の役者である。(水)

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駅舎に巣頬をかすめて夏つばめ   高井 百子

駅舎に巣頬をかすめて夏つばめ   高井 百子 『季のことば』  燕は春の季語になっている。四月、南方からやって来て人家の軒下に巣をかけ子育てし、秋になると子ども共々南国に帰って行く。燕が忙しげに飛ぶようになると人々は春を実感する。  しかし、燕が本当に忙しくなるのは五月、六月である。孵った雛がしきりに餌をせがむ。親燕は休む間がない。縦横無尽に大空を飛び回り虫を捕らえ、巣に戻って雛に与える。だから「夏燕」こそ燕の面目躍如たる姿なのだ。  昔は商店街の大きな店の軒先には申し合わせたように燕が巣をかけたのだが、最近はどこも鉄筋コンクリートの庇の無いのっぺらぼうの建物になってしまった。人間が「住宅」を建てて定住生活を営むようになって以来、その軒端を借りるという暗黙の契約に基づいて生活パターンを形作ってきた燕にとっては、軒の無い家を造るなどは裏切りの最たるものである。しかたがない、少々騒々しいが駅舎に巣を構える。この建物に出入りする人間は子育て最中の燕と同じように忙しない。(水)

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振り塩の腕高々と土用鮎          岩沢 克恵

振り塩の腕高々と土用鮎          岩沢 克恵 「この一句」  土用鮎とは鮎が最も成熟し、独特の香りも高くなる夏の土用の頃の鮎のこと。句会でこの句を見た時、土用の句は少々早いかな、と思ったが、鮎となると事情が違ってくるらしい。九州など南の方の鮎は、六月の末にサイズも味も最高の状態になり、それをも含めて土用鮎と呼ぶのだそうである。  解禁の頃の鮎はせいぜい十五センチくらいだろうか。それが土用鮎となると二十センチを超え、二十五センチにも達するという。それに天然のアユは岩についた苔を十分に食しており、香魚の名に恥じない香りを発している。大きい上に、味も上々なのだ。  この句の鮎、もちろん養殖物ではない。そう言い切れる根拠は「腕高々と」にある。もし養殖物だったら、板前はこんな大げさな動作をするだろうか。塩は高いところから振ればそれだけ広く撒くことができる。しかし単に大きな鮎だから、腕を高くしているのではない。素晴らしい鮎だ、最高の味を客に味わってもらいたい、という職人の気合いが、この語に、その動作に表れているのである。(恂)

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碁会所に少年多し麦の秋         野田 冷峰

碁会所に少年多し麦の秋         野田 冷峰 『合評会から』(番町喜楽会) 佳子 初夏に成熟するという麦の特性を、碁会所の少年の中に見たのでしょうか。麦の秋と早熟な少年と重ねたところがいいと思います。 何人か ははぁ、そういう見方もありますか。 而雲 この句の碁会所は麦畑が背景にあってもいいし、なくてもいいかも知れない。 楓子 麦の秋と碁会所。少年たちが賢そうに見えます。         *            *  囲碁はチェスや将棋よりずっと複雑なゲームで、思考力に好影響を与える。そのため東大、早大、慶大などでは囲碁で単位が取得でき、小学校でも囲碁の授業が行われているという(日経新聞6月13日夕刊より)。  新聞の記事によって分かった。この句はごく最近の風景を描いているのだ。碁会所というと老人の集会所のような感じだが、このところ様子が変わってきているのだろう。「碁会所の少年が賢そうに見える」というコメント。なるほど、と思える。(恂)

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