猫金魚愉快な妻と年惜しむ        横井 定利

猫金魚愉快な妻と年惜しむ        横井 定利 『この一句』  「愉快な妻」の一語によって成り立つ句である。猫と金魚と妻(それに夫)という家庭はさほど珍しくない。定年過ぎ、子供たちが巣立った家なら、むしろ普通の形態と言えるのではないか。ところが妻の上に「愉快な」という形容詞がつくと俄然、様子が違ってきて、もはや普通の句ではあり得ない。  合評会で「自分の妻を『愉快』と言う人はいないと思う。こういう句作りを楽しんでいるのではないか」というコメントがあった。俳句作りの本質を衝く、非常に重要な指摘であったと思う。作意の見える句はよくない、という。人を驚かそう、面白がらせようという意図が目立ち、鼻持ちならない句も実際にある。しかし上記の発言の主はこの句を採っており、決して句をけなしているのではないのだ。  実は私(筆者)もこの句を選んでいた。「愉快な」という語に作意の跡が見えないわけではないが、それ以上の快さ、つまり愉快さをこの句から得たからである。凶年と言うべきこの年を、せめて愉快な妻と送れたらなぁ……。読み手にそんな思いを抱かせれば、作意はすでに消えている、と言えるのだろう。(恂)

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婿殿に丹前を貸す里帰り         大沢 反平

婿殿に丹前を貸す里帰り         大沢 反平 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 佳子 お嫁さんの実家に来たお婿さんに丹前を貸す。親と子供夫婦の関係が微笑ましいですね。 庄一郎 年末の里帰り、近頃は奥さんの里に帰るのが増えているとか。丹前、里帰り、婿殿。うまい表現ですね。 大虫 婿さんに義理の父親の丹前を出したのでしょう。「婿殿」という言葉に親しい二世代を感じる。 好夫 情景が見えてきますね。義理のお母さんが丹前を用意しておいたのかな。 聖子 昔はお婿さんのために丹前を新調しておりました。懐かしい風景です。 水牛 作者は反平さん! 彼のところは青い目の婿さんなんだ。 誰か それだと、なお面白い。 *         *  当欄の夜着(褞袍、丹前、掻巻)シリーズは、この五句目で終了。古めかしさを感じさせる兼題(季語)であったが、日経合同句会に提出された三十九句を見渡すと、意外に新しい夜着の風景が浮かび上がってきた。夜着は古くて新しい季語になりつつあるのだろうか。(恂)

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掻巻に猫とくるまる生家かな        今村 聖子

掻巻に猫とくるまる生家かな        今村 聖子 『この一句』  句の主人公は都会で働くキャリアウーマンと想像される。一昔前までは「婚期を逸する」と心配される年齢だが、同年輩の仲のいい女性たちはみな独身なので、一向に気にしていない。仕事の面では能力十分、上司に頼りにされており、それだけに頑張り過ぎて、肩や背中が凝ることも多い。  連休になれば必ずと言っていいほど実家に帰って行く。生まれ育った家は何と言っても居心地が良く、のんびりしているだけで息抜きになる。両親はもちろん娘を待ち構えている。猫も嬉しそうで、彼女から離れようとしない。自分の部屋に入り、昼寝でもしようかなとベッドの上に上がると、猫もぴょんと飛び上ってくる。そして彼女は何と、猫とともに掻巻(かいまき)にくるまるのだ。  褞袍(どてら)、掻巻など夜着と呼ばれるものは、実生活から消え去ったように思われているが、寒い地方を中心にしぶとく生き残っているようだ。通販などで買えるし、おしゃれなデザインのものもあるという。節電が求められている当今、新たなファッションとして登場してくるかも知れない。(恂)

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母縫ひし夜着ほころぶも捨てきれず    片野 涸魚

母縫ひし夜着ほころぶも捨てきれず    片野 涸魚 『合評会から』(日経俳句会合同句会)   二堂 私の母は来年十三回忌ですが、母の縫ったものは捨てきれない。共感を覚える句ですね。 啓子 年に一回も着ないと思うけれど、取り出すたびに迷っている。そういう気持ち、よく分かります。 詠悟 ボクは「母」を女房と置き換えている(笑)。なるほどなあと思って。 水牛 女房だと怖くて捨てられない(笑) 実千代 「夜着」はほかの言葉でもいいのかと思ったんですが、捨てきれないという気持ちがよく出ていて。 頼子 「ほころびくらいなら縫いなさいよ」と言いたくなっちゃう(爆笑) 水牛 そういうことも言える。作者は当然、男でしょうね。 涸魚(作者) 「ほころび」というのはちょっと上品な表現で、実際はボロボロ(大爆笑)。しかし「ボロボロ」じゃ選んでくれる人がいないと思って、「ほころぶ」にしたんですよ(笑) *        *  夜着(褞袍、掻巻など)は古い季語かと思われたが、いまだに生活に密着していることが判明した。(恂)

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掻巻に日の匂ひあり夢に入る   久保田 操

掻巻に日の匂ひあり夢に入る   久保田 操 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 淳 暖かいですよね。最高に気持ちのいい句だと思います。 昌魚 昔おふくろが掻巻を日に当ててくれて、暖かいなと思いながら夢に入った。そんな思い出があります。いい感じだなあと。 好夫 そうですねえ、子どものころありましたねえ。 光迷 生活感と楽しさがありますよね。 詩朗 私は今も襟がビロードの掻巻で寝ている。日を当てた暖かい掻巻に入ると深い眠りに入れる。素直な気持ちを詠われていい句です。 大虫 日に干すのはけっこう大変な作業で、平和で暖かい家庭だなあと。 てる夫・聖子・舟平・青水・万歩 安眠間違いなし。太陽の匂いをかいでいる感じ。極楽気分ですね。翌日の幸せも約束されているようです。           *  異口同音、「気持良さそう」ということで合同句会で第二位となった。感じたところをすらすらと詠んだところがいい。(水)

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褞袍着てマルクス読みし頃のこと   広上 正市

褞袍着てマルクス読みし頃のこと   広上 正市 『季のことば』  褞袍(どてら)は冬の季語「夜着(よぎ)」の傍題で、掻巻や丹前の仲間だが、いまではほとんど見かけなくなってしまった。暖房設備が整い、しかも生活そのものが洋風化したせいであろう。しかし昭和四〇年代までは田舎はもとより、東京でもこの種の夜着は冬の必需品だった。  銘仙や木綿の夜具地を広幅裾長にゆったりと裁ち中に綿を入れた着物で、会社から帰ったお父さんが一風呂浴びて、浴衣の上からこれを羽織り、膳の前に座って熱燗を一杯やるのがどこの家庭でも見慣れた光景だった。建て付けの悪い障子や襖の間から隙間風が吹き込む下宿では、学生や安サラリーマンが褞袍を頭から引っ被って読書に耽った。  六〇代以上の人にはこよなく懐かしい風景である。そのせいであろう、日経俳句会の平成23年掉尾を飾る年末合同句会で、この句は圧倒的票数を集めた。郷里から送られたスルメの最後の一枚を大事にしゃぶった、あの味も思い出される(水)

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冬茜クレーン越しなる富士の山   堤 てる夫

冬茜クレーン越しなる富士の山   堤 てる夫 『この一句』  葛飾北斎の傑作シリーズ「富嶽三十六景」を思い出した。「凱風快晴」(一名「赤富士」)や、小舟を翻弄する大波の彼方に浮かぶ富士山を描いた「神奈川沖浪裏」がつとに有名だが、大きな桶の円の中に遠富士がのぞく「尾州不二見原」、木樵が大鋸を入れて挽いている巨大な材木の作る三角形の中に富士山が見える「遠江山中」など、奇想天外な構図が北斎の天才を余すところなく現している。  この句は「クレーン越し」の富士。まさに現代版富嶽三十六景。信濃町の病院に入院中、八階の病棟の窓から西空をぼやーっと眺めているうちにこの句を得たらしい。  「冬茜」は作者の造語のようだが、冬陽を受けて赤茶色に輝く富士山と周辺の空と雲を指すのだろう。近くの工事現場に巨大なクレーンが斜めに立ち、ロープが垂直に垂れている。それが形作る三角形の真ん中に富士山が小さく見える。北斎が大喜びしそうな句だ。(水)

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連衆の箸をとめたる冬花火   須藤 光迷

連衆の箸をとめたる冬花火   須藤 光迷 『この一句』  恵比寿の高台にある高層マンションの十四階で俳句仲間が鮟鱇鍋をつつきながら、賑やかな忘年会をやっていた。窓の外の夜景に眼をやった誰かが、「あ、花火」と声を上げた。遥か彼方の東京湾岸に打ち上げ花火が上がっていた。冬の澄み切った夜空に美しく花開いている。  遠く離れているから、もちろん音は一切聞こえない。湾岸の高層ビルの間に、無音のまま、間欠的に開いては消える冬花火はことのほか美しく、寂しく感じた。一座の七人はしばらく声もなく、鍋をつつくことも忘れて見入った。その瞬間を巧みに捉え、一句に仕立てた。「あ」という感じが伝わって来る、まことに鮮やかな句である。  嘱目即興の句というのは、つぼにはまると絶妙な味わいを醸し出す。冬花火そのものは不景気の折からごく短時間でなりを潜めてしまったのだが、この句が出るに及んで座は盛り上がり、再度鮟鱇鍋に取りつきつつ、これを発句とした連句が延々と繰り広げられるのであった。(水)

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短日の旅の列車に駆け込みぬ      岩沢 克恵

短日の旅の列車に駆け込みぬ      岩沢 克恵 『季のことば』  実はこの句、句会では「旅の列車」ではなく、「通勤列車」として提出された。作者によると、投句の前に「通勤」と直してしまったのだという。合評会の時、作者がそのことを明かすと、「旅の列車の方がいい」、という声が圧倒的だったので、当欄では原句を掲載することにした。  「短日」とはもちろん夜明けが遅く、日暮の早い日々のことだが、人々が日の短さを感じるのは日暮の方であるらしい。通勤列車に飛び込むのは、たぶん朝だから短日の実感がない。一方、旅なら予定が押せ押せになり、帰りの列車に駆け込む、というような状況がよく理解されることになる。  ふと思うのは、秋の「夜長」と冬の「短日(日短か)」の関係である。日が短ければ、夜は長くなる。つまり二つの季語は同じ現象の表裏なのだが、別の季節に別れてしまうのだ。春の日永と夏の短夜も同様の矛盾を抱えており、俳句のセンスというものは通常の理屈では割り切れぬものであるらしい。どうしてこうなるのだろうか。「旅の列車」と「通勤列車」を糸口にして考えてみることにしようか。(恂)

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ほどほどを忘るる酔ひや冬ぬくし      玉田春陽子

ほどほどを忘るる酔ひや冬ぬくし      玉田春陽子 『この一句』  もう若くはない。酒はほどほどにしなければいけないと、自分に言い聞かせているのだが、そうは問屋が卸さない。「♪ だがね、♪ あなたも酒飲みの身になってみやしゃんせ」と「ヤットン節」にあるように、すぐにほどを超えてしまうのが酒好きの常である。明日になれば二日酔い。またやってしまったか、と嘆くのも毎度のことだが、この句の場合、まだそこまでの深手は負っていない。  時刻は夜の九時過ぎ、忘年会が終わってがやがやと店を出る。足元はいくらか覚束ないが、飲み過ぎのデッドラインを超えかけていることに気づかない。店から出てきた仲間の勢いのいいのが、必ず声をかけてくる。「どうだ、二次会」と酒豪が言う。「カラオケにしよう」と誘う声も聞こえる。  昨日の寒さは去って、今宵は温かい。気持もぬくぬくしているのだから、飲む前の決意「ほどほどに」は風前の灯だ。果たしてこの先はどうなるのだろうか。快適な一日と辛い一日を天秤に掛ければ、選ぶべきはどちらか、初めから分かっていたのに、あぁ……と筆者(私)もこのところ嘆いている。(恂)

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