どてら着る後ろ姿や百耕忌         高井 百子

どてら着る後ろ姿や百耕忌         高井 百子 『この一句』  忌日の句である。前書に「父の三十三回忌を前に」とあった。それによって作者がご自分の父上(俳号・百耕)の忌日を詠んだ、ということが分かる。「どてら」という冬の季語が入っているので季節もはっきりとしている。しかし読み手の知らない忌日の句はどうなのか、と思う人もいるに違いない。  忌日を詠む場合、「芭蕉忌」(時雨忌)、「子規忌」(糸瓜=へちま=忌)など、有名人のものに限るべきだ、という意見がある。しかしこの句を見て、必ずしもそうではない、と思った。どてらを着て背中を見せている百耕さん。洒脱な俳画を見るようで、なかなかの雰囲気を感ずることができる。  この句のイチ押しは「百耕」という俳号である。聞くところによると、父上は大学の教授として一つの専門分野を地道に耕し続けておられたという。そのことを知らなくても、一徹で重厚な人柄を感ずることができよう。どうやら忌日の句に相応しい俳号というものが、あるらしい。試みに歳時記などから俳号を選び、順に置き換えてみた。どてらの後ろ姿にぴったりの俳号は結局、見つからなかった。(恂)

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一輪のある閑かさや白障子         井上 啓一

一輪のある閑かさや白障子         井上 啓一 『この一句』  実にすがすがしい感じのする句である。その部屋は、張り替えて間もない真っ白な障子に囲まれ、床の間か違い棚などに一輪の花が活けられている。時刻は何時ごろだろうか。午前中でも、夜でもいいかも知れないが、冬の午後三時過ぎ、日がやや翳ってきたころがよさそうな気がする。  「障子」は冬の季語である。その昔は秋が深まると各家で障子の張り替えを行い、部屋の雰囲気を一新させた。寒さ対策だけでなく、正月を迎えるための準備という意味合いもあった。真っ白な障子に囲まれた部屋は非常に明るく、別世界が生まれたような気がしたものである。  そんな室内に一輪の花。作者が花の名を特定しないのは、季重なりを避けるためかも知れない。しかしその工夫が読み手の想像を膨らませる余地を与えた。さて、この時期に咲く花は何か。一輪なのだから、庭で剪った花と考えられよう。山茶花か、寒椿か……。部屋の雰囲気を「閑か」と表記した作者の思いに応えるには、小ぶりながら味わいの深い花、白の侘助が最も相応しいような気がする。(恂)

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五年経て株をふやして石蕗の花   大平 睦子

五年経て株をふやして石蕗の花   大平 睦子 『この一句』  ツワブキ(石蕗)は暖地の海岸などに生えているキク科の植物で、濃緑のつやつやした厚ぼったい葉が美しく、冬になると広がった葉の真ん中から5、60センチの茎を伸ばし、先端に黄色い菊のような花を咲かせる。形や生え方がフキに似ており、茎を醤油で煮染めて伽羅蕗(きゃらぶき)という佃煮にしたりするので、分類学上は別種の植物なのだが、「艶のあるフキ」と名付けられた。  自然界に花の少なくなる初冬から盛んに咲き始め、艶のある緑葉が力強さを感じさせるからであろう、縁先のつくばいや庭石のそばなどによく植えられている。芝居で言えば名脇役といったところである。  派手なようでいて地味だから、普段はついつい見過ごしてしまう。しかし、黄色い花がふと目にとまると、あたりがにわかに明るく温かくなるような感じがする。丈夫な植物で、気づかぬうちに子株を増やしてずいぶん広がっている。そうか、これを植えてもう五年たっているのだ。この五年間ずいぶんいろいろな事があったなあと思う。しみじみとした情趣の伝わる句である。(水)

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冬めくや風仲見世を通り抜け   直井 正

冬めくや風仲見世を通り抜け   直井 正 『この一句』  この作者は浅草が大好きらしい。「春風や浅草駆ける人力車」という気持のいい句もある。それだけに浅草をよく知っている。  浅草寺の本堂は南を向いて建っており、雷門から本堂目指して宝蔵門に至る仲見世は当然のことだが南北に一直線。冬の北風は真っ直ぐに吹き抜ける。「風仲見世を通り抜け」という、少々ぎごちない措辞がかえって冬の仲見世の風情をよく伝えている。ことに客足がまばらになった夜間は吹き抜ける北風が肌身にしみ通る。  この句を見たとき、最初はもう少しスムーズに詠んだ方がいいのではないかと「仲見世を吹きゆく風も冬めける」などと考えた。しかしどうもこれでは通り一遍の感じがする。やはり「ふゆめくや、かぜ、なかみせをとおりぬけ」と、ぽつぽつ切れる詠み方の方が、それほど強くはないが蕭条たる凩の感じが出るなと思い直した。(水)

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通勤の足せかせかと冬めきぬ   高橋 淳

通勤の足せかせかと冬めきぬ   高橋 淳 『季のことば』  「冬めく」という季語は立冬からしばらくたって、木の葉が舞い、吹く風も冷たさを増し、「いかにも冬になったなあ」という感じを抱く頃合いを言う。妙に温かい日が続いて今年の冬は変だなと思っていたら、きのうあたりから急に冷え込んできた。出勤時にはそれを特に感じる。これが「冬めく」気分であろう。  出勤は春だろうと夏だろうと、常に慌ただしいものである。しかし、これが冬ともなればことにせわしないものとなる。年末を控えて、あれこれとやるべきものが押し寄せて来ることも一因に違いない。しかしそれだけではない。なんとなくせかされる感じになるのだ。やはり冬という季節のなせる業なのだろう。  「通勤の足せかせかと」にもっともふさわしいのは、春夏秋冬いずれか。それぞれ当てはめて口ずさむと、「冬めきぬ」以外にはないなあと思う。(水)

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七五三背中に希望しょっている   池村実千代

七五三背中に希望しょっている   池村実千代 『季のことば』  11月15日は七五三の祝い。男の子は三歳と五歳、女の子は三歳と七歳の年に着飾って氏神様に詣で、健やかな成長を祈願する。万物枯れゆく初冬の淋しさにぱっと明かりを灯したような行事である。  幼児の段階から少年少女へと移る節目に行われる儀式は平安時代からあったようだが、7・5・3と定めて一家総出で派手に祝うようになったのは江戸後期から明治に入ってからのことである。昭和のバブル全盛期には親の見得が手伝っておそろしく派手な恰好のおチビさんが初冬の街を賑わせた。平成の今は突飛な衣装はむしろ少なくなって落ち着きを見せているようだ。  両親だけでなく双方の親、つまりジイちゃんバアちゃんが二人ずつ付いての大人数のお参りも見受けられる。子供や親よりもジイちゃんバアちゃんの方が嬉しそうにしているのが微笑ましい。天真爛漫な子供たちを眺めていると、周囲が背負わせる「希望」があんまり重くならなければいいがなあと余計なことを考える。(水)

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おのが死を見据えし人や冬浅し       田村 舟平

おのが死を見据えし人や冬浅し       田村 舟平 『この一句』  前書などはない。しかし句座に並ぶ誰もが故・大平昭生氏(本名・昭)の追悼句であることを知っていた。十月二十八日の当欄で(水)氏が紹介したように、氏は同月二十一日に亡くなられた。九月の句会には両国の自宅から神田の会場まで、自転車でやってこられるほど元気だったのに。  奥様から来た挨拶状を見てびっくりした。「さて、私 大平昭はこの度死亡致しました。本来なら旅立ち前にご挨拶申し上げるべきでありますが、それもかなわず失礼申し上げました――」。氏は生前にこの文を用意しておき、奥さんに「死んだら読んでくれ」と告げていた。葬式はしない、香典は一切もらわない、音楽をかけ家族だけで送ってもらいたい、などとも書かれていたという。  昭生氏は囲碁の愛好者であった。句の作者・舟平氏は、碁敵であっただけに、死を見据えていた故人への思いは一方ならぬものがあっただろう。お骨は愛用の碁盤の上に置かれ、大好きなお酒も供えられた。上記の挨拶文の最後には「暑くなく寒くもなしの世とはなり」の句が添えられていた。(恂)

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冬浅し旅の装ひ決めかねて         岡田 臣弘

冬浅し旅の装ひ決めかねて         岡田 臣弘 『この一句』  句会で、「装ひ」という語は女性的な感じだね、という声が聞こえたが、男性が使って悪いということはない。作者は吟行へ出かける前に、着て行くものや着替えのものを選んでいるのだ。十月の末だから秋物か冬物かで迷うところだが、行き先が東北だから、なおさら難しくなる。奥さんから「そんなに散らかして」と叱られたそうだ。服選びに考え込む作者の顔が浮かんでくる。  「冬浅し」の句を作ってみて、難しい季語だと実感した。「冬に入る」「冬温し」といった季語に比べるとイメージが定まりにくく、取り合わせの相手がみつかりにくいのだ。ところがこの句は日常にありがちな、ごく普通のことを配して、何とはなしの気ぜわしさを感じさせた。  吟行の作ではない。その後の句会の兼題「冬浅し」の案を練っているときに、この句が浮かんだと思われる。まず兼題が頭の中にあり、次に旅の準備が浮かんで、二つのことが重なったのだろう。兼題だけでも、体験だけでも、なかなかこうはいかない。双方の結びつきの重要さを思い知る。(恂)

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まだ白きすだれ大根冬浅し         藤野十三妹

まだ白きすだれ大根冬浅し         藤野十三妹 『この一句』  句会で、「この句は季語を説明しただけ」という辛口のコメントが出た。「冬浅し」の典型的な一情景であり、「大根干す」自体が初冬の季語になっている。つまり「冬浅し」の一例を提示しただけで、季重なりでもある、というのだ。同様の意味で、最初の「まだ」という語も、大根を干したばかりという初冬の状態を強調しているので、「気に入らない」という声があった。  しかしこの句は多くの人の共感を得て、句会の最高点を獲得した。大根をすだれのように掛けて干す風景を見れば、もう冬になったのだ、としみじみと思う。「干し大根」と「冬浅し」は確かにつきすぎだが、理屈はあんまり言わず、「いいものはいい」と素直に認める感性も必要かもしれない。  上五につては「真っ白な」あるいは「しらじらと」としたらはどうか、という改良案が示された。確かにその方が、ずっといい句になっている。「季語を説明する」とはどういうことか、「つきすぎ」とは何だろうか。そんな俳句の“基本定石”について、改めて考えさせられた一句であった。(恂)

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焼芋を半分妻へ和睦なる          黒須 烏幸

焼芋を半分妻へ和睦なる          黒須 烏幸 『合評会から』(酔吟会) 二堂 焼芋を割って妻へ半分あげる、というのが面白い。安上がりな仲直りですね。 反平 普通なら「仲直り」と詠むところだけれど、「和睦なる」と冗談めかしたところがいい。そのために深刻なけんかではない、という雰囲気が生まれています。 てる夫 話がうますぎる、というのが第一印象です。そんなに簡単に仲直りができるとは思えない。しかしユーモラスですよ。うまく作っています。 恂之介 夫婦仲というものは単純じゃないですからね。互いに和睦したようなふりをするのが、ベテラン夫婦の生活の知恵なんじゃないですか。そんな裏面も見えてきます。 臣弘 大げんかじゃないから、焼芋で和睦出来るのでしょう。いつもは仲のいい夫婦なんですよ。 *         *  焼芋を二つに割ると、湯気がほのぼのと立ち上ってくる。その湯気や温かさが仲だちになって、妻との和解が成ったのだろう。ケーキやアンパンでは、こうはいかない。(恂)

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