樺太のかすかに見えて秋の潮   高井 百子

樺太のかすかに見えて秋の潮   高井 百子 『季のことば』  「秋潮」は干満の差が激しく、上げ潮も引き潮も人の目にはっきり映るほどになる。大きく引いて露わになった岩礁や砂浜に秋の訪れを感じ、一抹の感傷を抱く。  この句には「宗谷岬」との前書きがあるから、遙々やってきたなあという思いも重なって感慨も一入であろう。宗谷海峡の青黒い潮の流れもそれをかき立てるようだ。岬の突端から遥か海上を見つめると、ぼんやりと陸地が見える。「あれがカラフトですよ」と案内してくれた人が告げる。ここから樺太までは直線距離で40キロあるかどうかの近さなのだ。  作者のご子息が結婚、お嫁さんの実家がこの近くなので、新郎の母親として挨拶に来たのが宗谷岬を訪れるきっかけになったのだという。この句の裏側には息子を育て上げた母親の安堵感もありそうだ。もちろんそんな裏話を抜きにしても、静かで落ち着いた気分を抱かせる句である。(水)

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ゆるゆるに生きて蕎麦打つ秋の暮   野田 冷峰

ゆるゆるに生きて蕎麦打つ秋の暮     野田 冷峰 『合評会から』(番町喜楽会) 恵子 「秋の暮」の句は、普通はこれと逆の意味合いのものが多いように思うんですが、この句は何とも余裕というか、悠々とした感じがします。そこに感心しました。 厳水 「ゆるゆるに生きて」というのがいいですねえ。こんな風に生きられたらなあと・・。 光迷 「ゆるゆるに生きる」ことを許す、その余裕ですよね。 透 「ゆるゆるに」にはちょっと自嘲めいた感じがある。でもそれでいいじゃないかという、そこが余裕なんですよね。複雑な感情のひだみたいなのがある。          *  作者は蕎麦打ち講習会で、「だめですよ、そんなに肩に力入れちゃ」と講師に言われ、ああそうか、ゆるゆるにやればいいんだなと。そりゃ自分の生き方みたいなもんじゃないかと思ったら、自然にこの句ができたという。(水)

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利尻富士裾野は海へ秋の暮   堤 てる夫

利尻富士裾野は海へ秋の暮   堤 てる夫 『合評会から』(番町喜楽会) 佳子 利尻富士は見たことないんですが、ああ裾野がそのまま海へなだれ込んでいるんだあ、すごいなあなんて思って・・。やっぱり秋の暮が一番似合うんだろうなと思います。 春陽子 秋が暮れて、山裾が海に入って、山裾と海が渾然一体になっている光景。実は私もこういう光景の句を出したんですよ。「山裾をすぼめて浅間秋の暮」と。浅間山の裾がだんだんすぼまって行くんです。しかし、この句を見たら、やはりこっちの方が断然だなあと・・。浅間には海ないもんなあ(大笑い) 而雲 利尻富士っていうのは、島そのものがあの山なんですよね、だから夕暮れになればこういう姿になる。ああそうだなあという感じがしますね。           *  秋の夕日を浴びて逆光の利尻富士が海へなだれ込む。雄大な景色である。はるばると来つるものかなという感慨に浸る秋の暮れである。(水)

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霧深しセーヌの流れどちらやら     黒須 烏幸

霧深しセーヌの流れどちらやら     黒須 烏幸  『この一句』  フランスの首都・パリは緩やかな傾斜地にあり、従ってパリを貫流するセーヌ川の流れは緩やかになる。その水面に霧が立ち込めたら、セーヌがどちらの方向に流れているかなど全く確認できないだろう。ロンドンのテムズならぬ霧のセーヌ。これまた味わい深い雰囲気ではないだろうか。  というのがこの句の一般的な感想になるだろう。ところが句会(酔吟会)に並んだ面々は、この句を見ると一様にニヤリ。タネを明かそう。「セーヌはどっちに流れているの」という本があるのだ。著者は句会のメンバー・涸魚氏夫人、片野紀子さんである。なお涸魚氏はその日、偶然の欠席であった。  話は今を遡ること四十六年前、新聞社パリ特派員の夫の許に夫人が赴いた時のことだ。空港に迎えに行った夫は運転の初心者で、パリの自宅への道に迷ってしまう。夫はセーヌを遡ればいいと気付き、助手席の夫人に尋ねる。「セーヌはどっちに流れているんだ」――。句の作者は「本のタイトルを拝借しただけ」と照れていたが、気にすることはない。「こういう本歌取り、悪くないよ」という声もあった。(恂)

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快速はもろこし地帯突き抜ける     藤村 詠悟

快速はもろこし地帯突き抜ける     藤村 詠悟  『季のことば』  俳句をやる人の中には「モロコシ」(唐黍、蜀黍)と「トウモロコシ」(玉蜀黍)は同じものと思っている人がいるかも知れない。「日本大歳時記(講談社)」などの歳時記では、「モロコシ」を玉蜀黍(秋の季語)の傍題とし、解説でも両者を同じものとみなしているからだ。それにモロコシにもトウモロコシにも「トウキビ(唐黍)」という同じ別称があるので、余計ややこしいことになる。  実際のところ、両者は同じイネ科ながら全く別の穀物である。トウモロコシについては誰もがご存じの通り。一方のモロコシは、年配の方には懐かしいコーリャン(高粱)のことで、箒状の穂に数千粒ものも実を稔らせる。歳時記によってはこれを「高黍(たかきび)」と呼び、秋の季語としている。  作者によればこの句は中国東北部の風景だという。中国では高粱は主要穀物に数えられ、大陸北部の人々が好む「白酒(ばいちゅう)」の原料になる。耕作地はもちろん広大で、畑というより、「地帯」と呼ぶ方が相応しい。大陸ではいま、見渡す限りの高粱畑を快速列車が突き抜けていく。(恂)

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新蕎麦や常の暮らしの有り難く     金指 正風

新蕎麦や常の暮らしの有り難く     金指 正風 『この一句』   新蕎麦を食べながら「このような生活を送れるのは有難い、幸せだ」と思うのは、ある年代以上の人だろう。若い頃の「幸せだ」「幸せになりたい」という思いは、もっと生々しく、給料をたくさん取る、高い地位につく、素晴らしい家に住む、子供がいい学校に入る――というようなことになるのではないか。そのようなレベルを超えた人が、何気ない日常の暮らしを「有難い」と思えるようになる。  さて作者は、どのようにして新蕎麦を口にしたのだろうか。新蕎麦粉を手にいれて、自ら蕎麦を打つ、というようなタイプの人ではない。街を歩いていて、「新蕎麦始めました」というような貼り紙を見たのだろう。彼は家に帰って奥さんにぼそっと言う。「今晩、蕎麦屋に行ってみようか」  奥さんとたまに近くの蕎麦屋に行くようになったのは定年後のことだ。夕方に店に出かけ、お酒を奥さんと二人で二合ほど。好みの蕎麦を頂き、早めに家に戻る。最近とみに、このような生活を有難いと思うようになった。東日本大震災とも関係があるのかな、と彼は考えている。(恂)

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葛のつる道に這い出る残暑かな     片野 涸魚

葛のつる道に這い出る残暑かな     片野 涸魚  『季のことば』  国道でもいいし、身近な散歩道でもいいのだが、人通りのあまり多くない道なのだろう。そこまで葛(くず)の蔓が伸びてきている、というのである。隣接する土地には葛の葉が一面に生い茂っているに違いない。その中の一、二本が、境界線を越えて道路にまではみ出しているのだ。  葛の花は秋の七草の一つ。房状に咲くマメ科植物特有の蝶に似た花は、なかなか味わい深い。風が山野を吹きわたるときは、一斉に白い裏葉を見せて、これぞ秋、という風景も見せてくれる。俳句によく詠まれるのはもちろん、このような美しさなのだが、葛の本質を見つめると、全く別の側面が現れる。  この句の主たる季語は「残暑」である。葛も秋の季語なのだが、ここでは「季重なり」の片割れとして脇役に甘んじねばならない。しかし存在感たっぷりの、他に代え難い脇役である。葛の葉は大きく、蔓は逞しく、強烈な太陽にも平然として自らの勢力を伸ばし続け、はびこり出したら絶滅不可能と言われるほどのしぶとさを持つ。葛という植物の本質は実はこういう暑苦しさにあった、と思い知らされる。(恂)

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霧晴れて伊良湖岬へと大漁旗   岡田 臣弘

霧晴れて伊良湖岬へと大漁旗   岡田 臣弘 『この一句』  伊良湖岬(いらござき)は愛知県豊橋市から太平洋に突き出した渥美半島の先端にある。向い側の知多半島と両腕で抱えるように三河湾を囲んでいる。夜間照明を当てて菊に日照時間の長短を錯覚させ、開花時期を人工的に操作する電照菊の栽培で有名な、豊かな農村地帯である。潮の流れの速い伊良湖水道、そこを通る船舶の安全を守る伊良湖岬灯台、島崎藤村の「流れ寄る椰子の実ひとつ・・」で有名な恋路ヶ浜など、風光明媚な所なのだが、電車が半島の付け根までしかなく、後はバスという足の便の悪さから、未だにのんびりとした風情を残している。芭蕉は罪を得てこの地に流された愛弟子杜国をなぐさめにここまで足を伸ばし、「鷹一つ見付けてうれしいらご崎」と詠んだ。  掲出句は名古屋勤務が長かった作者の思い出であろう。複雑な潮流の渥美半島から紀伊半島沖の海は絶好の漁場で方々から漁船が集まる。霧が晴れた朝方、大漁旗を掲げた船が続々と伊良湖港目指してやって来る。勇壮で晴れ晴れとした感じをうたい上げた。(水)

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霧晴れぬままに夜回り終へにけり   大平 昭生

霧晴れぬままに夜回り終へにけり   大平 昭生 『この一句』  濃霧の中の夜間防犯巡回を終えた、と受け取ったとしたら、これは取り立ててどうこう言うこともない句であろう。それに夜回り(夜番)は冬の季語であり、妙な季重なりと思う人もあるかも知れない。  しかしである。酔吟会という社会部記者OBの多い句会に出された句だと知って読み直すと、俄然面白味が湧く。この「夜回り」は拍子木を打ち鳴らして町内を回る夜番ではなく、事件捜査に当たる刑事や検事、関係者の自宅を夜分訪れ、あれこれ聞き出す骨の折れる辛い仕事を指している。「夜討」とも言う。  歓迎しない夜間訪問を受けた方は居留守を使ったり、たとえ会ってくれても守秘義務を盾に事件の進展などそう易々と喋ってくれるはずもない。大抵は空振りである。しかし人間情の動物。お百度を踏んでいると禅問答のようなやり取りのうちにポロッと、ということもある。一縷の望みをつないで今夜も出かけたのだが、やはり獲物は無く霧は晴れない、というのである。まさに仲間内にしか通じない楽屋話のようだが、なんともペーソスを感じる句である。(水)

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御岳の風に実の入る走り蕎麦   今泉恂之介

御岳の風に実の入る走り蕎麦   今泉恂之介 『この一句』  「御岳の風に実の入る」という詠み方には感心した。秋風にそよぐ蕎麦畑が目に浮かぶ。。  「木曾のなァ御嶽山・・夏でもさーむーい」と歌われる御岳。長野県と岐阜県の境、北アルプスの南端にどっしりと腰をおろしている。山麓一帯は夏は結構暑いが、冬の寒さ厳しく、地味豊かとはとても言えない土地だ。昔は蕎麦に頼るより他は無かったのだろうなと思わせるような山間の狭隘な地形が随所に見られる。しかしこういう場所に出来る蕎麦は実に旨い。蕎麦は米麦はじめ野菜もろくに育たないような寒冷な荒れ地にもよく育つ。しかも種を蒔いて三ヶ月ほどで実る。  初夏に蒔いた蕎麦は秋に白い花を一斉に咲かせ、菱形の実をいっぱいつける。山国の秋は早い。御嶽山から冷涼な風が吹き下ろす頃、蕎麦の実は熟す。穫り入れたばかりの茶褐色の殻を剥くと、真っ白な中にうっすら緑を帯びた実が現れる。それで打った走り蕎麦を、あたかも御嶽山の霊気を身の内に取り込むようにすすり込む。天地の恵みをしみじみ感じる。(水)

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