羽抜鳥今朝渾身の大卵           野見山恵子

羽抜鳥今朝渾身の大卵           野見山恵子 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 がんばっていますね、この鶏は。羽が抜けても大きな卵を産む。「渾身」のというのがすごい。 而雲 羽抜鳥になると体力が衰えているので、力を振り絞って卵を産む。そういう感じがよく出ています。ただ大卵というのはどうかな。ちょっと大げさだと思いました。 水牛 いや、大きい卵を産むんです。羽抜鳥だけじゃなくて体力が落ちた鶏はみんな同じです。卵をなかなか産めなくて、卵管に長く留まっている間に大きくなっちゃう。 佳子 それで、大きな卵を渾身の力で産むわけですね。 而雲 それは知らなかった。         *          *  「羽抜鶏」は、冬の羽から夏羽に変る途中の鶏のこと。この時期になると他の鳥も羽が抜け変わるが、鶏は中でも状態がひどいようで、羽のなくなった細い首などがまことにみすぼらしい。そんな尾羽打ち枯らした状態でも、雌鶏は普通よりも大きな卵を産まなければならないとは。(恂)

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新樹光五十年振りの校歌かな   三好 六甫

新樹光五十年振りの校歌かな   三好 六甫 『この一句』  作者は大学を卒業して五十年たつ。大学側がこれを祝して挙行した「金祝式典」に招かれたのである。五十年ともなると七十二歳から七十五、六歳。カソリック系のこぢんまりした大学だから、もともと同窓生は全学部合わせて五百人程度しか居なかったのだが、当日の式典に参加したのは半分程度だった。天国に行ってしまったり、行かないまでも入院中、自宅療養中、足腰が弱ってしまったという者が多いのだ。  いささか寂しい感じもするが、晴れて参加できた仲間たちと顔を合わせ、往事の思い出を語り合っているうちに若返ったような気分になる。「こうして元気でいられるのが何より。せいぜい愉しく暮らそうぜ」と互いに励まし合う。  キャンパスの木々も年輪を重ねて鬱蒼と茂っている。木漏れ日がとてもまぶしい。皆で声を合わせて五十年ぶりの校歌を力一杯歌った。すっかり忘れていたのだが、つられて歌っているうちに自然に歌詞が蘇って来るのが嬉しい。(水)

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更衣鏡に入りて二歩三歩   玉田春陽子

更衣鏡に入りて二歩三歩   玉田春陽子 「季のことば」  6月1日になると学校や企業(工場や大規模小売店など)の制服が一斉に夏物に換わる。そして10月1日(所によっては11月)には冬服になる。更衣(ころもがえ)は年に二回あるのだが、真っ白な夏服に換わるのがいかにも爽やかな感じがして印象的だから、「更衣」は夏の季語とされている。  この間にも以前は春と秋に「間服(合服)」に換える習慣があったのだが、近頃は地球温暖化のせいか、エアコンが普及したためか、おしゃれなご婦人以外は間服を着る人がめっきり減った。中には一年中夏服のような格好の人も少なくない。手間が省けて結構だが、季節の移ろいを感じる繊細さも失われてしまう。  この句の作者はその点至極敏感である。奥さんだろうか、更衣の季節を迎えて姿見に映してあれかこれかと試している。デパートの婦人服売り場の光景かも知れない。自分のことだとしたら、とんでもない洒落男である。(水)

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空豆を剥くうち怒り収まりぬ   大平 昭生

空豆を剥くうち怒り収まりぬ   大平 昭生 『合評会から』(酔吟会) 反平 具体的なイメージがいい。空豆が旨いとか五月が来て、とかいうのではなく、怒りが収まるという表現がユニークだ。 光久 空豆を剥いているうちに次第に怒りが収まったり、いらいらした心が鎮まるということはよくあることで、共感を覚える。 詩朗 原発への怒りというものもあるのではないかな。           *  作者は「そんな高尚なものではなく、夫婦喧嘩の俳句です」と照れていたが、誰もが「こういうことってあるなあ」と思う。空豆のサヤの内側の柔らかな感触、剥いた拍子にポンと音がして豆が出たりして、心がなごむのだ。今や怒りの原因は至る所に転がっており、時々刻々増えるばかり。くだらない事にいちいち怒っていては身が持たないよと空豆が教えてくれる。(水)

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新緑の絵の具足りないリアス海   山口 詩朗

新緑の絵の具足りないリアス海   山口 詩朗 『この一句』  東日本大震災から間もなく三ヶ月になる。警察庁発表の被害状況によれば、6月5日現在の死者は15,365人、行方不明者は8,206人、各地に避難している人たちは未だに98,505人もいる。毎日少しずつ行方不明者の数が減って、死亡者が増えて行く。三ヶ月もたって行方不明というのはほぼ絶望と言わざるを得まい。つまり今回の大震災・大津波の犠牲者は2万3千5百人余という、戦争時以外では考えられない規模の犠牲者を出したことになる。  おびただしい人命を奪った大津波の三陸の海は、いまや何事もなかったように平穏な風景を描き出している。海岸近くには相変わらず瓦礫の山が築かれ、痛々しい跡を残しているが、生き残った木々は若葉をさかんに茂らせている。高い丘やヘリコプターか見下ろせば、日本有数のリアス式海岸はまるでのんびりと美しい海岸線を描き出している。青い海、白い波打ち際、茶褐色の浜辺、薄緑から濃緑の山々。平穏そのものの景色と見えるのがかえって痛々しい。そしてじっと見ていると何か塗り足りない思いがしてくるのだ。(水)

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夕薄暑青葡萄のような時      佐々木 碩

夕薄暑青葡萄のような時      佐々木 碩 『この一句』  この句はいわゆる「ごとく俳句」である。事物や事柄を「ごとく」や「ような」などによって表す俳句で、このような直喩はあまり用いない方がいい、と教える人もいる。ところが直喩の句には名句が少なくないのだ。例えば「去年今年貫く棒の如きもの」(高浜虚子)「ぼうたん(牡丹)の百のゆるるは湯のやうに」(森澄雄)。うーん、いいなぁ、私も作ってみようかな、という気にさせられる。  実際に作ってみると、うまくいかない。「滝のような汗」的な、すぐに思いつくものではありきたり過ぎる。いろいろひねっているうちに、独りよがりの難解句になってしまう。なるほどなぁ、と人を感心させるような比喩は、塀の上に立つような微妙なバランスの上に成り立っているものらしい。  夕薄暑と青葡萄はどうだろうか。句会で見た時は「気取りすぎかな」と思った。破調であり、口語体でもある。そういう常套的なモノサシで計ってしまったのかも知れない。しかし二三日後、ふとこの句が浮んできて、にわかに評価が変わった。夕薄暑と青葡萄の二語を頭の中に並べているうちに、両者が次第に接近してきたのだ。この句は名句かも知れない、と今では思っている。(恂)

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節電の断り書きや駅薄暑     嵐田 啓明

節電の断り書きや駅薄暑     嵐田 啓明 『この一句』  いまの首都圏はせいぜい「薄暑」であり、日によっては「梅雨寒」という状況である。JRや地下鉄の駅へ行っても、「ああ、節電中なのか」と軽く受け止めることができるのもそのためだろう。この句はそんな都会の風景をあっさりと淡彩風に描いているが、じっと見つめていると、別の画像が見えてくるのではないか。油絵具を塗り重ねたような、息苦しいほどの状況が――。  猛暑になったら、と考えてみる。電力供給は綱渡りになるはずだ。電車の本数を減らす、車内温度をさらに高めに設定する、長い階段もエスカレーターは動かない、というようなことになったらどうだろう。満員の電車内や駅構内で乗客の不満爆発、ということにもなりかねない。  震災直後と比べると、人々の態度は明らかに違ってきた。当初は風評被害や買い溜めの当事者にもなっていたが、最近では被災地応援の売り出しに大勢の人が集まるようになった。復興への気持ちが一つになってきて、協力する、辛抱する、という心構えが一般化してきたように思われる。しかし間もなく真夏日、猛暑日がやってくる。その時、どんな「震災俳句」が生まれてくるのだろうか。(恂)

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