子のをらぬ夫婦の好きな柏餅   吉野 光久

子のをらぬ夫婦の好きな柏餅   吉野 光久 『季のことば』  柏餅の売られている期間が長くなったのではないだろうか。昔は端午の節句(こどもの日)の前後に限られていたと思うが、いまでは少なくとも五月中は店頭に並んでいる。製造所を見ると、パンのトップメーカーのもあって、消費が広がっているように思われる。  葉を取れば何の変哲もない和菓子だが、あの無愛想さを好む人がいるのだろう。この句の夫婦も親族では有名な柏餅好きで、いつも仲よくぱくついているらしい。結婚して十年は経っている、という雰囲気である。これくらいの歳になると、「おめでたはまだ」なんて聞かれることはない。それでも親や周囲の人たちは、子供のいないことをそれとなく気に掛けているのだ。  柏の葉は新芽が育つまで前の葉が落ちない。それで家系が途切れない、子孫が繁栄する、という謂れが生まれ、端午の節句に柏餅を食べるようになった。だから年寄りは、屈託もなく柏餅を食べている夫婦を見ると、「あれでいいのかな」と半ば心配し、半ば呆れているが、子孫繁栄なんて二人には想定外なのだ。柏餅は一日だけの菓子から、季節の菓子くらいに変身したようである。(恂)

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葉を四ツに畳みし客や柏餅        須藤 光迷

葉を四ツに畳みし客や柏餅        須藤 光迷 『合評会から』(水木会) 明男 お客さんが無意識に葉っぱをたたんでいるんでしょう。几帳面な性格がよく表れている。 淳 いろんなことが想像できますね。お客さんが上品のような、嫌味のような(笑い)……。それと話の内容がなんとなく気まずくて帰っちゃった、というような状況も。 正市 品のいいおばあさんの姿が目に見えてきます。しぐさと葉っぱを、うまく表現しているなと。 光久 ボクは几帳面じゃないが(笑い)、葉をたたむ癖がある。作者も同じ癖があるのかな。 万歩 何気ない様子ですが、言われてみるとこういう人見ますね。柏餅がもうなくなっちゃって手持ち無沙汰とか、いろんな場面が想像できます。 啓子 ちょっと気を遣う場所だったのでしょうか。最後に四つにたたんで……。お客さんがきれいに食べ終わったところがよく出ていると思います。            *       *  句の焦点がまず「客」にしぼられる。次に読み手の解釈がそれぞれに拡散していく。柏餅の葉から、こんなにさまざまな人の様子が見えてくるのも、俳句の面白さ、だろうか。(恂)

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アイフォンを胸に薄暑の街を行く   深田森太郎

アイフォンを胸に薄暑の街を行く   深田森太郎 『この一句』  「ケータイを胸に」ではもう古いのだという。アイフォーンとは米アップル社が2007年に発売した多機能携帯電話いわゆるスマートフォンで、従来のケータイの機能に加え、音楽や動画の再生もできればインターネット機能も備えているから便利なことこの上ない。というわけで、アメリカはもとより全世界の若者を魅了し数千万台を売りまくった。6月末にはさらに進化した新型が発売されるという。競合他社もそれぞれ独自色を打ち出したスマートフォンを出し、実年・老年世代はこの世界の目まぐるしい変化にはとてもついて行けないありさまだ。  この句の作者は一念発起、アイフォンを手に入れて初夏の街を颯爽と歩いている。さてそれでは、この新鋭機器を十分使いこなせるんですか、などと勘ぐるのは野暮というものだろう。これを胸ポケットに入れておくだけで何となく若返った気分になれるのだから、まずはそれでめでたしめでたしなのである。(水)

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犬連れて川辺愉しき薄暑かな   小林 啓子

犬連れて川辺愉しき薄暑かな   小林 啓子 『この一句』  これは薄暑という季語の本意を遺憾なく捉えた句である。川面を渡る風は実に気持ちが良い。足下の草原も緑が濃くなり、見上げれば雲一つ無い青天井が大きく広がっている。  こういう時は人間ばかりでなく、犬も嬉しいのだろう、ちょっと油断すると引き綱を振り切って駆けて行ってしまったりする。飼い主が慌てて追いかけ、呼び戻そうとするのだが、はしゃぎ回る犬はなかなか言うことを聞かない。川辺の道を犬と駆けっこするはめになる。ようやく捕まえた時には息が切れてぜいぜいいっている。「だめじゃないの」と叱るのだが、犬の方は叱られるのがまた嬉しいらしく人の顔をぺろぺろ舐めたりする。  「愉しき」というような言葉は俳句ではあまり使わない方が良いとされているが、この句の場合はかえって効果を発揮しているようだ。初夏の晴れ晴れとした気分がよく伝わって来る。(水)

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頑張れに耳をふさぎてゐる薄暑   高橋 淳

頑張れに耳をふさぎてゐる薄暑   高橋 淳 『季のことば』  「薄暑」という季語は、時には暑さを感じるがまだ暑苦しいというほどではない、むしろ初夏の爽やかな気分を言うのが本筋である。とは言うものの、やはり「暑」という字に引きずられるためか、ほとんど「暑し」に近いような用いられ方をすることもある。この句など、少々精神的な分野にまたがる暑さであり、本来の薄暑とはいささか趣を異にするが、こういう薄暑の感じ方もあるのだなと思う。  鬱屈した気分に陥っている人に「頑張れ」とは言わない方がいいという。本人は頑張りたいと切実に思いながら、どうにも積極的な気分になれないで苦しんでいる。そこへ端から頑張れ頑張れと言われるとますます気が滅入ってしまうのだ。「五月病」という言葉もあるように、この季節は得てしてこうした憂鬱な気分に落ち込む。お為ごかしのなぐさめや景気づけの言葉などは押さえて、じっと見守ってやる方がいい。「ガンバレ東北」などと、何とかの一つ覚えのように言うのも同様である。(水)

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カーテンは白であるべし薄暑なり   大熊 万歩

カーテンは白であるべし薄暑なり   大熊 万歩 『この一句』  「白であるべし」「薄暑なり」という大仰な言い方が面白い。単に五月の心地よい風にカーテンが揺れているのを見て「やっぱりこの季節、カーテンは白に限るなあ」と思っただけのことなのだろう。あるいは居間のカーテンを取り替えるに当たって、可愛らしい模様のあるのを主張する奥さんや娘さんと論争になったのかも知れない。とにかく些細なことなのだが、それをこのように言うと、読まされる方は「何を大げさな」とにやりとする。さりとて不快の念を抱くことなど毛頭無く、「うんそれはそうだ」と頷く。俳句の重要な一要素である「滑稽」を忍ばせた句と言えよう。  この句が出来上がるまで、作者は表現・措辞にずいぶん苦労したのではないかと思う。しかし句会ではこの折角の句はほとんど無視されてしまった。後になって読み返してみると、なかなか含蓄のある句である。一見奇をてらった感じの言い方が敬遠された原因であろう。俳句は難しい。ことに滑稽味を利かせるとなると一筋縄では行かない。(水)

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半袖の細き腕なり街薄暑         水口 弥生

半袖の細き腕なり街薄暑         水口 弥生 『合評会から』 恂之介 これ、選ぶかどうかちょっと迷ったんです。半袖姿は「街薄暑」の典型的な風景ですからね。でも「細き」が魅力的でした。 博明 どうしていい句なのかと言われると(笑い)…。半袖はいやでも腕が見える。老人でも若い女の人でも大丈夫かなと思うほど細い人がいる。私の好みで言うと太い方がいいけど(大笑い)。 淳 ほかにも「サンダルの美脚」「舞妓のうなじ」「二の腕の白さ」という句が出ていますが、「細き腕」くらいが上品でいいですね。 水牛 私の二の腕は、すがれて腹の方に行っちゃったのか(笑い)、意外と細くて半袖になると目立つんですよ。この句、感じが一番出ていて「薄暑」に合っていると思いました。 作者 上着を脱いだ女子高生なんです。細い腕が可愛らしく見えました。      *          *  俳句作りの上で「季語を説明してはいけない」という教えがある。この句、季語の説明のなりそうなところを、「細き腕」で回避し、みずみずしい魅力を引き出した。まさに「一語の力」である。(恂)

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初夏といふ貴重な一日病みにけり     大澤 水牛

初夏といふ貴重な一日病みにけり     大澤 水牛 『この一句』  晴れ上がった快い初夏の一日を考えてみよう。一年三百六十五日中に数日しかない、というような素晴らしい日だ。睡眠は十分、体調は万全である。ウォーキングで朝日を浴び、仕事をしっかりとやり、美味しい食事を頂く。定年後であれば、ライフワークや趣味に没頭し、夕方適量の酒を飲み、ぐっすりと眠りにつく。そんな一日を過ごしたいと思うが、なかなかそうはいかない。  この句の場合、主人公(作者?)は病気になってしまった。熱が出て、一日中横になっている、というような状態だろう。ベッドの中から窓の外に目をやる。こんなに天気のいい日を無駄に過ごしている、という思いにかられているのだ。この頃、私(筆者)も、そんなことをよく考えるようになったのはなぜだろう。答はもちろん分っている。年をとったからである。  生涯の日々がこの後どれくらいあろうとも、齢六十、七十にもなれば、もう「残り日」と言えるだろう。「貴重な一日」。本当にそうだ、とうなずかざるを得ない。私の場合、調子に乗って酒を飲み過ぎた翌日、重い頭で鬱々と過しながら、一日の無為を悔恨する。一日が一日ずつ重さを増していく。(恂)

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母の日や墓に真赤な花添へて       高井 百子

母の日や墓に真赤な花添へて       高井 百子 『この一句』  知人から「死んでも家族」という言葉を聞いた。格言のようなものではなく、普通の会話に出てきたのだ。「日本人は亡くなった家族を生きている人のように考えている。何かに迷ったときなど、仏壇の親に相談するし、いいことがあれば報告する。私が死んでも子供たちは、同じように考えてくれるでしょう。死んでも家族、と思うと死生観が変ってきますよ」。そんな内容だった。  母の日にカーネーションを母にプレゼントする。母が健在なら赤、亡くなっていれば白。しかし作者はあえて赤を選んだに違いない。墓前の供花を「真赤な花」としたのは、もちろん句の季重なりを避けるため。母の日であれば誰でもカーネーションと思うはずである。  念のため以上のことを作者に確かめると、「その通りです」という返信がきた。そのメールによると、母上が亡くなった時、自分の年齢と同じ数の真赤なカーネーションを棺の中に入れたそうだ。それから毎年、五月十日の母上の命日に墓参りをし、赤いカーネーションを供えているという。最後に「いつまでも母離れしない娘です」とあった。しかし、母離れした人なんているのだろうか。(恂)

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ばさと落ちしばしのの字の烏蛇      谷川 透

ばさと落ちしばしのの字の烏蛇      谷川 透 『季のことば』  気味が悪いからこそ蛇は人に近しい生き物なのだろう。春に蛇が出てくれば「蛇穴を出ず」、初夏に皮を脱げは「蛇の衣」。秋になって地中に隠れれば「蛇穴に入る」だが、入口が見つからないと「穴惑い」。植物の名では「蛇苺」「蛇葡萄」「蝮蛇草(まむしぐさ)」「蛇の寝茣蓙」というぐあい。これらがみんな俳句の季語なのだから、改めてびっくりする。まだあった。忘れてはいけないのが「蛇」(夏)そのものである。  もう昔話かも知れない。大きな蛇が天井に住んでいて、鼠を捕っていた。古い商家や田舎の家などでは、夜になると蛇が鼠を追って天井を駆け回る。長屋では二三軒も先の家から大きな音がして、自分の家の天井を過ぎていく。親戚の家に泊まって初めて経験すれば仰天するが、家の人たちは平然たるものだ。昼間でも梁(はり)から蛇が落ちてくる。句の作者は「よくありましたね」と涼しい顔だった。  さすがの蛇も土間に落ちれば相当な打撃を受けるらしい。しばらく「のの字」で横たわっているが、また動き出してどこかへ消えていく。そんな情景を、確かに見たことがある。記憶をたどれば第二次大戦終戦直前、学童疎開、縁故疎開で田舎に住んでいた頃のことだ。今は地方でも蛇が減っているという。(恂)

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