豊島園閉ぢて寂寞後の月    山口 斗詩子

豊島園閉ぢて寂寞後の月    山口 斗詩子

『合評会から』(番町喜楽会)

冷峰 幼稚園の卒園旅行に始まって、豊島園には何度も行きました。豊島氏の支城跡です。
てる夫 豊島園の近くに転勤者住宅があって、そこに住んでいる頃行ったことがあります。ディズニーランドに比べるとアナログですが、慣れ親しんだ方には寂しいことだろうと同情します。
明古 今は静かな豊島園を後の月が照らす。いかにも寂しい景で、「寂寞」が必要かわかりません。
          *       *       *
 東京都民に親しまれた遊園地「としまえん」が閉園し、94年の歴史に幕を閉じたニュースはこの夏、大きな話題を呼んだ。新聞やテレビで大きく報道され、8月末の閉園日までは大勢が詰めかけて、名残を惜しんだ。
 掲句は閉園後の豊島園を後の月と取り合わせて詠む。通い慣れ、思い出のある施設が閉じると聞くと、それだけで寂しく惜しむ気持ちが湧く。まして去り行く秋を象徴する「後の月」のイメージが重なると、寂しさはさらに募る。「豊島園閉じて後の月」で完結しているようにも思える。
 作者に聞くと、幼いころ目白で育ち、遠足などで良く行ったという。結婚後は子供と一緒に遊び、練馬に住んだ後半生は夫婦で桜を愛でた場所でもある。閉園を悲しみ、惜しむ気持ちは、ひと一倍であろう。言い尽くせぬ思いを「寂寞」の言葉に込めたのではなかろうか。
(迷 20.10.27.)

手を打てば龍が鳴くなり秋の空  大下 明古

手を打てば龍が鳴くなり秋の空  大下 明古

『この一句』

 これは東照宮の「鳴き龍」はじめ、由緒ある寺院の天井画を仰いでの句と取ってもいいが、やはり「秋の空」だから、真っ青に晴れ上がった大空の下で手を打ったのだと取りたい。
 天高く馬肥ゆる秋である。爽やかで、深呼吸一つするたびに寿命が一年ずつ伸びて行くような気分である。特に令和二年の今年は年明け早々コロナ禍騒動で、しかも長梅雨、猛暑、台風による豪雨と気象異変が続いた。ご丁寧に秋黴雨(あきついり)という秋の長雨もちゃんと降り続き、このところようやく秋らしい空になってきた。
 秋空を泳ぐ雲を眺めていると誰しも童心に返る。果てしなく広がる動物園であり水族館でもある。象さん、キリンさん、熊、狸、狐、兎、クジラ、鮪、蛸や烏賊、鯖、鰯・・・さまざまな生き物が浮かんで、ゆっくり泳いでいる。
 大きな龍だっている。龍はそろそろ淵に潜る頃合いである。友達みんなで歌って踊って手を叩いたら、龍が「よーし、降りて行くぞー」と鳴くに違いない。
(水 20.10.26.)

蜩の声冴え渡る尾瀬の夕     竹居 照芳

蜩の声冴え渡る尾瀬の夕     竹居 照芳

『季のことば』

 尾瀬の季節と言えばまず、「夏が来れば思い出す~♪」のミズバショウが咲く頃(6月)である。しかし「ニッコウキスゲ、ワタスゲの7月が最高」と言う人も少なくない。そして相当な尾瀬の通になると、「草紅葉の十月」を推すのではないだろうか。秋も末、十月の半ばになれば、山小屋が次々にクローズしていく時期でもある。
 福島、群馬、新潟の三県にまたがる尾瀬の高原・湿原地帯は、行ける時期ならば何時でも何処でも「忘れ得ぬ風景」を心に刻してくれる。そしてさらに、風景だけではなく「音」もあった、と掲句を見て気づいた。作者が尾瀬に出かけたのは、ちょうど今頃だったのだろう。山のベテランに「是非この時期に」と勧められたのかも知れない。
 蜩(ひぐらし)の声を聴いたのは日が西に傾き、歩き疲れてようやく山小屋にたどり着いた頃ではないだろうか。小屋の入り口の前にベンチが並んでいた。空気の薄い高原地帯である。疲れ切った作者はリュックサックを横に置き、ベンチに腰を下ろして一休み。そこに「カナカナカナ」と澄み切った蜩の声が届くいたのだ。同じような体験を持つ私は「生涯にもう一度、晩秋の尾瀬に行ってみたい」と願っている。
(恂 20.10.25.)

老いてゆく日々の早さや秋の空  藤野十三妹

老いてゆく日々の早さや秋の空  藤野十三妹

『合評会から』(日経俳句会)

反平 人生百年とはいうものの、この分じゃあっという間ですな。そんな気分で見上げる空は淋しさに満ちている。
雀九 漠然と誰もが感じていることだが、同輩は秋の空になおのこと感じる。
操 澄みわたる秋空に老いるわが身を投影、時の早さが滲みる。
実千代 一年があっという間に過ぎていくこの頃、年を重ねるとはこういうことなのですね。秋の空をみて感慨にふける気持ちが伝わってきます。
二堂 確かに見上げると、もう秋かと月日の経つ速さを感じます。
冷峰 還暦、喜寿と重ね明日は八十路、毎日が本当に早く感じられます。
          *       *       *
 作者はのたまう「次々と届く友の訃報……。懐かしく楽しかった思い出を話し合う相手も少なくなって、秋涼がいっそう身にしみます。老いてゆくのはこういうことなのかと」。
 斗酒尚辞さず、句会後の「懇親酒会」には必ず参加し、天を貫く怪気炎を上げ続けた御方もついにこういう句をお詠みになるかと、うたた感慨に沈む。と思い込むのはいささか甘い。「何をくよくよ、さあ一杯やりましょう」と発破を掛けてくるに違いないのだ。
(水 20.10.23.)

強かや倒れてもなほ秋桜     高井 百子

強かや倒れてもなほ秋桜     高井 百子

『合評会から』(番町喜楽会)

木葉 「強かや」を上五に置いたのが利いています。コスモスの強さをうまく詠んだと思いました。
水馬 倒れてもしっかりと咲いているコスモスをよく見かけます。実はしたたかなのですね。
春陽子 「倒れてもなほ強かや秋桜」にしたらどうでしょう。
水牛 いや、やはり原句通り最初に「強かや」をぶつける方がいい。
百子(作者) 去年、枯れたコスモスを捨てに空き地まで歩きました。すると今年、歩いた後にコスモスがいっぱい咲いている。驚くべき生命力です。
       *     *     *
 秋桜つまりコスモスでまずイメージするのは、紅や桃色、白などの花が風に揺れるしなやかな、優しい姿ではないか。あるいはコスモス街道などの一面に咲き乱れている光景である。しかし作者は、それらとは遠く離れた「強かな」姿をぶつけてきた。その視線にはっとさせられた。この着眼点は、作者がよく庭仕事をし、草花の生態を見続けている成果なのだろう。
「強かさ」で、菅義偉新首相や再結集に動き始めたNTTグループが頭に浮かんだ。だからといって、この句を時事句と見るのは行き過ぎだろうが…。
(光 20.10.22.)

大和路に風吹き抜けて龍田姫   池内 的中

大和路に風吹き抜けて龍田姫   池内 的中

『合評会から』(番町喜楽会)

冷峰 「龍田姫」の季語で箱根を詠んだ句もあったが、やはり龍田姫には「大和路」が正統です。
百子 秋の気配を素直に感じさせるいい句だと思います。
白山 「風吹き抜けて」はとても気持ちの良い表現で、「龍田姫」の季語によく合っています。
水兎 龍田姫がするりと衣を落とすように、風が紅葉を散らしてゆく姿が見えるようです。
水牛 晩秋の大和路は風が冷たくて、「風吹き抜けて」はいい詠み方ですね。
          *       *       *
 最初、「大和路」と「龍田姫」では付き過ぎで、あたりまえ過ぎるのではないかという気がした。それに、「〇〇路」という表現は如何なものかとも思った。例えば信濃路というと、ある人は佐久や上田を思い浮かべ、また、ある人は松本や白馬を思い浮かべたりして、どうしても印象が散漫になってしまうところがある。
 しかしながら、この「大和路」は、生駒から平群に流れる竜田川に由来する「龍田姫」と合わせたことで、土地柄は明確である。皆さんの選評を聞いていて、なるほどそこに「風吹き抜けて」はいいなと、あらためて感心した。俳句を詠むといえば、いつも何かとひねくり回そうとする傾向のある筆者にとって、反省を促す清涼剤のような一句である。
(可 20.10.21.)

吹き出しのような夏雲何を問う  斉藤 早苗

吹き出しのような夏雲何を問う  斉藤 早苗

『この一句』

 九月半ばの句会に投句されたもので、「いかに何でも夏雲は困るなあ」と採らなかった。年に一度しか開かれない句会なら四季を問わずに詠めるが、月次句会では「当季」即ちその時季に合わせた句を出すのが暗黙の約束になっている。
 しかし、月報が出来上がったのを読み直すと、とても面白い句だなと思う。型に囚われず、大空を見上げて直感的に感じたままを詠んでいるところが新鮮である。
 それに令和二年は春夏秋冬が入り混じるような天候不順で、投句締切りの近づいた九月初旬になっても相変わらず30℃を越す真夏日を重ね、「吹き出しのような雲」が盛んに湧き出し、仲秋とは思えない天気が続いていた。こうした句が九月句会に出てくるのもむべなるかなとも思った。
 漫画の登場人物のセリフを雲形の囲みに入れたのが「吹き出し」。誰が考え出したものか、愉快な発明である。真っ青な夏空に浮かぶ綿雲(積雲)や入道雲(積乱雲)を「まるで吹き出しのようだ」と言ったところが何とも面白い。
 さてその巨大な吹き出しに、あなたはどんなセリフを置くか。「サア、サア、サアサア・・・」 夏雲はむくむくと膨れ上がりつつ、答を迫る。
(水 20.10.20.)

百年の家業を閉ぢて居待月    鈴木 雀九

百年の家業を閉ぢて居待月    鈴木 雀九

『この一句』

 中秋の名月には「今日の月」、「月今宵」、「芋名月」などの異名がいくつもある。満ちる前はもちろん、満ちた後にもそれぞれ別の名がある。十五夜の翌日の十六夜は「いざよふ月」。十七夜は「立待月」。その次が「居待月」で、十九夜は「寝待月」。その翌日は「更(ふけ)待月」と続く。さらには一ヶ月後の十三夜は「後の月」として、別バージョンの月見が待っている。ことほど左様に私たちは昔から月への思い入れが強い。
 一方、掲句の「百年」というのは区切りの良い響きだ。「百年の家業を閉ぢて」という措辞に、はっとさせられる。一体何があったのだろう。家業は何だったのだろう。どんな人が営んでいたのだろう。省略されて語られていないあれこれに思いを馳せる。畳み掛けるように「居待月」というドラマ性を孕んだ季語が上五中七を受ける。映画で言えばエンディングだ。夜空を背景にエンドロールが始まりそうだ。
 作者によると、実際に耳にした話をヒントにしたそうだ。百年続いた家業を畳まざるを得ない、という遣る瀬ない思い。一語一語に事実の重みが宿る。「コロナ廃業か。その月は淋しく見えるのみ」(反平)、「無念さが伝わってきます」(冷峰)、「居待月の寂しさが伝わってきます」(実千代)、などと多くの共感を呼び、九月例会の最高点句となった。
(双 20.10.19.)

老眼鏡外した跡や龍田姫     今泉 而云

老眼鏡外した跡や龍田姫     今泉 而云

『季のことば』

 弱った、困った――またまた句のひねり出しに難産必至の季語が兼題に出た。錦秋の使者「龍田姫」は俳句の上の存在ながら、字義とおりに人間としての人格を持つのだ。だから各氏の投句も擬人法を使ったものが多かった。ちなみにこの兼題の最高点は「芦の湖を姿見にして龍田姫」。ほかにも擬人法と見た句に「百日紅に居残り命ず龍田姫」「濃口はいまだ好かぬと龍田姫」「袖口を藪にからめて龍田姫」「ブロワーに裳裾抑える龍田姫」「日光に輿入れせしや龍田姫」などがあった。いっぽう、「龍田姫」に借りて他のことを詠んだ句はそれほど多くなく、「大山の長き石段龍田姫」「龍田姫余生に一つ恋の夢」「龍田姫小江戸川越串団子」「これはもう恋かもしれぬ龍田姫」などだ。
 この句、これは当然擬人法そのもの。奈良朝の昔から生き続けるさすがの龍田姫も、寄る年波に耐えきれずついに老眼鏡をかけるようになったと言っている。作者は身近に“往年の美女”でも見たのだろうか。あれこの人、こめかみに老眼鏡を掛けていた跡があるじゃない。その小さな発見をこの季語に借りて詠んだものと解釈できる。後から読み直すと諧謔味があって難物「龍田姫」に相応しい句だったと思う。採りそこなった句である。
(葉 20.10.18.)

虫の音のふつと止みまたふつと鳴き 嵐田双歩

虫の音のふつと止みまたふつと鳴き 嵐田双歩

『合評会から』(番町喜楽会)

白山 今年は夏が暑くて遅くまで続いたのだけれど、普通の年の秋だったらちょうどこんな感じがしますね。蝉の声が弱くなったところに、虫の音が聞こえてくるような、微妙な感じをよく詠んでいます。
幻水 「虫の音」と「鳴き」が重複しているのが少し気になりましたが、「ふつと止みまたふつと鳴き」は生態をよく捉えていると思いました。
的中 いろいろな種類の虫の鳴き声が響く秋ですね。確かに、虫の鳴き声は、響き渡るかと思ったら、しばらくして鳴き声が小さくなります。「ふつと」という表現に、虫の音が急に変化する様がよく表れていますね。
          *       *       *
 「どうしたんだろ」と思っていると、また鳴き出す。いいところを詠んだものだと感心した。
 秋の虫には人間を筆頭としてノラ猫や蟇蛙などいろいろな敵がいる。それらが近づく気配を感じ取れば当然鳴くのを止めてしまう。通り過ぎればまた鳴き出す。しかし、そうした外敵が居そうもない時でも、鳴き声が止むことがある。秋の虫たちの合奏にも楽章ごとの休みがあるようなのだ。賑やかな声がふっと止むと秋の夜の静寂が一層際立ち、しばらくしてまた合奏が始まると、なんとなくほっとした気持になる。
(水 20.10.16.)