風通す鏝絵の蔵や薄紅葉     須藤 光迷

風通す鏝絵(こてえ)の蔵や薄紅葉   須藤 光迷

『季のことば』

 鏝絵(こてえ)とは左官職人が漆喰で壁に浮き彫りに描いた装飾。蔵の扉や窓の内側に、花鳥風月や縁起物を色彩豊かに描いたものが多い。伊豆松崎に残る名人・入江長八の作や大分安心院近辺の作品群が知られている。江戸から明治にかけて土地の庄屋や豪商らが蔵を建てる時、財力を示すために鏝絵を描かせたという。見せるためのものなので、雨の日以外は大抵は扉を開けている。
 掲句は秋の日に開け放った蔵の鏝絵を見た情景を詠む。作者によると長岡市郊外の摂田屋地区にある造り酒屋の蔵という。保存状態の良い鏝絵が残っているので全国的に有名らしい。
 その蔵に作者は数ある紅葉の季語の中から、「薄紅葉」を選んで取り合わせる。薄紅葉はまだ十分に紅葉しきらない状態を表す仲秋の季語だ。色鮮やかな鏝絵の印象を打ち消さないように、あえて色づきが淡い薄紅葉を配して、秋の気配を柔らかく伝える。これが照紅葉や夕紅葉では紅葉が鮮やか過ぎて、鏝絵のイメージが薄れてしまう。句作に熟達した作者ならではの季語の選択に、さすがと感じ入った。
(迷19.10.18.)

藻塩ふる佐渡の新米試食会    高井 百子

藻塩ふる佐渡の新米試食会    高井 百子

『この一句』

 藻塩。馴染みはないが、何やら旨そうな塩の名だ。調べると、「海藻を重ね潮水をかけ、焼いて水に溶かし上澄みを煮詰め」うんぬん、とある。万葉集にも歌われた古来の塩だそうだ。詳しくは知らなくても、「藻」という字が旨み成分を醸し出し、口中の唾液が増す。これだけで句の掴みは十分なのに、「佐渡」だ。芭蕉の名句、世阿弥の流刑地、朱鷺のふるさと、などなど連想されるあれこれがたちどころに浮かぶ。その佐渡の、しかも新米ときて、とどめが試食会である。これだけ道具立てが揃ったら、もはやこの句の虜。採らないわけにはいかない。句会では同類が何人もいて高点を得た。きっとパブロフの犬よろしく、ごくりと唾を飲み込みながら票を投じたのだろう。
 いくつも惹かれる要素はあるのだが、何といっても本命は「試食会」だろう。これは実体験がないと出てこない言葉だ。この三文字で句全体のリアリティが保証された。佐渡に旅行した作者の土産話、「宿でね、新米の試食会があってね、それに藻塩というまろやかなお塩をふったご飯の美味しかったこと!」が聞こえてきそうな一句である。
(双 19.10.17.)

秋の雲立志の人も今は杖     田村 豊生

秋の雲立志の人も今は杖     田村 豊生

『この一句』

 秋の雲は爽快感をもたらし、血気盛んな若者の心を膨らませ、奮い立たせる。即ち「立志」である。司馬遼太郎の人気小説『坂の上の雲』は明治期の青少年の間に横溢したそうした空気を鮮やかに描いている。この気分は第二次大戦で日本が完膚無きまでに叩きのめされる昭和20年まで続いた。いやその後も、「立志」は形を変えて20年ばかり生き続けた。敗戦直後の10年は塗炭の苦しみの中をもがきながら這い上がる「志」とし、その後の10年は日本を世界有数の大国に押上げる力としたのである。
 この句の主人公もそうした一人に違いない。大東亜戦争中は軍国少年として志を立て、敗戦後は経済大国への道をまっしぐらに突き進んだ。そして令和の今、杖を頼りとする身となった。
 しかし、この句には暗さは無い。「雲白く遊子悲しむ」といった、そこはかとなき寂しさは感じさせるが、じめじめしていない。「今は杖」と言いながら憐れみを乞うような所は微塵も無く、安心立命の感じが伝わって来る。
(水 19.10.15.)

富富富てふ名前にひかれ今年米  谷川 水馬

富富富(ふふふ)てふ名前にひかれ今年米   谷川 水馬

『この一句』

 なぞなぞみたいで愉快な句である。本当かなと思って調べてみると、一年前にデビューした富山県産の新しい米の銘柄という。「富富富」は、富山の水、富山の大地、富山の人が育てた米であることを表し、ごはんを食べた人に「ふふふ」と微笑んで、しあわせな気持ちになってもらいたいと県はPRしている。
 米の銘柄はコシヒカリの人気が高いが、近年は各県が独自銘柄を開発し、食味とネーミングを競っている。ブランド米になったあきたこまち(秋田)のほか、晴天の霹靂(青森)、恋の予感(広島)、天使の詩(佐賀)といった名前もある。その中でも「富富富」は出色だ。この珍名を見つけ、新米の兼題句に仕立てようと思った時点で成功している。
 珍しい見聞や体験を短文にして、他人に伝えようとする行為は、ジャーナリズムに通じる。江戸時代の俳諧の隆盛は、そうした側面もあったのではないだろうか。
 ところで「てふ」の用字は古くて、現代的な内容にそぐわない感じがする。「との」とか、「とは」で良かったのではないか。
(迷 19.10.14.)

通夜へ行く乗換ホーム鳥渡る   廣田 可升

通夜へ行く乗換ホーム鳥渡る   廣田 可升

『季のことば』

 乗換の跨線橋通路を渡ったのだろうか。ホームの階段を下りて地下通路をくぐって夕空の見える乗換ホームに出たのだろうか。あまりなじみの無い駅をあちこちして、しかも通夜への道である。故人との付き合いのことなど、次から次へと浮かんで来て、ともすれば足元がおぼつかなくなったりもする。
 「渡り鳥」には燕のように春から初夏にかけて日本にやって来て子育てし秋に帰って行く夏鳥と、秋に北方から避寒のためにやって来て春に帰る冬鳥がいるが、俳句の季語で「渡り鳥」「鳥渡る」と言う場合は秋にやって来るものを指す。ツグミ、ヒワなどの小鳥から鴨、雁、白鳥、鶴などの大きな鳥まで様々。いずれも群れをなしてやって来て大変賑やかなのだが、深まり行く秋とも相俟って焦燥感、寂寥感をも抱かせる。
 乗り換え時に実際に鳥が渡っていたのかなどを詮索する必要はない。この季節感が大事なのだ。「通夜へ行く乗換ホーム」という上五中七と「鳥渡る」という季語が、絶妙に響き合い、なんとも言えない雰囲気を醸し出している。
(水 19.10.13.)

仰向けの蝉のみつめる虚空かな  深瀬 久敬

仰向けの蝉のみつめる虚空かな  深瀬 久敬

『合評会から』(三四郎句会)

照芳 死んだ蝉、みんなひっくり返っている。そんなこと考えながらこの句を選びました。
有弘 無常感が出ていますが、ちょっとやり過ぎかな。
而云 私もそんなことを思ったが、蝉は確かにいろんなことを感じさせます。
久敬(作者) 死んでいると思ったら、生きていてパッと飛んでいくのもいますよ。
       *       *       *
 バス停から家に帰る途中に横切る小公園でよく蝉の遺骸を見つける。たしかにみんな仰向けになっていた。彼らは空中を飛び、木の枝にとまりながら生きていた。死んだ後、かつての活躍の場を眺めようと、上を向いているのだろうか。
 作者の「死んでいると思ったら、生きていてパッと飛んでいくのもいる」というコメントが面白い。確かにそんな場面を見た記憶があり、その時は「元気のいい奴だ」と思った。しかし飛んで行った蝉はすぐに死んでしまうはずである。そしてどの蝉も「虚空」を見つめているのだ。
(恂 19.10.11.)

白萩の猛然と咲く庭の隅     堤 てる夫

白萩の猛然と咲く庭の隅     堤 てる夫

『合評会から』(番町喜楽会)

水牛 「猛然と」という激しい形容に異論もあると思いますが、手弱女ぶりを見せて実はモーレツな萩の生態を詠んで面白い。
而云 「猛然と」がユニーク。白萩のパワーに満ちている。
水兎 「猛然」が素晴らしいです。生えてきたなと思ったら、あれよあれよの間にもっさりと道を塞いでいく感じが、まさにそのとおりです。
       *       *       *
 どの選者も「猛然と」に惹かれてこの句を選んでいる。この萩は作者の庭の生垣のそばに生え、まさに「猛然と」と表現するしかない繁茂状態らしい。三人の選者も「萩ってけっこう激しいんだよなあ」と作者に同感しているようだ。
 筆者もこの句を選んだが、草花を「猛然と」と形容することに違和感を覚える一方、この刺激のある尖った言葉をあえて使った、作者の表現テクニックを評価して一票を投じた。作者や三人の選者が萩の生態をよく知るのに対して、筆者はより観念的に捉えていたと反省した。写生とはこういうことだと教えられた気がする。
(可 19.10.10.)

星月夜ブラックホールは何処かな 池内 的中

星月夜ブラックホールは何処かな 池内 的中

『この一句』

 読んだと同時に深遠な世界に引き込まれ、しばし星座の中を漂った気分になった。言うまでもなく、秋の夜の景である。ただ、空に月はない。しかし、地上は煌煌としている。道行く人の影も濃い。満天に星が輝いているからだ。そして、その星と星の間に目を凝らせば、見えないものが見えてくる。ブラックホールである。
 もとより、暗闇に浮かび上がったブラックホールは想像の産物である。だが、ひたすらその虚像に見入っていると、宇宙の起源や生命の誕生などへの想いが浮かんでくる。探査機の「はやぶさ」に小惑星「リュウグウ」…、日本の技術が宇宙で活躍している。「失われた二十年」というのは嘘のようだ。世の中は一体、どうなっているのか。
 かつて「甘草の芽のとびとびの一とならび」なる句を巡って論争があったとか。もとより、身辺雑記の写生の句も悪くはない。しかしやはり、このブラックホールの広大無辺さにはかなうまい。蛇足的に注文をつければ、下五は「かな」という詠嘆あるいは疑問でなく、「何処にある」とぶつける方が現代的で、切れもいいのではないか。
(光 19.10.09.)

枝豆やあぐらの父の笑ひ顔   池村 実千代

枝豆やあぐらの父の笑ひ顔   池村 実千代

『合評会から』(日経俳句会)

昌魚 「あぐらの父」がいいですねえ。死んだオヤジを思い出します。
三代 私も「あぐらの父」です。枝豆を食べながらナイターなんか見ながら笑っているんですね。
好夫 素晴らしいなあ。世界の平和の元じゃないか(笑)。
木葉 ほのぼのとした光景が見えて気持ちが良い。
荻野 「あぐら」が印象的で、父親の姿勢を表している。
博明 「枝豆」「あぐら」「笑ひ声」とどれをとってもお父さんのイメージ。
明生 酒好きなお父さんが家族や仲間と談笑している様子が伝わってきます。
阿猿 ぱっと景が浮かび、懐かしくなる句。お酒やビールに直接言及していないのもいい。
       *      *       *
 昭和の父の香りが漂い、ほのぼのとした雰囲気が郷愁を誘ったのか、この句会の最高点を獲得した。この句には、温かな家庭で大事に育てられたと推察される作者が居る。茹でたての枝豆の湯気に幸せがふくらむようだ。
(双 19.10.08.)

納骨を済ませし座敷秋の声    中村 迷哲

納骨を済ませし座敷秋の声    中村 迷哲

『合評会から』(日経俳句会)

好夫 納骨を済ませて家に帰ってきて、ほっとした情景がよく出ている。
ゆり 知り合いが年末にお母さんを亡くした。ゴールデンウイークに会った時、まだ納骨をしていないのと話したのを思い出しました。
百子 ほっとしたのでしょう。そんな時に秋の風が吹いてきた。作者には故人の声が聞こえたのではないでしょうか。
       *       *       *
 死者は七日目に三途の川を渡って彼の世の入口あたりをさ迷い、以後七日ごとに閻魔の庁の取り調べを受け、四十九日目に彼の世で住むべき場所が決められる。どうぞ故人を極楽浄土に住まわせて下さいと、親族や縁者一同法要を行い、尊いお経を上げて仏様に祈る。そして、遺骨を墓石の下や納骨堂に安置して「忌明け」。これが今日の“葬式仏教”の一般的な流れである。
 作者は故人の家を、葬儀後何ヶ月かたってまた弔問した。納骨を済ませた座敷は、骨壺を中心に飾られていた祭壇が片付けられ、すっかり広くなってさやさやと秋の風が吹き通っていた。寂しいような、きっぱりとしたような気持になる。
(水 19.10.07.)