瀬戸内の旬とりどりに祭ずし 中村 迷哲
瀬戸内の旬とりどりに祭ずし 中村 迷哲
『合評会から』(番町喜楽会)
水兎 「色とりどりに」というところを「旬とりどりに」とひねったのでしょうか。生魚をあまり食べないのでわからないですが。「幸とりどり」でも良かったかも。
双歩 瀬戸内の旬の海産物をちりばめたばら寿司、とても美味しそうですね。祭ずしは岡山の郷土料理とか。
迷哲(作者) 岡山に出張に行った時に食べました。とても綺麗で美味しかったです。季節によって載せるものが少しずつ違うようです。
* * *
岡山名物の祭ずしは、瀬戸内の魚介や地の野菜をふんだんに敷き詰めている。もともと岡山は気候よく物なりのよい所。江戸期「庶民らは一汁一菜にせよ」との岡山藩主の倹約令が出た。庶民は魚・野菜をちらし寿司の具にして、「これで一菜です」と役人の目をかわしたのが始まりという。それも大半の具を飯の中に押し込み、見た目も質素に装ったという話まで。鰆、海老、穴子に椎茸、蓮根、人参など十種あまりを満載し、浅い桶に入れた祭ずしは見るからに豪華。現在は桃の形のプラスチック入り駅弁としても人気を得ているということだ。
この句には食いしん坊ならずとも惹きつけられる。祭でもてなされる客になったような気分がする。「旬」の一語が具の飛びぬけた新鮮さを語っている。
(葉 25.05.15.)
『合評会から』(番町喜楽会)
水兎 「色とりどりに」というところを「旬とりどりに」とひねったのでしょうか。生魚をあまり食べないのでわからないですが。「幸とりどり」でも良かったかも。
双歩 瀬戸内の旬の海産物をちりばめたばら寿司、とても美味しそうですね。祭ずしは岡山の郷土料理とか。
迷哲(作者) 岡山に出張に行った時に食べました。とても綺麗で美味しかったです。季節によって載せるものが少しずつ違うようです。
* * *
岡山名物の祭ずしは、瀬戸内の魚介や地の野菜をふんだんに敷き詰めている。もともと岡山は気候よく物なりのよい所。江戸期「庶民らは一汁一菜にせよ」との岡山藩主の倹約令が出た。庶民は魚・野菜をちらし寿司の具にして、「これで一菜です」と役人の目をかわしたのが始まりという。それも大半の具を飯の中に押し込み、見た目も質素に装ったという話まで。鰆、海老、穴子に椎茸、蓮根、人参など十種あまりを満載し、浅い桶に入れた祭ずしは見るからに豪華。現在は桃の形のプラスチック入り駅弁としても人気を得ているということだ。
この句には食いしん坊ならずとも惹きつけられる。祭でもてなされる客になったような気分がする。「旬」の一語が具の飛びぬけた新鮮さを語っている。
(葉 25.05.15.)
花の雨曲輪はるかに古戦場 廣田 可升
花の雨曲輪はるかに古戦場 廣田 可升
『合評会から』(久留里線吟行句会)
迷哲 久留里城の二の丸薬師曲輪から眺めた上総の山野は、まさに春爛漫。城にはミツバツツジが満開で、戦国の世に攻防の舞台になったとは思えない長閑さでした。
光迷 久留里城の二の丸からの絶景ですね。しばし戦国時代に想いを馳せました。
愉里 雨城からの眺めは格別でした。眼下の街道や田んぼが史実を感じさせ、「はるかに」は距離でなく時間ととりました。
三薬 あの展望は、古里自慢のネタに十分。
* * *
四月半ば、句友の誘いを受け、房総半島のほぼ真ん中にある久留里界隈を散策した。戦国時代、里見氏が拠点とした久留里城の二の丸は、東京湾方面に向かって開け、眼下に三の丸の御殿跡や北条氏との古戦場跡などを一望できる。その光景と感動を的確に言い留めた佳句である。
花の雨とは、花時の冷たい雨あるいは桜の花に降る雨のこと、花が雨の如く降ることではない。ちなみに久留里線の一部に廃線計画があるが、この界隈は神社仏閣に酒蔵、自噴の井戸や古民家再生のカフェなど句材も豊富な里山。ぜひとも足を運んでみてほしい。
(光 25.05.13.)
『合評会から』(久留里線吟行句会)
迷哲 久留里城の二の丸薬師曲輪から眺めた上総の山野は、まさに春爛漫。城にはミツバツツジが満開で、戦国の世に攻防の舞台になったとは思えない長閑さでした。
光迷 久留里城の二の丸からの絶景ですね。しばし戦国時代に想いを馳せました。
愉里 雨城からの眺めは格別でした。眼下の街道や田んぼが史実を感じさせ、「はるかに」は距離でなく時間ととりました。
三薬 あの展望は、古里自慢のネタに十分。
* * *
四月半ば、句友の誘いを受け、房総半島のほぼ真ん中にある久留里界隈を散策した。戦国時代、里見氏が拠点とした久留里城の二の丸は、東京湾方面に向かって開け、眼下に三の丸の御殿跡や北条氏との古戦場跡などを一望できる。その光景と感動を的確に言い留めた佳句である。
花の雨とは、花時の冷たい雨あるいは桜の花に降る雨のこと、花が雨の如く降ることではない。ちなみに久留里線の一部に廃線計画があるが、この界隈は神社仏閣に酒蔵、自噴の井戸や古民家再生のカフェなど句材も豊富な里山。ぜひとも足を運んでみてほしい。
(光 25.05.13.)
若草を分けて一両列車行く 向井 愉里
若草を分けて一両列車行く 向井 愉里
『合評会から』(日経俳句会)
青水 季語が持つ若々しさが心地良く、一読直ちに情景が浮かぶ。
戸無広 若草が「分けて」と言うほど長いかどうか疑問に思いましたが、田舎の風景を連想させていい句だ。
鷹洋 絵にかいたようなメルヘン。
操 若草の中、気分も高ぶる光景。列車の音が聞こえてくる。
光迷 つい先日、一両ディーゼルに乗った。線路の間にも若草が生えてました。
双歩 確かにローカル線なら枕木の間にポッポッと生えているかな。
迷哲 やはり分けて行くというイメージと若草の間に違和感があります。若草は芽生えたばかりの印象。夏草を分けてなら分かるのですが。
三薬 同感です。
愉里(作者) 若草の中にとするのも何だか平凡な気がして、遠景のイメージとしてなら、分けてもありかなと思いました。
* * *
単線が一本、見はるかす若草の野を左右に分けて走って行くのだから「分けて」の表現は問題無かろう。ただ、私が首を捻ったのは「一両でも列車とはこれ如何に」だ。この疑問に対しては「一両車両では訳が分からない。電車なら一両電車でいいが、電車でないとやっぱり列車と言うしかない。一両ディーゼル車では長くなっちゃうし」(双歩)、「色々考えたが、結論として一両列車でいくしかない」(三薬)ということで確答の無いまま終わった。日本語は難しい。
(水 25.05.11.)
『合評会から』(日経俳句会)
青水 季語が持つ若々しさが心地良く、一読直ちに情景が浮かぶ。
戸無広 若草が「分けて」と言うほど長いかどうか疑問に思いましたが、田舎の風景を連想させていい句だ。
鷹洋 絵にかいたようなメルヘン。
操 若草の中、気分も高ぶる光景。列車の音が聞こえてくる。
光迷 つい先日、一両ディーゼルに乗った。線路の間にも若草が生えてました。
双歩 確かにローカル線なら枕木の間にポッポッと生えているかな。
迷哲 やはり分けて行くというイメージと若草の間に違和感があります。若草は芽生えたばかりの印象。夏草を分けてなら分かるのですが。
三薬 同感です。
愉里(作者) 若草の中にとするのも何だか平凡な気がして、遠景のイメージとしてなら、分けてもありかなと思いました。
* * *
単線が一本、見はるかす若草の野を左右に分けて走って行くのだから「分けて」の表現は問題無かろう。ただ、私が首を捻ったのは「一両でも列車とはこれ如何に」だ。この疑問に対しては「一両車両では訳が分からない。電車なら一両電車でいいが、電車でないとやっぱり列車と言うしかない。一両ディーゼル車では長くなっちゃうし」(双歩)、「色々考えたが、結論として一両列車でいくしかない」(三薬)ということで確答の無いまま終わった。日本語は難しい。
(水 25.05.11.)
縄文のヴィーナス見上ぐ春の月 岩田 千虎
縄文のヴィーナス見上ぐ春の月 岩田 千虎
『この一句』
縄文のヴィーナスとは長野県茅野市の縄文遺跡から出土した土偶のこと。高さは27センチ、妊婦をかたどったと見られる豊満な女性像である。初めて国宝に指定された縄文土偶として知られ、鼻筋の通った顔に目と口が刻まれ、心持ち上を向いている。
掲句はそのヴィーナスに春の月を見上げさせ、古代ロマンあふれる雰囲気を醸している。この土偶を知らなくても、縄文のヴィーナスという言葉から、太古の女神がイメージされる。そこに縄文時代はもとより数十億年前から地球を照らしてきた月を取合せ、読者を悠久の世界に誘う。
土偶と埴輪は混同されがちだが、作られた時代と目的が違う。土偶は縄文時代に豊作や子孫繁栄を願って作られた素焼の人形で、大半は女性像である。国宝に指定されている5点も、ヴィーナスのほか、「縄文の女神」「仮面の女神」といった呼び名で知られる。埴輪は古墳時代に墳墓の副葬品として作成された焼き物のこと。死者が不自由しないよう家や人、武具、動物などを墓の回りに並べたとされる。
作者は土偶が好きで、方々に出かけて見学しているという。句会では「はっきり上を向いているのは縄文の女神の方だが、語呂が良かったのでヴィーナスにした」と説明していた。縄文の女神でも句としては十分成立すると思うが、ヴィーナスの方が、月との親和性が高い。英語でヴィーナスは金星を指す。宵の空と明けの空で明るく輝き、月と近接して見えることも多い。縄文の土偶は月と金星を一緒に見上げていたのかもしれない。
(迷 25.05.09.)
『この一句』
縄文のヴィーナスとは長野県茅野市の縄文遺跡から出土した土偶のこと。高さは27センチ、妊婦をかたどったと見られる豊満な女性像である。初めて国宝に指定された縄文土偶として知られ、鼻筋の通った顔に目と口が刻まれ、心持ち上を向いている。
掲句はそのヴィーナスに春の月を見上げさせ、古代ロマンあふれる雰囲気を醸している。この土偶を知らなくても、縄文のヴィーナスという言葉から、太古の女神がイメージされる。そこに縄文時代はもとより数十億年前から地球を照らしてきた月を取合せ、読者を悠久の世界に誘う。
土偶と埴輪は混同されがちだが、作られた時代と目的が違う。土偶は縄文時代に豊作や子孫繁栄を願って作られた素焼の人形で、大半は女性像である。国宝に指定されている5点も、ヴィーナスのほか、「縄文の女神」「仮面の女神」といった呼び名で知られる。埴輪は古墳時代に墳墓の副葬品として作成された焼き物のこと。死者が不自由しないよう家や人、武具、動物などを墓の回りに並べたとされる。
作者は土偶が好きで、方々に出かけて見学しているという。句会では「はっきり上を向いているのは縄文の女神の方だが、語呂が良かったのでヴィーナスにした」と説明していた。縄文の女神でも句としては十分成立すると思うが、ヴィーナスの方が、月との親和性が高い。英語でヴィーナスは金星を指す。宵の空と明けの空で明るく輝き、月と近接して見えることも多い。縄文の土偶は月と金星を一緒に見上げていたのかもしれない。
(迷 25.05.09.)
雨降りと知れば二度寝の春の朝 植村 方円
雨降りと知れば二度寝の春の朝 植村 方円
『合評会から』(日経俳句会)
実千代 春のまったりした気分を上手に詠んでいます。
千虎 その気持分かります。ゴルフの時に雨だとしたら、私も絶対二度寝するだろうなと思う。
青水 「春眠暁を覚えず」が下敷きになっているのでしょう。雨が降っている春の朝をユーモラスに上手く詠んでいます。
朗 人間も啓蟄、虫のように春は外出したくなりますが、生憎の雨で二度寝。同感です。
三薬 私の場合、雨が降っていようがいまいが、二度寝が多いのです。「そうだよね」という気持で採りました。
てる夫 我が身に当てはめて言えば、こういうことをやりそうな感じがするという印象です。
枕流 春眠暁を覚えず、出かける気がなくなればなおさらです。
* * *
朝寝坊が何より好きな私は、朝早く集合のかかる吟行や催し物が大の苦手だ。
「ああ起きなければ」と、ふらふら起き上がり、雨戸を開けたら雨。これぞ天恵とまた布団に潜り込む。まさに至福。選句表にこの句を見つけ、似た人もいるもんだなあと、真っ先に採った。
(水 25.05.07.)
『合評会から』(日経俳句会)
実千代 春のまったりした気分を上手に詠んでいます。
千虎 その気持分かります。ゴルフの時に雨だとしたら、私も絶対二度寝するだろうなと思う。
青水 「春眠暁を覚えず」が下敷きになっているのでしょう。雨が降っている春の朝をユーモラスに上手く詠んでいます。
朗 人間も啓蟄、虫のように春は外出したくなりますが、生憎の雨で二度寝。同感です。
三薬 私の場合、雨が降っていようがいまいが、二度寝が多いのです。「そうだよね」という気持で採りました。
てる夫 我が身に当てはめて言えば、こういうことをやりそうな感じがするという印象です。
枕流 春眠暁を覚えず、出かける気がなくなればなおさらです。
* * *
朝寝坊が何より好きな私は、朝早く集合のかかる吟行や催し物が大の苦手だ。
「ああ起きなければ」と、ふらふら起き上がり、雨戸を開けたら雨。これぞ天恵とまた布団に潜り込む。まさに至福。選句表にこの句を見つけ、似た人もいるもんだなあと、真っ先に採った。
(水 25.05.07.)
若草や才女と云われし日の遠く 廣上 正市
若草や才女と云われし日の遠く 廣上 正市
『この一句』
まんまと騙された句である。「才女と云われし」と言うから、作者はてっきり女性と思ってしまった。あとで作者名を知ったとき、ああやられたなあという気分に包まれた。なるほど、「なりすまし句」というジャンルはある。自身の心情を詠むのが俳句の約束事だがそればかりとは限らない。擬人法などはもの言わぬ物に感情をもたせて、たとえば花鳥風月がこう思っているのだと詠む手法だ。これは常識的に虚構であるとすぐ分かる。男が女の心情、女が男の心情を詠んだ句を読んでも、ただちに「なりすまし」と看破するのはむずかしい。完成度の高い句であればあるほど騙される。
掲句は4月の日経俳句会で最高点を取った句である。選句表を目の前にして、男の作と見破った句友がいったい何人いたか、興味があるところだ。獲得8票のうち、6票が男性だったというのが面白い。才女と自認している女性でもない限り、ちょっと嫌味な句と思ったに違いない。世間から才女と言われ続け、人生の成功をそれなりに得たはずなのに、今の私の境遇は満足できるものではないという心情が漂う。飛躍して言うと、作者は「若草」の兼題にオルコットの小説『若草物語』がちらついたのではと推理する。四人姉妹の次女ジョンは挫折を味わった末、小説家として世に出る。この彼女の不遇時代に仮託した句だと思えるのである。才女に憧れを抱く、およそ世間の男の潜在心理を衝いて、見事に騙し切った句と思う。
(葉 25.05.05.)
『この一句』
まんまと騙された句である。「才女と云われし」と言うから、作者はてっきり女性と思ってしまった。あとで作者名を知ったとき、ああやられたなあという気分に包まれた。なるほど、「なりすまし句」というジャンルはある。自身の心情を詠むのが俳句の約束事だがそればかりとは限らない。擬人法などはもの言わぬ物に感情をもたせて、たとえば花鳥風月がこう思っているのだと詠む手法だ。これは常識的に虚構であるとすぐ分かる。男が女の心情、女が男の心情を詠んだ句を読んでも、ただちに「なりすまし」と看破するのはむずかしい。完成度の高い句であればあるほど騙される。
掲句は4月の日経俳句会で最高点を取った句である。選句表を目の前にして、男の作と見破った句友がいったい何人いたか、興味があるところだ。獲得8票のうち、6票が男性だったというのが面白い。才女と自認している女性でもない限り、ちょっと嫌味な句と思ったに違いない。世間から才女と言われ続け、人生の成功をそれなりに得たはずなのに、今の私の境遇は満足できるものではないという心情が漂う。飛躍して言うと、作者は「若草」の兼題にオルコットの小説『若草物語』がちらついたのではと推理する。四人姉妹の次女ジョンは挫折を味わった末、小説家として世に出る。この彼女の不遇時代に仮託した句だと思えるのである。才女に憧れを抱く、およそ世間の男の潜在心理を衝いて、見事に騙し切った句と思う。
(葉 25.05.05.)
かげろふの奥へ奥へと友ゆけり 大澤 水牛
かげろふの奥へ奥へと友ゆけり 大澤 水牛
『この一句』
丑年生まれの二人が俳句振興を目指して設立したのが双牛舎。この句はその片方の老化を嘆くもう一方の俳人が、一日でも永くこっちに留まってくれよと、その友がこの句を鑑賞することを前提として詠んだ、絶叫の句であり、かつ非情な句である。この句が発表された句会では、作者を事前に知っていて、この句の本意が分かっていた幹事以外の出席者は、戸惑いも手伝って誰一人、点を入れなかった。ボクもその一人だ。
幹事が句会合評会でこの句について一言、「わたしは作者が分かっていましたので、採りました」と白状したとたん、句会の席は一瞬にして時が止った。やや曖昧なところのあるこの句の本意を全員が瞬時に理解したのだ。そしてこの句の凄さに打たれた。この句を詠み、発表した作者の俳人としての非情なる矜持に打たれ、声も出なかったのだ。
敢えて難癖をつけると、末尾の「ゆけり」が俳句としてあいまいさを残している。実はボクはこれを「逝けり」だと解釈し、なぜ漢字にしなかったのかなあと思い、点を入れなかったのだ。この句は素直に詠めば哀悼句である。季語の持つ味わい深さにおっかぶせて「奥へ奥へと」と語を足して友を悼んでいる、と詠むのが穏当なところだろう。
ところがこの「友」は句会メンバーにとっては今も現役の師匠であり、明日の句会にもひょっこり出席しそうな先達のことであった。しかし、明晰な頭脳が寄る年波によって影響を受け、今では句会の日取りと場所すら忘れてしまうようになった。無二の友である作者はそれを痛ましく思いながら、「かげろふ状態」とはっきり詠んだのだ。
しかし、その老牛師は極めて元気で日常生活には何の問題も無いという。近いうちに「これが俳句だ、どうだ」と洒脱な返句を披露するに違いない、と、ボクは願っています。師匠!がんばってください!
(青 25.05.03.)
『この一句』
丑年生まれの二人が俳句振興を目指して設立したのが双牛舎。この句はその片方の老化を嘆くもう一方の俳人が、一日でも永くこっちに留まってくれよと、その友がこの句を鑑賞することを前提として詠んだ、絶叫の句であり、かつ非情な句である。この句が発表された句会では、作者を事前に知っていて、この句の本意が分かっていた幹事以外の出席者は、戸惑いも手伝って誰一人、点を入れなかった。ボクもその一人だ。
幹事が句会合評会でこの句について一言、「わたしは作者が分かっていましたので、採りました」と白状したとたん、句会の席は一瞬にして時が止った。やや曖昧なところのあるこの句の本意を全員が瞬時に理解したのだ。そしてこの句の凄さに打たれた。この句を詠み、発表した作者の俳人としての非情なる矜持に打たれ、声も出なかったのだ。
敢えて難癖をつけると、末尾の「ゆけり」が俳句としてあいまいさを残している。実はボクはこれを「逝けり」だと解釈し、なぜ漢字にしなかったのかなあと思い、点を入れなかったのだ。この句は素直に詠めば哀悼句である。季語の持つ味わい深さにおっかぶせて「奥へ奥へと」と語を足して友を悼んでいる、と詠むのが穏当なところだろう。
ところがこの「友」は句会メンバーにとっては今も現役の師匠であり、明日の句会にもひょっこり出席しそうな先達のことであった。しかし、明晰な頭脳が寄る年波によって影響を受け、今では句会の日取りと場所すら忘れてしまうようになった。無二の友である作者はそれを痛ましく思いながら、「かげろふ状態」とはっきり詠んだのだ。
しかし、その老牛師は極めて元気で日常生活には何の問題も無いという。近いうちに「これが俳句だ、どうだ」と洒脱な返句を披露するに違いない、と、ボクは願っています。師匠!がんばってください!
(青 25.05.03.)
花の下安吾は仏と宴する 藤野十三妹
花の下安吾は仏と宴する 藤野十三妹
『この一句』
やや難解だが、奇妙な魅力を持つ句である。安吾とは無頼派作家の坂口安吾であろう。安吾と桜と言えば代表作のひとつ「桜の森の満開の下」が知られる。山賊と美しい妻との幻想的な怪奇譚で、満開の桜の下で鬼と思って殺したら妻だったという話である。
掲句はこの短編小説を踏まえて、満開の桜を愛でながら、安吾が死者と仲良く宴を開くという想像の場面を詠んでいる。幻想小説を下敷きにした幻想句なのに、そんなこともあるかと思わせる不思議な味わいがある。
この句の背景には、桜に重ねてきた日本人の死生観があるように思う。平安時代の歌人西行は、如月満月の頃に「願はくば花の下にて春死なむ」と詠み、作家の梶井基次郎は小説の冒頭に「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」と書いた。歳時記を見ても「明日は死ぬ花の地獄と思ふべし 佐藤鬼房」、「夜桜に集ふは生者のみならず 北川玉樹」など桜と死を詠んだ句が載っている。
日本人は桜が一斉に咲き、短い盛りを過ぎて散ってゆく様に、死と滅びのイメージを重ねてきたのであろう。散る(死ぬ)なら桜のように潔くという観念が、軍国主義に利用された時代もあった。そんな日本人の意識が、掲句の世界をあり得ると思わせるのではなかろうか。彼岸と此岸を行き来して死者と交流するというのは、これまた日本の伝統的観念である。
(迷 25.05.01.)
『この一句』
やや難解だが、奇妙な魅力を持つ句である。安吾とは無頼派作家の坂口安吾であろう。安吾と桜と言えば代表作のひとつ「桜の森の満開の下」が知られる。山賊と美しい妻との幻想的な怪奇譚で、満開の桜の下で鬼と思って殺したら妻だったという話である。
掲句はこの短編小説を踏まえて、満開の桜を愛でながら、安吾が死者と仲良く宴を開くという想像の場面を詠んでいる。幻想小説を下敷きにした幻想句なのに、そんなこともあるかと思わせる不思議な味わいがある。
この句の背景には、桜に重ねてきた日本人の死生観があるように思う。平安時代の歌人西行は、如月満月の頃に「願はくば花の下にて春死なむ」と詠み、作家の梶井基次郎は小説の冒頭に「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」と書いた。歳時記を見ても「明日は死ぬ花の地獄と思ふべし 佐藤鬼房」、「夜桜に集ふは生者のみならず 北川玉樹」など桜と死を詠んだ句が載っている。
日本人は桜が一斉に咲き、短い盛りを過ぎて散ってゆく様に、死と滅びのイメージを重ねてきたのであろう。散る(死ぬ)なら桜のように潔くという観念が、軍国主義に利用された時代もあった。そんな日本人の意識が、掲句の世界をあり得ると思わせるのではなかろうか。彼岸と此岸を行き来して死者と交流するというのは、これまた日本の伝統的観念である。
(迷 25.05.01.)
配達のピザここだ此処花筵 玉田 春陽子
配達のピザここだ此処花筵 玉田 春陽子
『合評会から』(番町喜楽会)
青水 これは、ウーバーの配達でしょう。「花筵」は、上野公園かな。気の利いた時事句だと思います。
迷哲 現代の花見風景ですね。「ここだ、ここだ」と立ち上がって合図する景が、生き生きと描かれています。
木葉 ウーバーなどの配達はどこへでも行く。花見の場所にもピザ到着。「ここだ、ここだよ」と呼ばう姿が見える、今日的な句。
可升 やりすぎでしょう(笑)。最後まで採るか採らないか迷いました。「ここだ此処」という措辞がいかにも読み手の笑いを誘おうとしている感じがします。
* * *
芭蕉の「木のもとに汁も鱠も桜かな」という名句は、「かるみ」という言葉を最初に付した句として知られている。汁や膾という卑近な食べ物を題材にして、俗を雅に謳いあげたという。
芭蕉と比べられても作者は戸惑うだろうが、掲句はどうだろう。今日の花見の一断面を、まるでその場に居るかのような臨場感あふれる描写で詠んだ。ピザのデリバリーは、客の携帯番号さえ把握できれば、花見の席など屋外でも配達してくれる。「ピザの配達」という現代の俗を巧みに取り入れ、作者らしい目の付け所が光る一句。
(双 25.04.30.)
『合評会から』(番町喜楽会)
青水 これは、ウーバーの配達でしょう。「花筵」は、上野公園かな。気の利いた時事句だと思います。
迷哲 現代の花見風景ですね。「ここだ、ここだ」と立ち上がって合図する景が、生き生きと描かれています。
木葉 ウーバーなどの配達はどこへでも行く。花見の場所にもピザ到着。「ここだ、ここだよ」と呼ばう姿が見える、今日的な句。
可升 やりすぎでしょう(笑)。最後まで採るか採らないか迷いました。「ここだ此処」という措辞がいかにも読み手の笑いを誘おうとしている感じがします。
* * *
芭蕉の「木のもとに汁も鱠も桜かな」という名句は、「かるみ」という言葉を最初に付した句として知られている。汁や膾という卑近な食べ物を題材にして、俗を雅に謳いあげたという。
芭蕉と比べられても作者は戸惑うだろうが、掲句はどうだろう。今日の花見の一断面を、まるでその場に居るかのような臨場感あふれる描写で詠んだ。ピザのデリバリーは、客の携帯番号さえ把握できれば、花見の席など屋外でも配達してくれる。「ピザの配達」という現代の俗を巧みに取り入れ、作者らしい目の付け所が光る一句。
(双 25.04.30.)
昭和の日沈没船に住む魚 星川 水兎
昭和の日沈没船に住む魚 星川 水兎
『季のことば』
「昭和の日」。季語として新しい。昭和天皇の誕生日4月月29日を祝日として、平成19年に新設された。いま昭和ブームである。昭和の世を知らないZ世代(1997年度~2012年度生まれを言うようだ)などが火付け役となっている。わずかに残る昭和の街並み、昔ながらの遊具、古い家電製品などに新鮮さを感じるという。母親世代がカラオケで歌う昭和ホップスも娘息子を惹きつける。終戦直後に育ったわれわれ老頭児(ロートル)が「昭和」と聞けば、太平洋戦争とその後の高度成長をイメージする。受験競争、交通戦争、モーレツ勤務を経験し、良くも悪くも昭和の残滓が身に付いている。
そのなかで常に思い起こさなければならないのが戦争の惨禍。それゆえ米英など連合国と闘い、軍民あわせて310万人の犠牲を出したことを忘れるわけにはいかない。旧日本軍が侵攻した南方などの海には、撃沈された艦船内に30万柱の遺骨が残るという。
作者は昭和の日にあたって、沈没船のなかに今なお眠る遺骨に思いを馳せたのだ。収容は深海の環境下にはばまれ容易ではなく、政府も手をつかねている状況だ。沈没船の船内には様々な魚が遊弋していることだろう。南の海であれば色鮮やかな魚が泳ぐさまは、逆にいっそう哀れさを誘う。昭和の日にこの情景を想起したのは、作者の非凡な想像力と思う。愛犬の名前モーゼを借りてものした作者の秀句、「野分立つ犬のモーゼと草の原」を思い出す。
(葉 25.04.28.)
『季のことば』
「昭和の日」。季語として新しい。昭和天皇の誕生日4月月29日を祝日として、平成19年に新設された。いま昭和ブームである。昭和の世を知らないZ世代(1997年度~2012年度生まれを言うようだ)などが火付け役となっている。わずかに残る昭和の街並み、昔ながらの遊具、古い家電製品などに新鮮さを感じるという。母親世代がカラオケで歌う昭和ホップスも娘息子を惹きつける。終戦直後に育ったわれわれ老頭児(ロートル)が「昭和」と聞けば、太平洋戦争とその後の高度成長をイメージする。受験競争、交通戦争、モーレツ勤務を経験し、良くも悪くも昭和の残滓が身に付いている。
そのなかで常に思い起こさなければならないのが戦争の惨禍。それゆえ米英など連合国と闘い、軍民あわせて310万人の犠牲を出したことを忘れるわけにはいかない。旧日本軍が侵攻した南方などの海には、撃沈された艦船内に30万柱の遺骨が残るという。
作者は昭和の日にあたって、沈没船のなかに今なお眠る遺骨に思いを馳せたのだ。収容は深海の環境下にはばまれ容易ではなく、政府も手をつかねている状況だ。沈没船の船内には様々な魚が遊弋していることだろう。南の海であれば色鮮やかな魚が泳ぐさまは、逆にいっそう哀れさを誘う。昭和の日にこの情景を想起したのは、作者の非凡な想像力と思う。愛犬の名前モーゼを借りてものした作者の秀句、「野分立つ犬のモーゼと草の原」を思い出す。
(葉 25.04.28.)