はしきれでマスクを縫ひて暖かし 池村実千代

はしきれでマスクを縫ひて暖かし 池村実千代

『この一句』

 マスクは冬の季語だが、今は花粉症対策やインフルエンザ予防もあり、4月くらいまでは使用する人が多い。さらにこの春は新型ウィルス禍で品薄となり、一躍主役に躍り出た生活必需品である。つまり、冬の季感はすでになく、極めて今日的な一般名詞と言える。
 そのマスクを甲府市の中学生が、お年玉などで布を購入し手作りしたマスク約600枚を山梨県に寄付した、と先日報じられた。「この一枚が皆様のお役に立ったら嬉しいです!」とのメッセージ付で高齢者施設などに配られたそうだ。掲句を一読してこの話が浮かび、暖かな気持ちになった。
 一方、使い捨てマスクをネットオークションで高額で売りさばき、900万円近くを売り上げた県議がいた。咎められると「転売した訳ではないから悪いことはしていない」などと嘯く始末。有事の際にこそ人間性が問われるというが、国政を預かる者や首長の言動も今、試されている。
 この春の「暖か」に相応しい一句と思うが、5年後にはこの句は意味不明になるやも知れない。「新型コロナ禍で」とでも前書を付けておくのはどうだろう。
(双 20.04.06.)

通勤のペデストリアンデッキ暖かし 旙山芳之

通勤のペデストリアンデッキ暖かし 旙山芳之

『この一句』

 都市住民にとって「ペデストリアンデッキ」は必要欠くべからざる建築物であり、日ごろ何気なく便利に利用しているにもかかわらず、この名前は案外浸透していない。そのせいもあろう、この句も気の毒に句会で埋もれてしまった。
 大きな駅やスタジアムに併設されている歩行者専用の高架構造物の呼称である。広い道路を渡るだけが目的の歩道橋と異なり、駅と駅前広場に面した大きないくつもの建物の二階を結ぶ、遊歩道と広場を兼ねた空中回廊。高度経済成長時代の73年(昭和48年)、国鉄柏駅東口に生まれたのが元祖と言われ、役所用語では「歩行者専用嵩上式広場」という。その後、関東近県はもとより全国各地の主要駅前にペデストリアンデッキが続々と生まれた。近ごろはベンチや植え込み、トイレのあるデッキもあり、イベント広場まで備えたものもある。
 この句はペデストリアンデッキが結ぶデパートや飲食店を横目に通勤する、まさに今日的情景を詠んで斬新。季節外れの雪が降ろうが北風が吹こうが、ここなら大丈夫。しかし、帰り道は美味そうな匂いに釣られてつい寄り道してしまうのが難点である。
(水 20.04.05.)

花ぐもり骨董店に上がりこみ    岡本 崇

花ぐもり骨董店に上がりこみ    岡本 崇

『この一句』

 骨董とそしてまた俳句に興味を持つ一人として、句を見て「なるほどなぁ」と頷いた。これは実に花曇りの一日の雰囲気である。暖かくなっては来たが、スカッと晴れ渡っているわけではない。その何とも言いようのない花盛りの一日なのだ。家に籠ってテレビを見て過ごすような陽気ではない。ともかく桜でも眺めに行くか、と家を出る。
 折からのコロナウィルスとの関係か、駅前から伸びる桜通りも人通りはまばらである。昨年、一昨年と比べてみると、浮き立つ思いは薄い。たまに覗く骨董店を覗いてみた。親父はいつにない愛想笑いを浮かべ、「ちょうどいいのが出まして」と座布団を勧める。出された江戸末期のぐい飲みを小机に載せ、しばらく眺めながら考えた。
 この雰囲気、何となく花曇りに合っている。楽しくもあり、楽しくもなし。俳句の取合せは難しくもあり、簡単でもある。一時期流行った二物衝撃も、分かったようで、分からぬ面がある。花曇りと骨董店での時間つぶし。これも一つの取合せと思うのだが、この句を分かってくれそうなのは、彼と彼くらいのものかな・・・。作者はまた腕を組む。
(恂 20.04.03.)

酔しれてニンフの誘ひ春の闇   池内 的中

酔しれてニンフの誘ひ春の闇   池内 的中

『この一句』

 三月句会がコロナ禍でメール句会になってしまい、作者の弁が聞けなかったのが残念だったが、実になんとも呑気で、うららかで、少し危なっかしい半平太である。「こういう経験は過去、多々ありましたが、楽しい夢はすぐ覚めて現実に引き戻されます」(命水)という句評が寄せられ、善良なる小市民であることが明らかになって、思わず笑い出してしまう。
 今やその小市民は「密閉・密集・密接のバーやナイトクラブ、酒場には行かないように」と言われている。「へんっ、アベカワモチにツケマツゲのばばあにそんなこと言われたくねーや」(筆者が言っているのではない。買物に出かけた街中で小耳に挟んだ言葉である)。とにかく、元気な中高年サラリーマンは「自粛、自粛」にうんざり、鬱屈している。
 この句は二月下旬の作品。つまり横浜港にコロナ船が入港して大騒ぎになったものの、地上ではまだまだ平安な春の宴が繰り広げられていた頃である。「くよくよ」「鬱々」「いらいら」といった言葉が溢れる今、この句を改めて読むと、「いいなあ」とつぶやいてしまう。わずか二ヵ月前が遠い昔のようだ。
(水 20.04.02.)

撥ねて散る洗車の水の春もよう  岡田 鷹洋

撥ねて散る洗車の水の春もよう  岡田 鷹洋

『合評会から』(酔吟会)

涸魚 水のしぶきの中にきらめく春の光が目に見えるよう。
道子 春らしく軽やかに水が跳ねる風景が見え躍動感がある。
睦子 汚れを流した水が陽を浴びて光る、気持ち良くきれいな句。
春陽子 撥ね散る水を「春もよう」と捉えたところが素晴らしい。
       *     *     *
 この日の句会はコロナウイルスのせいでメール句会となった。当然、句評もメールで送信されたわけだが、悔しいのであえて「合評会」が開催されたような体裁にしてみた。
 作者によれば、散歩の途中で“おっさん”が腕まくりをして、せっせと愛車を洗っているのに出合ったとのこと。暖かな陽気で撥ねる水さえ嬉しそうに見え、作者自身も春が来たことを実感したという。
 句に表現されたものは、水を「春もよう」と捉えたことで、春の到来に浮かれた気分というよりは、もっと繊細な喜びをあらわしているようにみえる。少し沈んだ世相だからこそ、こういう明るい句に救われる気がする。
(可 20.04.01.)

静まりし放課後の庭暮れかぬる  和泉田 守

静まりし放課後の庭暮れかぬる  和泉田 守

『おかめはちもく』

 季語は「暮れかぬる」である。「遅日」の傍題として「暮遅し」などと並んでいる。春になって日が伸び、「春日遅々として暮れかねること」(角川歳時記)を意味する。掲句は放課後の校庭に子供たちの姿がなく、静まり返っている様子を詠む。普段ならクラブ活動や友達と遊ぶ子供らでにぎわっている校庭が、なぜか誰もおらず、声も聞こえない。日暮れが遅くなり、まだ時間も日差しもたっぷり残っているだけに、かえって淋しさが募る。
 評者は、新型コロナウイルス対策で急きょ実施された一斉休校を詠んだ句と見た。時事用語を使わずに、子供たちの姿が消えた校庭を描写し、遅々として暮れない春の日のもの悲しさを重ねる。時事句と声高に主張せずに、ソフトに世相を詠んだ句と思い、迷わず票を入れた。
 ところが句会では評者以外の点は入らなかった。「放課後の庭」の表現から、生徒が皆下校した校庭を詠んだと見られたのであろう。「休校の庭」とか「無人校庭」とかの言葉を使った方が、句意が明確になったのかも知れない。
(迷 20.03.31.)

初午に地口行灯朱の鳥居     久保 道子

初午に地口行灯朱の鳥居     久保 道子

『合評会から』(酔吟会)

春陽子 初午の宵のなまめかしい色を感じます。中七以降、一気に読ませる調べが心地良い。
水兎 あの行灯、江戸時代のままの駄洒落で、とても楽しいですよね。
操 五穀豊穣などを祈る神事の情景。神秘的である。
          *       *       *
 初午は二月の最初の午の日に、京都の伏見稲荷を中心に全国のお稲荷さんで行われる祭。お稲荷さんは元々は農業神だったが、徳川時代になると商業の神様となって、江戸の町々には稲荷社が設けられ、「江戸に多きもの、伊勢屋稲荷に犬の糞」とまで言われた。今でも東京の町には至る所に稲荷社が残っている。
 地口とは「恐れ入谷の鬼子母神」「杏より梅が安い(案ずるより生むが安し)」といった洒落、言葉遊びで、それを書いた行灯を稲荷社の参道に立て並べた。そこに火が入ると朱色の行灯柱や鳥居に映えて美しい。江戸っ子たちは「これは上手い」「こりゃダメだ」と囃しながらお参りした。昔ながらの情緒をさらっと詠んで、とても楽しい。ただ、上五は「や」で切った方がいいように思う。
(水 20.03.30.)

縫ぐるみ脱ぐ春の日の暮るる頃  今泉 而云

縫ぐるみ脱ぐ春の日の暮るる頃  今泉 而云

『この一句』

 筆者は以下のようにこの句を評して選句した。『子ども向けのイベントが終わり、戦隊ヒーローか動物か、着ぐるみから人が出てきた。これも春の長閑な一日の終わりを告げる光景。「縫ぐるみ」という俳句になじみの薄い小道具を持ってきたのが新鮮だ。「暮るる頃」の下五も効いている』と。
 後でこの解釈は違うのではないかと思い直している。「縫ぐるみ」は「着ぐるみ」の間違いであるとの前提で、まさしく遊園地かショッピングセンターの催しの終演後を想像していたのだった。いや、待て、作者は間違いなく「縫ぐるみ」と「着ぐるみ」の違いを分かって縫ぐるみを詠んだのではないだろうか。そう読み直すと、そこにファンタジーの世界が広がって来た。着ぐるみからよりも、小さな縫いぐるみから人が出てきた方が「春の日の暮るる頃」の夢幻を表してうなずける。女児は人形に人格を与え、ときには自分と同化する風も見られる。幼い女の子が縫ぐるみと遊び疲れて、眠たくなる黄昏時。縫ぐるみの中に入っていた自分が、それを脱いで出て来た情景と読めば、なんとシュールな一句だと思うのである。荒唐無稽と言われようが、句の解釈の翼を広げる自由はあろう。折り目正しい作者である先生は一笑するかも知れないが。
(葉 20.03.29.)

木瓜の花あと三年は免許あり   杉山 三薬

木瓜の花あと三年は免許あり   杉山 三薬

『この一句』

 年齢を云々してはいないが、「あと三年は」と述べたことによって、かなりの高齢者であることが分かる。若い者なら免許更新期まで三年ということに何の感慨も抱かないだろう。しかし、高齢者にとっては「あと三年」はこの上なく貴重であり、喜びである。
 田舎は無論のこと、大都市の郊外住宅地でも、近ごろはバスの運転本数が減っている。自家用車が増えてバス利用者が減り、公営私営を問わず経営上の問題から運転本数を間引く。するとますます乗客が減り、それがさらなる本数減を招く悪循環に陥り、ついには路線廃止となる。そうなるとたとえ年寄り家庭でも自家用車に頼らざるを得ない。身体機能が衰え、咄嗟の判断に一拍遅れということが目立つようになり、周りから「もういい加減に運転は止めたら」と言われ、自分でもそう思いながら、止められない。
 そうした状況を詠んでいるのに、この句にはじめじめと落ち込む感じが無い。木瓜の花を取り合わせて老耄をうたいながら、あっけらかんとして「あと三年あるぜ」と強がりを言う元気の良さが嬉しい。
(水 20.03.27.)

八幡の隣は不動草の餅      徳永 木葉

八幡の隣は不動草の餅      徳永 木葉

『合評会から』(番町喜楽会)

双歩 草餅の置き所として相応しい題材ですね。
水牛 面白い。門前仲町の不動堂への道は「深川ご利益通り」なんて呼ばれて、縁日には大いに賑わいます。春には草餅屋も出ています。
水馬 富岡八幡の隣は深川不動。信心より食い気ということで、なんだか可笑しい。
       *       *       *
 筆者もこの句をとったが、票を投じた全員が、八幡は富岡八幡宮、不動は深川不動堂と断定しているのが面白い。関西の友人にこの句を見せたら、おそらく「これ、どこやろか。石切不動と石清水八幡はえらい離れとるしなあ」となるだろう。句会に、ほぼ同じような知見を持つ人々が集まることを前提にして、こういう句は成立している。
 この句の最初の手柄は、ふたつの社寺が隣どうしであることを見つけて句に仕立てたこと。ふたつめは、それに季語の「草の餅」を取合せたこと。この取合せがなんともいえぬ俳味、面白さを感じさせる。くだんの関西の友人には「それで、どないしたんや。ちょっとも意味わかれへん」と突っ込まれそうだが。
(可 20.03.26.)