寝ころんで独りに広き夏座敷   中村 迷哲

寝ころんで独りに広き夏座敷   中村 迷哲

『合評会から』(日経俳句会)

明生 伴侶を亡くされた方の句でしょうか。子供もみな巣立ってしまった。これからは、独りで生活しなければならない。それにはやや部屋が広すぎる。そんな寂しさを感じさせる句だと思いました。
水馬 連れ添いをなくされたのでしょうか。寝ころんで独りをしみじみ実感されたのでしょう。「広し」と切れを入れたほうが好きですが。
睦子 田舎の大座敷でしょうか、大の字になっても優雅な広さは贅沢だなあ。
二堂 座敷に寝転んだ子供の頃、座敷の広さが気になりました。そんなことを想い出させる句です。
          *       *       *
 作者の自句自解によると、佐賀の実家の座敷を詠んだものだそうである。ご両親が他界され、今は無人の家にお盆で帰省し、寝ころんだところ、親族が賑やかに集っていた頃との落差を感じたというのである。
 田舎の昔風の日本家屋の座敷は広くゆったりと出来ている。その真ん中に大の字になれば、吹き通る涼風とひんやりした疊が心地良い。するとたちまち、昔のことが走馬燈のように次から次へと現れて来る。
(水 20.08.06.)

万緑を真四角に伐り駐車場    今泉 而云

万緑を真四角に伐り駐車場    今泉 而云

『季のことば』

 「万緑」という季語は俳句に親しむ人にとって、句作をそそる季語のひとつであると同時に実に難しい主題であると思う。目の前の景を詠めば事足るのだが、何百何千という類句がすでにある。あとはなにかに仮託して詠むか。これも万物の生命力を謳うにはなにか新奇性が欲しくなる。草田男の句の存在はあまりにも大きい。ポピュラー過ぎる季語でありながら、句会で大方を唸らせる句はそう多くないのが実状であるまいか。
 この句は斬新である。樹木と草々の旺盛さを感じさせるのはもちろん、一転環境問題にも一言ありますと詠んでいるようだ。山間の最近脚光を浴び始めた観光スポットだろうか、車でやって来る観光客のために緑を根こそぎ伐り取って駐車場が出来たとみたい。緑一面の自然の中に人工物がポツンと。「こんなことをしないでもいいのに」と、メール選句の一人が慷慨していたが筆者も同意する気持ちがある。句評に戻って結べば、「真四角に伐り」ときっぱりとした措辞にそれが駐車場だというのが面白くもある。
(葉 20.08.05.)

青田風マスク外して深呼吸    金田 青水

青田風マスク外して深呼吸    金田 青水

『合評会から』(番町喜楽会)

白山 今時の感じですね。まさしくこんな感じです。
而云 句会によく出てくるような普通の句ですが、今のこの時代にマッチしている。
幻水 広々した田圃でマスクを外し、思い切り深呼吸する。新鮮な空気が気持ちいいのでしょう。
百子 以前だったら「青田風」が吹く頃に、マスクをしてる人なんかいないでしょうが、いまは、私の住む田舎の田圃を散歩する人でも、マスクをしている人がいます。
二堂 田舎道をマスクをして歩いていたのでしょう。用心深い人ですね。
命水 すがすがしい風が吹く時にはマスクを外して深呼吸したくなりますね。
満智 マスクを外した時の爽快感が実感できます。
          *       *       *
 「以前の句会にあったような気がする」という声が合評会で何人かから出た。確かによくありそうな句であり、何の変哲もない句だ。でも非常に気持が良い。「青田風」という季語のお蔭だろう。
(水 20.08.04.)

井戸替やのぞき込む子の服掴み  向井 ゆり

井戸替やのぞき込む子の服掴み  向井 ゆり

『合評会から』(酔吟会)

三薬 私にもガキの頃井戸替えの作業を、びっくりしながら覗き込んでいた記憶があります。ホントに落ちそうで危なっかしい。服を掴んでくれた大人がいたか、記憶にはない。
道子 非日常にはしゃぐ子供と見守る大人。町内会の絆がうらやましい。
静舟 そんなに覗いたら危ないよ!子供は興味津々。親は冷や冷やで子の袖摑む。状況が面白い。
二堂 怖さ知らずの子供が井戸を覗き込んだのでしょう。危ないという思いがうまく出ています。
水兎 覗いてみたいですよね。私も現場に遭遇したら、絶対覗かせてもらいます。
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 「晒井」という兼題は馴染みがなく、筆者も初めて聞いた。傍題は「井戸替」、「井戸浚」。底に溜まった塵芥などの汚れを浚い、井戸を奇麗にし水の出を良くする作業だという。水道が普及する前は、夏の年中行事だったそうだが、今やめったにお目にかかることはない。句会では、身近に井戸があった頃の記憶を辿って作句した人が多かったようだ。
 作者も子供のころの記憶を探った一人。かつて実家にあった井戸、のぞき込む弟、その弟をしっかり掴む母親の手、と次々と記憶の焦点が定まって、掲句になったという。ついさっき見てきた光景をスケッチしたかのようなリアルな描写がとても魅力的だ。季語には、眠っていた昔の記憶を呼び覚ます効果もあるようで、難しい兼題にも拘わらず、堂々の一席に輝いた。
(双 20.08.03.)

涼やかに岡虎の尾と平茶碗    久保 道子

涼やかに岡虎の尾と平茶碗    久保 道子

『季のことば』

 「岡虎の尾」とは? と首を捻り、辞書を開く。「サクラソウ科の多年草。高さ40~80㌢、夏に白色の五弁花を湾曲した総花序を茎頂につける」などとある。野草らしいが、もう少し知りたいと全七巻の「季寄せ―草木花」で調べてみても出ていない。では歳時記は、これにも出ていない。岡虎の尾は季語ではないのだな、と独断する。
 俳句を始めて半世紀余り。植物についてはそれなりに心得ているつもりだが、それらはほとんど「季語」に限られていたのだ、とこれまた独断。「草花のおおよそは季語と思いがちだが、そうとは限らない」などと書き、当欄の編集者・大澤水牛氏に送稿したら、「 “虎の尾”が季語ですよ」との指摘。いやぁ、参った、参った。
 日本大歳時記で調べ直すと「虎の尾」しか項目がない。ならば、とネットで検索したら、虎の尾には「岡虎の尾」と「沼虎の尾」があるという。岡虎の尾の写真もあり、太そうな花穂に五弁の白い花がびっしりと咲き、先は垂れ下がっていた。この花に平茶碗を配した様子を思い浮かべる――。ようやく端正な茶室が浮かび上がって来た。
(恂 20.08.02.)

部屋干しの下でうたた寝半夏雨  嵐田 双歩

部屋干しの下でうたた寝半夏雨  嵐田 双歩

『合評会から』(酔吟会)

而云 独り者の頃、こういうこともあった。
睦子 自分のことを見られたような気がしてしまいますが、とても面白い。
水兎 雨やコロナで外にも出られず、家の中は洗濯物がぶらぶら。ユーモラスな場面が秀逸です。
          *       *       *
 半夏生、今年は七月一日で関東地方は大雨だった。半夏雨が降ると、その年は雨が多く、台風シーズンも大荒れとの言い伝えがある。ともかく梅雨の最中だから降るのは当たり前、部屋干しもやむを得ない。あれこれ工夫して部屋中に吊り下げ終えたら、疲れがどっと出て思わず昼寝という図であろう。しかし頭の上に洗濯物がぶら下がって、なんとも鬱陶しい。その感じがよく出ている。
 それはそうと、作者は職を退いて以降、家の洗濯担当を引き受けたのだという。だからお天気には一層関心を抱くようになったとか。「風があって乾燥した日は気分も最高。だけど今年は部屋干しが多くなって・・」とぼやいている。
 それにしても洗濯係を引き受けたとはエライもんだなあ。うちのカミサンにはこのブログ見せられないなあ。
(水 20.07.31.)

切通し念仏僧追ふ夏の蝶    藤野 十三妹

切通し念仏僧追ふ夏の蝶    藤野 十三妹

『季のことば』

 「切通し」というから鎌倉七口のどこかである。鎌倉切通は山を切り開いた道だが、今は近代的な道路となっているものもいくつかあって、この句に相応しいのは当然両面から岩の壁が迫る往古の切通だろう。五山をはじめ僧侶の姿が鎌倉に多いのは自明だ。僧が昼なお薄暗い切通を念仏を唱えながら歩いている。五山はすべて臨済宗で念仏を唱えないから、他宗の僧であろうか。僧衣にしみついたかすかな抹香の匂いに引かれてか、蝶が一つついて来る。後になり先になり、いずれにしても絵になる光景である。
 蝶は春から秋まで、時には冬にも見られるが単に「蝶」と言えば春の季語になる。
 作者は「夏の蝶」を詠んだ。春は紋白蝶に代表されるように嫋やかで可憐な姿。いっぽう夏蝶は揚羽や黒揚羽のように大振りで派手。この句は墨染めの衣に黒揚羽がまといつきながら、ほの暗い切通を行く俳味ある景を切り取ったのだと思う。作者はふだん迫力のある強い言葉を好んで使う人だがこれはまことに大人しい。いい意味で最近は人変わりしたのではと感じるのである。
(葉 20.07.30.)

自粛明けマスクの剣士夏稽古   荻野 雅史

自粛明けマスクの剣士夏稽古   荻野 雅史

『この一句』

 コロナ緊急事態宣言が解除となり、稽古自粛が続いていた道場が再開された。待ちかねていた剣士たちが集まったが、感染防止のためマスクを付けての稽古となる。防具を付け、さらにマスク着用の夏稽古だが、掲句からは意外に暑苦しさを感じない。
 句会でも「ようやく自粛明けとなり、颯爽と少年剣士が練習に向かう姿がわかる(二堂)」、「マスクをかけての稽古、異常な環境下で稽古に励む爽やかで颯爽とした姿が浮かぶ(操)」と、爽やかな剣士像をイメージした人が多く、高点を得た。
 五七五の言葉がそれぞれに爽やかさにつながっている。「自粛明け」には数カ月に及ぶ我慢から解放された喜びがにじむ。「マスクの剣士」は白覆面の時代劇の主人公を連想させる。そして「夏稽古」からは明るい光の中、稽古に取り組むひたむきな姿が見える。
 作者は「剣道の稽古が4か月ぶりに再開され、汗を流した喜びと清清しさを詠んだ」というが、事実を並べた素直な表現から、その気持ちがストレートに伝わる。ちなみに使ったマスクは剣道連盟推奨の、顎を締め付けない覆面タイプという。色は紺色で「竹刀を振る剣士たちは夜盗集団のようだった」という落ちが付いた。
(迷 20.07.29.)

涸れミミズ昨日と同じフェンス脇  斉藤早苗

涸れミミズ昨日と同じフェンス脇  斉藤早苗

『季のことば』

 蚯蚓(ミミズ)は夏場活動的になり、よく人目につくようになるので夏の季語になったようだ。大雨が降り続いた後、急な日照りに見舞われると、路上に沢山のミミズが干からびていることがある。時にはほんの十数メートルに百匹以上転がっていることもある。
 20年ほど前、朝夕の犬の散歩でこの「ミミズの集団自殺」によく出遭い、「干からびて蚯蚓疑問符描きをり」と詠んだことを思い出した。とにかく丸まったり長く伸びたり疑問符の形をしたりして干からびているのだ。
 普段は土中に棲み、土を呑み込んで中の栄養分を吸収して大きくなり、子孫を増やす暮らしをしているから、蚯蚓は元来は湿気を好む。しかし、肺も鰓も無い皮膚呼吸だから、長雨で水浸しになると窒息してしまう。苦しくなって地上に這い出す。少し乾いた土中に潜り込めればいいが、そこに行くまでに体力が尽き、お日様に当たり過ぎたヤツはあえなく干物になってしまう。というのが「涸れミミズ」出現の経緯だ。
 路上の涸れミミズは一顧だにされない。次の雨で流されるか、風化して粉になって飛散するまで、疑問符を描いて横たわっている。この句は「昨日と同じフェンス脇」と、無技巧の技巧と言おうか、見たままを詠んでとても面白い。
(水 20.07.28.)

この頃は客人もなし蛍草     高井 百子

この頃は客人もなし蛍草     高井 百子

『季のことば』

 蛍草(ほたるぐさ)は、道端や庭の隅で青い可憐な花をつける露草(つゆくさ)の別名である。露草は古名を「つきくさ」といい、朝咲いた花が昼には凋み、朝露のように儚いことから露草と呼ばれるようになったとされる。その可憐さ、儚さを愛で、古くから和歌や俳句に詠まれてきた。開花期は6月から9月で7月が盛期だが、秋の季語となっている。
 掲句の作者は螢草の咲く庭を眺めながら、誰も訪ねて来ない「この頃」に思いを巡らせている。素直に読めば、コロナ禍による外出自粛で、客がほとんど来なくなった「新常態」を嘆いている句であろう。さらに深読みをして、リタイア後に来客が減った老年の境遇を「この頃」に重ね合わせているのではないかと考えた。
 名乗り出た作者によると、コロナの「この頃」を詠んだものという。作者が5年前に移り住んだ上田市の自宅は、独鈷山の借景と広い庭があり、ゆったりとした間取りの一軒家だ。家族はもちろん、友人、知人の訪れは頻繁で、句会の吟行でお世話になったこともある。千客万来の賑わいが急に失われた淋しさが「この頃は客人もなし」の上五中七に滲む。季語の蛍草のひっそりとした佇まいが響き合い、しみじみとした感懐を覚える佳句である。
(迷 20.07.27.)