初冬の手櫛にからむ白髪かな   徳永 木葉

初冬の手櫛にからむ白髪かな   徳永 木葉

『合評会から』(酔吟会)

てる夫 自分自身は櫛をあまり使わないので、よくわからないのですが、老いの情景を「初冬」にからめてうまく詠んだと思います。
百子 最近は私も抜け毛、白髪が多くなってきました。まさしく私のことだなあと実感して読みました。
双歩 私も手櫛をやるとこんな思いになることがあります。最初にこの句を選んだのは私ですが、その後ばたばたと点数が入り、まさか四点句になるとは思いませんでした(笑)。
*       *       *
 なかなか信用してもらえないのだが、筆者は若い頃は行きつけの理髪店のオヤジに「床屋泣かせだよ」と言われるほどのボサボサ髪で、「手櫛」が癖になっていた。40代になるや白髪が増え始めると同時にバラバラ抜け始めた。そんな昔を思い出して、「そういえば初冬になると抜け毛が多くなったもんだなあ」などと頭を叩きながら懐かしみ、この句を採った。作者が解って、その年になってまだ手櫛を掻くとは「化け物だよ」と毒舌を吐いた。
冗談はさておき、この句はなんと言ってもしみじみとした感じが伝わってきて、「初冬」の季語と非常にうまく呼応している。女性の句だと思っていたのだが、老齢男性も思いは同じであろう。
(水 20.12.01.)

蒼穹をつらぬく尖塔冬めきぬ   和泉田 守

蒼穹をつらぬく尖塔冬めきぬ   和泉田 守

『この一句』

 いきなり蒼穹(そうきゅう)という大仰な漢字で詠み出し、尖塔という古めかしい言葉につなげる。日ごろ見かけない二つの堅い言葉が重なり合うと、意識が日常的な光景を離れ、異国へと誘われる。結語の「冬めきぬ」まで読み下すと、欧州辺りの古都で、澄み切った青空にそびえ立つ教会の映像が浮かんでくる。
 さらに蒼穹と尖塔という二つの漢字を、「つらぬく」という柔らかな平仮名で結ぶことによって、漢字の硬質さを際立たせている。漢字と平仮名がバランスよく配され、句調だけでなく視覚的にもリズムが感じられる句だ。
 冬めくという季語は「あたりの景色の変化や、冬の到来とともに現れる食べ物や衣類などを目にするにつけ、いかにも冬になったなあという気分を表現する」(水牛歳時記)。蒼穹の「蒼」は深い青色を、「穹」は天空を意味するとされる。晴れ渡った日の透徹した青空は、まさに冬到来を感じさせる。その冬空に屹立する尖塔。硬質な空気感も伝わる。作者に聞くと、近年よく訪れるイタリアやスイスで目にした風景をもとに詠んだ句という。
 「ヨーロッパの風景がよぎる。青く澄む冬の天空に際立つ十字架の尖塔。気持ちも引き締まる」(操)という句評を見ると、作者の意図は、読み手に十二分に伝わっているようだ。
(迷 20.11.30.)

冬初め温もりのある寒さかな   山口斗詩子

冬初め温もりのある寒さかな   山口斗詩子

『季のことば』

 季節感を詠むのが俳句ではあるが、この句は修飾物のすべてを投げ捨て、初冬の季節感そのものだけを句に仕立てた。それも最初に「冬初め」、最後に「寒さ」という季語を置いた。さらに真ん中の「温もり」を「ぬくし(春)」と考えれば、一句がすべて季語で成り立つという、とても珍しい句になってしまう。
 しかし私は句を見た時、「初冬の頃のこういう感じ、確かにあるなぁ」と共感した。立冬を過ぎて間もなく、薄日のさすような日ではないだろうか。この微妙さは、急いで家を出た、というような状況では感じることが出来ない。例えば薄曇りの日、散歩に出て、誰もいない公園の中でふと感じたのだ、と私は勝手に想像した。
 「皿を踏む鼠の音の寒さかな」(蕪村)。「くれなゐの色を見てゐる寒さかな」(星野立子)--。さまざまな寒さがあるが、初冬の微妙な寒さと温もりに絞って詠んだ句は非常に珍しい。それだけに、句のすべてが「寒さかな」に向かって行くような詠み方をして欲しかった。即ち上五は「初冬の」としたい、と私は思っている。
(恂 20.11.29.)

池普請ポイ捨ての恥白日に    岡田 鷹洋

池普請ポイ捨ての恥白日に    岡田 鷹洋

『この一句』

 「池普請」は灌漑用水をコントロールする溜池の整備作業にもともとの起源がある。水量が細くなる渇水期に池の汚泥除去や堰堤整備をして翌春の耕作に備える。村落の住民が狩り出され、泥まみれのお返しに池の鯉や鮒などの獲物を頂く。それは季節のお供え物にもなる。農協系の食品スーパーではこの時期、小鮒の予約販売を行う。「池普請」には米作地域の生活習慣が滲む。農村型の季語、池普請である。
 「池普請」は近年、テレビのバラエティー番組で脚光を浴びている。民放キー局で、神社仏閣の庭園浄化や公園の池での「お宝探し」が人気番組に。お笑い芸人に大学の生物学の先生も参加してのドブ浚い。排水ポンプを動かし、巨大魚や珍しい外来魚はいないか、歴史の遺物はないかと探る。近隣の住民が見物に来て賑わう。ある種のボランティア活動であり、自転車や古タイヤなどに大騒ぎする、お笑いの一面も。これは都会型の池普請。
 掲載句はまさしく都会型だ。
(て 20.11.27.)

秋晴れに親子並びて影送り    池内 的中

秋晴れに親子並びて影送り    池内 的中

『この一句』

 寡聞にして、影送りという遊びを知らなかった。句を最初に読んだ時は、影踏みに類した遊びを想像し、秋晴れの季語としっくりこないと思って採らなかった。
 ところが調べてみると、眼の残像現象を利用したちょっと不思議で楽しい遊びという。晴れた日に地面に映った自分の影を、瞬きをせずに10秒ほど見詰めてから空を見ると、白い影が浮かんで見える。陰性残像という現象らしい。すぐに外に出て試したが、びっくりするほど大きな自分の白い影が見えた。
 影送りの意味が分かって句を読み返すと、爽やかな秋空の下、楽しげに影送りに興じる親子の姿が見えてくる。影が濃く、くっきりしているほど、残像も明確に出る。秋晴れの日ほどふさわしい天気はない。「親子並びて」の中七に、子供と一緒に遊び、気持ちを通わせる親の喜びが滲む。
 影送りは昔からある子供の遊びだが、小学校の教科書に掲載された「ちいちゃんのかげおくり」という物語で広く知られるようになったいう。戦争の悲惨さを伝える内容だが、親子4人で遊んだ影送りが、家族をつなぐ思い出となっている。掲句は幼い頃に影送りで遊んだ作者が、子供にやり方を伝えているのであろうか、仲の良い親子の影が青空に白く、鮮やかに浮かんでくる。
(迷 20.11.26.)

柿の樹の紅葉眺めつ朝ご飯   井上 庄一郎

柿の樹の紅葉眺めつ朝ご飯   井上 庄一郎

『この一句』

 窓外の美しく紅葉した柿の葉を眺めながらゆっくりと朝御飯、と言っているだけの句である。意地悪な言い方をすれば、「そうですか、それは結構でした」という返事が聞こえて来る句、ということになる。
 文字通り日常茶飯事をすらりと詠んだ句だから、これでもかと趣向を凝らした句がひしめき合う句会では埋没してしまいがちだ。実際、句会では誰にも取られなかった。かく申す筆者も見逃してしまった。しかし、作品集としてまとめられたものを改めて読み直すと、「柿の樹の紅葉」という一見まだるっこい読み方がなかなかのもだと思えてきた。
 おそらくこの柿の木はかなりの老木で丈も高いに違いない。それが朝御飯を食べる茶の間か食堂から仰ぎ見るような位置に立っているのだ。作者にとっては長年の相棒のような樹なのだろう。
 柿紅葉は実に美しく印象的である。大きな葉が黄色みを帯び、そのうちに赤みが差し、やがて朱色、紅色になるや、ぱらりと落下する。その成り行きを毎朝の「御飯」時に眺めているのだ。実に味わいがある。ましてや御年93歳の句会最長老の句と解って、己の鑑賞力の未熟を恥じた。この「朝ご飯」というさりげない言い方に気が付かなければいけなかったのだ。
(水 20.11.25.)

ごみ出しの堅きサンダル冬はじめ  塩田命水

ごみ出しの堅きサンダル冬はじめ  塩田命水

『季のことば』

 俳句は季節の微妙な変化を多様な季語で表す。歳時記には冬を冠する時候の季語だけでも、初冬(冬初め)、立冬(冬に入る)、冬浅し、冬暖か、冬麗、冬めく、冬ざれ、冬深し、冬終るなど多数並ぶ。初冬は、立冬を過ぎてからの1か月ほど。新暦では11月初めから12月初旬にあたる。「まだ晩秋の感じも残るが、寒さに向かう引き締まった気分も感じさせる」(角川歳時記)季語だ。
 掲句は季節の変わり目を、サンダルという意外なもので表現する。早朝に妻に頼まれたのか役割分担なのか、サンダルを履いてごみ出しに出た。おそらく素足であろう。暖かい時には感じなかったサンダルの堅さに気づき、冬の訪れを皮膚感覚で捉えている。鋭敏な感性に共感する人が多く、句会で高点を得た。
 冬初めは映像を持たない季語なので、見聞した情景や体験によって季節感を具体的に表すことになる。早朝のごみ出しという生活の断面で気づいた季節の変化。サンダルの堅さは、作者の小さな驚きと初冬の硬質な空気感を、鮮やかに伝えている。句会では、漢字は「堅き」でいいのか、「硬き」や「固き」ではどうかという声もあった。冬初めの季節感にどの漢字がしっくりくるか、これも微妙な感覚が問われる。
(迷 20.11.24.)

時雨るるやむかし駅舎の在りし町  須藤光迷

時雨るるやむかし駅舎の在りし町  須藤光迷

『この一句』

 冬の季語である「時雨」を、上五に「しぐるるや」として置いた俳句はたくさんある。
  しぐるゝや黒木つむ家の窓明り    野澤 凡兆
  しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり   芥川龍之介
  しぐるゝや目鼻もわかず火吹竹    川端 茅舎
 この他にも、正岡子規、種田山頭火など、少し調べただけでもいくつも出て来る。それなのに、筆者はこの句を読んですぐに安住敦の「しぐるゝや駅に西口東口」を想起した。ストレートに言えば「似てるな」と思った。それはおそらく中七に「駅舎」が出て来るからだろう。しかし、よく読んでみるとただそれだけの事である。類想の句ではなく、この句はまったく別の、独自の世界を切り取っている。
 作者によれば、この句の舞台は新潟県五泉市にある、廃線となった蒲原鉄道の駅らしい。ネットには往時の駅舎やホーム、車両などの写真や、現在の廃線跡の草むした写真などがたくさん掲載されている。ああ、この町に時雨が降ったのだなと想像すると、頭の中で「新日本紀行」のタイトル音楽が鳴り始めそうだ。
 冒頭の話に戻る。上五に「時雨るるや」と置かれたことで、一句は郷愁を感じさせる、とても味わいの深い句に仕上がっている。字面だけで「似てるな」と思ったことを今は恥じている。
(可 20.11.23.)

南瓜割る妻の顔つき伐折羅さま  澤井 二堂

南瓜割る妻の顔つき伐折羅さま  澤井 二堂

『この一句』

 奥さんが南瓜を割ろうとしている。とても固く、鉈(なた)割り南瓜と呼ばれるものらしい。このタイプの南瓜を料理するには、丸ごと茹でればいい、コンクリートに叩きつければいい、などと言われるが、奥さんはあくまでも包丁を手に立ち向かう。句の作者、すなわちご主人は、そんな奥さんの顔つきが「伐折羅(ばさら)さま」のようだと詠んだ。
 ならば伐折羅さまとは? 薬師如来やその信仰者を守る十二神将筆頭格の武神である。例えば奈良・新薬師寺の伐折羅大将は髪を逆立て、目を見開き、大口を開けている。この顔つきで悪霊などを脅し、薬師様や人々を守ってくれることになっているが、「伐折羅さま」と呼ばれると、人々を優しく守る民間信仰の仏様のような感じもする。
 句の作者が分かって、思い当たることがあった。長く日本画を描いていて、相当な腕前の人なのだ。「仏画に凝っている」という噂も聞いていた。問い合わせたら「最近は不動明王とか怒りの顔にも興味を持っていまして・・・」。その一つが「伐折羅さま」であった。奥様の表情は目的を果たせば、たちまち「如菩薩」に変わるはずである。
(恂 20.11.22.)

何もない十一月の過ぎてゆく   斉山 満智

何もない十一月の過ぎてゆく   斉山 満智

『季のことば』

 一月から十二月まで月名はすべて季語とされている。ややこしいのが、睦月、如月、弥生・・・神無月、霜月、師走という陰暦(旧暦)の異称と新暦の十二ヶ月との関係である。年によって日にちにずれがあるが、新暦が概ね一ヶ月ほど旧暦より先行している。だから睦月というのは新暦では二月になる。「さくらさくら弥生の空に」は旧暦三月だが、新暦で桜が咲くのは四月である(もっとも地球温暖化で近頃の関東では三月中に開花するが)。日本国中の神様が出雲に集まり、若き男女の結びつきを協議するという神無月は旧暦十月だが、新暦では十一月である。
 今でも粋がってこの異称を用いる俳人が多いが、新暦三月を「弥生」、九月を「長月」などと単純に言い換えて詠むと、句意や季節感を損なう原因となり、混乱を招く。ただし慣例で一月を「睦月」、十二月を「師走」という呼称が定着しているので、この二つはさておき、他の月はこの句のように数字による月名で詠んだ方がすっきりする。
 この句は十一月をまことにうまく詠んでいる。7歳・5歳・3歳の子供や孫のいない家庭にとっては、それこそ何にも無い月である。しかし農業の盛んだった時代の十一月は、一年で最も大切な祭日の一つ「新嘗祭」(にいなめさい・11月23日)が行われる重要な月だった。稲をはじめすべての農作物の収穫を終え、天皇が神に収穫を感謝し、新穀を供えて祀り、それを食べる儀式を行う。万民もそれに習い、新穀を醸した新酒で祝った。それも今や「勤労感謝の日」などというわけのわからない祝日に堕している。
(水 20.11.20.)